第2700地区・地区史ノート

記録が散逸しないうちに、地区の歴史をまとめておいたほうがよいのではないかという意見があります。 一方、地区史をまとめるとなると、その編集方針を決めるのも一仕事ですし、本を出すとなると、地区内の全会員に配布するだけでも、会員の数は減っているとはいえ、4000部くらいは印刷しなければなりません。 その出版費用は、いったいどこから捻出するのか、この不況のときに、そんな余裕などないではないかという意見もあります。 また、たとえ出版するための予算があったとしても、資料集めの仕事や、原稿を書くのは、一体、誰がやるのかなど、地区史を作るについては、いろんな意見があります。地区のガバナー諮問委員会に懸けてみましても、特にこれといった意見はありません。

いま、地区史ノートを作ることを思い立ったのには、いくつかの訳があります。 第2700地区は、1982-'83ロータリー年度に、それまで福岡県・佐賀県・長崎県の3県で一つのテリトリーであったものが、福岡県と佐賀県の鳥栖市、長崎県の壱岐・対馬が一緒になって、独立してRI第270地区となりました。 それが現在の第2700地区です。 そのときに分離した佐賀・長崎の2つの県は、RI第273地区となりました。 第270地区は、その後名称変更で、第2700地区となりました。 現在のテリトリーが分離して、一つの地区として独立して以来現在までの20数年間、地区のまとまった記録がありません。 これが、第一の理由です。

日本国内の各地区について調べてみますと、地区史としてまとまったものが出版されている地区は、以外に少ないようです。 これは、第2700地区のように固定の地区ガバナー事務所を持っている地区が少ないからです。 固定の地区ガバナー事務所を持たない地区では、地区ガバナーが交代するたびに、その都度年次報告書が発行され、これが、地区史に代わる出版物になっているからです。

第2700地区では、固定の地区ガバナー事務所がありますので、殊更に年次報告書を発行せず、過去の資料については、必要に応じて地区ガバナー事務所の資料室で調べればよい訳です。

1981年6月に、ロータリー創立75周年を記念して、『国際ロータリー第270地区史』が発行されました。 『RI第270地区』という地区の呼称とそのテリトリーの変遷については、いずれ稿を改めて書きますが、この地区史が発行されてから、既に20年を越えました。 その間には、テリトリーも変わりましたし、なによりもロータリーそのものが変わりました。この間の資料は、完全に保存されてはいるものの、地区の再編、会員の移動、ロータリーを取り巻く社会情勢の変動、それに伴ってのロータリー活動の変化など、ロータリーの内外には、目まぐるしい変化が起こっています。 しかも昨今のように、ロータリーの基本ともいえるルールのいくつか、或いは消滅し、或いは原型を止めぬほどに変容しているとき、過ぎ去った20年を回顧することは、21世紀のロータリーを考える意味からも、必要ではないかと思われるのです。 これが第二の理由です。

混乱の時代を乗り切るには、歴史に学べと申します。 ロータリー創立 100周年を迎えようとするとき、第2700地区史を刊行することは、決して無駄なことではないと思うのです。

この地区史稿は、この内容をもって完結したものではありません。 私の手元にある資料をもとにして、まとめたものに過ぎません。 これをお読み頂いた会員の皆さんは、これを契機に、地区の流れに興味を持っていただきたいと思います。 そして、出来れば、あの時はこうだったと、過去の出来事を思い出して下さい。 会員の皆さんのご記憶や、保存資料がございましたら、どんなものでも結構ですから、『地区ガバナー事務所』か、『戸畑東ロータリー・クラブ』の『菅 正明』宛、資料をお寄せ下さい。

地区史を刊行するか否かは別にして、地区に関する記録や資料だけは、出来るだけ多く保管しておきたいと考えながら、このノートを書いております。 会員の皆さんのご協力をお願いいたします。

日本の戦後史を辿ってみますと、1955年から10年間は、私どもの生活にとって、大へん重大な意味を持っていると思います。 明治維新以来、日本は欧米に追いつけ追い越せと、絶えず努力を続けて来ました。 第二次世界大戦でその願いは、一時挫折はしましたが、その目標が達成出来たのが、この時代といってもよいでしょう。そして、ロータリーは国際的にも、日本国内においても、この時期にロータリー活動の原型の多くが、この時期に出来上がっているのです。ロータリーの創立以後、第二次世界大戦を経て戦後日本が国際ロータリーに復帰して、1950年代の半ばに至るまでの、日本の、さらに西日本のロータリーの流れについては、2002-'03年度ガバナー月信7月の『梶原景親著:ロータリー100年の歩み』や『ロータリー五十年史』などをお読み下されば、詳しく書いてありますので、それをご覧頂くことにして、ここでは概略を述べておきましょう。

戦後、1949年3月23日東京仮ロータリー・クラブが、発足し、小林雅一が会長に指名されました。 日本のクラブが、国際ロータリーに復帰するには、3つの条件がありました。 即ち、それまで存続していた各曜会の解散、国際ロータリー定款細則の厳守、及び国際ロータリーに関する義務の完全履行、の3条件です。 特に、戦前の日本のロータリー・クラブは、日本国内のクラブだけで1つに固まり、独自の活動を計画することがありましたので、そのことがないようにとの条件がつけられました。 この年、京都、大阪、名古屋のクラブ、次いでが4月22日に福岡ロータリー・クラブが復帰し、これに札幌クラブが加わって、以上の7クラブでRI第60地区を形成することになりました。

1950年6月朝鮮戦争が勃発しましたが、この年からよく1951年にかけて新旧あわせて28クラブが誕生、会員も戦前は実業人だけだったのですが、医師、弁護士、教育家、芸術家、宗教家など、多くの職業人がメンバーに加わるようになりました。 この時期、日本国内のロータリー・クラブの拡大は目を見張るもので、日本を、石川・岐阜・三重の3県より東日本の38クラブを第60地区、福井・奈良・滋賀・和歌山を含む西日本の28クラブを第61地区に分割することになり、1952年7月1日から実施されました。東西2地区に分割後最初の地区大会は、1952年11月15,16の両日福岡市九電会館で開催されました。

ロータリーは、1955年2月、創立50周年を迎えました。日本国内でも、各地で盛大な祝賀会が催されました。 これより以前から、国内地区の分割が計画されていましたが、この年全国を4地区に分割、岡山県以西の12県は、第64地区に所属することになりました。

当時の国内の状況は、『もはや戦後ではない』という一言に象徴されるように思われます。 国民支出のなかで、衣服・住宅費の割合が食料費を超えたのもこの頃ですし、造船・建築・土木その他多くの産業が強気になって、設備投資や生産活動が活発になった時代です。戦後生まれの『団塊の世代』も、この経済成長によって、雇用不安は解消された訳です。しかしながら一方では、徐々に進行するエネルギー革命が進行して、やがて鉄道輸送は車へと変わり、それから10年も経たないうちに、筑豊炭田は完全に消滅してしますのです。

すでに述べましたように、1955年(昭30)に全国は4地区に分かれ、西日本では岡山県以西が第64地区となりましたが、2年後の1957年(昭32年)、国際ロータリーの地区番号整理により、この第64地区は第370地区に呼称変更されました。 このとき、全国は5地区になりました。 地区の編成替えは、RIの事務的方針によるものですが、一方、日本国内のロータリー・クラブの熱心な増強・拡大活動の成果を示すもので、日本におけるロータリーは、めまぐるしい勢いで広がるとともに、その活動内容も、年とともに充実して行きました。

この当時、『一都市一クラブ』というのがRIの原則で、例えばニューヨーク市などでは、大都市にも拘らず1つのクラブしかなく、しかも『一業種一人』の原則が厳しく守られていましたので、入会希望者が多くて、処理しきれない状態でした。この解決策として生まれたのが、1つの都市に複数のクラブを認めるという『アデイショナル・クラブ』の制度です。福岡西RCが、九州最初のアデイショナル・クラブとして創立されました。

この当時は、その他にもロータリーのルールは大へん厳しく守られており、クラブのテリトリー決定ひとつを見ても、大へん厳しいものがありました。 例えば、福岡西RCでは、山田 穣(当時は九州大学学長)、進藤誠一(九大仏文科教授 1962-'63年度地区ガバナー)の両氏が会員でしたが、ガバナー公式訪問の際に、二人とも福岡西RCのテリトリー外だから会員資格はないと指摘されて、問題になったことがあります。その後、どのような手続きのもとに処理されたか明らかではありませんが、当時ロータリーに関するルールが厳しく守られていたことは、現在ではとても想像できないことでしょう。

1956年10月に横浜で開催された第62地区の年次大会で、国際大会の東京誘致が決議されました。これを受けて、1958年1月のRI理事会で、1961年国際大会東京開催が、正式に決定しました。

東京での国際大会開催は、世界的にも大きな反響を呼び、前年度のマイアミ国際大会では、『友愛の家』に日本のブースが設けられ、日本から持参したプレゼント用の扇子や法被が、大会に参加したロータリアンの間で、奪い合いになる状態でした。 国際大会開催の前景気は上々であったものの、1961年といえば、安保改定をめぐって、全学連の安保反対闘争が最盛期を迎えた年です。 一時は、東京国際大会も中止しなければならないかと危ぶまれましたが、5月28日の前夜祭には、天皇皇后両陛下をお迎えすることが出来ました。 その後、6月1日までの5日間の会期を無事盛大に終えることが出来、参加国74ケ国、登録数23,366人という新記録を樹立することが出来たのです。 この年1961年(昭36)、第370地区のテリトリーは、九州全県と山口県になりました。

1961年の東京国際大会は、日本におけるロータリー新時代の幕開けだといってもよいでしょう。 日本国内では、各地で盛大な地区大会が催され、国際社会のなかでの日本のロータリアンの責務や、ロータリーと国際理解などをテーマとして、熱の入った議論がなされました。ロータリーは創立以来、絶えず国際的な若者の人作りを、奉仕活動の柱の一つにしています。 わが国でも、1963年(昭38)6月には、仙台市の仙台育英高校に、仙台RCの提唱により本邦初のインターアクト・クラブが誕生しました。 各地のロータリー・クラブの国際的な奉仕活動が盛んになったのも、この頃からです。 例えば、豊前RCでは、友愛のしるしとして、杉の種子を米国やカナダなど国外の22クラブに送る活動をしましたが、そのうちカリフオルニアのオレンジRCでは、贈られた種子から育った杉の苗木を競売して、その売上金を、日本の女子留学生にプレゼントするというような国際交流も目立つようになりました。 このように日本国内だけでなく、ロータリーは世界的にもその活動を広げて行きましたが、そこに起こった1963年11月のケネデイー米大統領の暗殺事件は、世界の人々に強い衝撃を与えました。

(菅 正 明) 

1964年(昭和39)は、日本でオリンピックが開催された年です。 東海道新幹線も開通しました。 この年、中国地方の岡山、広島、鳥取、島根の四県に、第370地区に所属する山口県が加わって、第369区となり、先に述べましたように、山口県が分離した後の全九州が一つの地区として独立して、第370地区となりました。 このときの地区編成替えで、日本国内は、10地区となったのです。

その4年後の1968年(昭和43)、九州は南北2地区に分かれ、北部の福岡、佐賀、長崎の3県が第370地区に、南部の熊本、宮崎、鹿児島の3県が第375地区となりました。 この当時、日本国内の各地区の呼称は、全て『300台』です。

地区の呼称は、世界のロータリー・クラブの分布、拡大状況によって、RIで変更されます。 1977年(昭和52)、日本国内の地区呼称は、それまでの『300台』から『200台』に変わり、それまでの『第370地区』は『第270地区』と変更されました。

やがて、1982年(昭和57)に第270地区は、福岡県、佐賀県の鳥栖市、長崎県の壱岐を含む第270地区と、佐賀県および長崎県から鳥栖市と壱岐とを除いた第274地区とに分かれました。 この分割案については、鳥栖、壱岐、壱岐中央の各クラブから、条件付承認の申し出があり、条件通りに、佐賀県の鳥栖RCは交通上の理由から、また壱岐、壱岐中央の両RCは、所在は長崎県ではあるが、壱岐と九州本土との交通機関は、水路も航空路も福岡市を経由しており、長崎市からの定期航路がないため、福岡県を主テリトリーとする第270地区に所属することになりました。

ロータリー創立75周年記念事業は、福岡、佐賀、長崎の3県よりなる、旧第270地区で計画実行されましたが、これについては、改めて述べることにします。

第270地区が第2700地区となるのは、これより後1990年(平成2)のことで、それ以後は呼称の変更はなく、現在に至っています。 以上、いささか冗長と思われるような、地区の呼称の推移について書きましたが、これはあくまで国際ロータリーのクラブ・ナンバーの整理によるもので、特別な意味はありません。

1949年(昭和24)、日本のRI復帰のときは、既に述べましたように、日本全国が1つの地区で、呼称は第60地区でした。この時、第60地区を形成したのは、東京、大阪、名古屋、神戸、福岡、それに札幌の7クラブです。

RIへの復帰後、国内の地区は何回かの編成替えを経て、1994年(平成6)日本全国34地区が出来上がり、2001年(平成13)新潟、群馬両県1地区が2つに分割されて、全国が34地区ななり、さらに2002年(平成14)宮城、岩手両県が合併して現在の56地区になっています。

日本国内の地区数の変遷は、国内ロータリー発展の歴史でもあります。 1981年(昭和56)、この地区史ノートを始めた年度には全国24地区でしたが、10年後の1990年(平成2)には、全国30地区になり、既に述べましたように全国34地区になったのは1994年のことです。 1981年から2001年まで20年間の、日本国内の地区数、クラブ数、会員数の推移を示したのが第1図です。 この時期を振り返って見ますと、戦後日本国内では、1960年(昭和35)7月池田内閣成立以後の経済成長政策の遂行、いわゆる所得倍増計画には多くの問題点はあったにせよ、日本の国際競争力を高め、日本人の生活様式を大きく変えて行きました。 それ以後の二度に渉る石油危機、プラザ合意以後の円高と国際化、さらにはバブルとその崩壊、と、それがとりもなおさず、日本における地区数ひいては会員数の変動の歴史でもあります。

第1図
図1

また、第2700地区(第270地区)が、現在の福岡県佐賀県鳥栖市、長崎県壱岐、対馬をテリトリーとするようになってからの、地区内のクラブ数、会員数の推移を示したのが、次の第2図です。 また、同じ時期の世界のクラブ数、会員数の動きを第3図に示しておきましたので、3つの図を比べてご覧ください。

これは、また後ほど会員増強と関連して書きたいと思っていますが、会員増強を図るには、ただ人数が増えればよいという単純な発想も必要ですが、それと同時にロータリーは、ある時代になにを目標として活動すべきかを考えておくことも大切です。

第2図
図2

第3図
図3

(菅 正 明)

1965年(昭和40)、ロータリーは創立60年を迎えました。日本では、60年といえば『還暦』ですから、東日本の6地区、西日本の5地区は、それぞれ連合年次大会を開催して、盛大なお祝いをしました。

東日本では、10月11,12の日の2日間、東京代々木競技場で、出席人員8,283名という記録的多数の会員の参加を得て開催され、皇太子殿下のご出席を仰ぎ、ライシャワー米大使の祝辞を頂きました。また、西日本では、同じく10月22日、京都祇園の歌舞練場での前夜懇談会に始まり、翌23日は、西京極スポーツ・センターで会員7,626名の登録を得て、盛大な会合が開かれました。当日は、『国土を緑と花で美しくする運動』が、大会決議として採択されました。

今日の環境保全運動のさきがけと云ってもよいでしょう。環境問題に関する京都議定書が生まれたのも、同じ京都です。日本のロータリーは、世界に先駆けて、京都で環境問題を取り挙げたと云う訳です。

ロータリー創立60周年を迎えた翌年の1966年、RI会長のテーマ『ロータリーでよりよい世界を』に応えて、第370地区では、米国の第717, 第719, 第721の各地区と協力して、フィリッピンの農村復旧活動を支援しました。 これが、日本からの最初の世界社会奉仕です。 ロータリーはこれまで、国際親善を奉仕活動の主な柱の一つにして来ましたが、エバンスRI会長のこのテーマは、『よりよい世界―better world』という言葉に象徴されているように、全世界の繁をターゲットにした最初のものです。 やがて、生活環境の保護や、世界人類はひとつ、世界平和などという言葉が、RI会長テーマのなかに取り上げられるようになりますが、これはロータリーの歴史にとって、大へん重要なことです。 ロータリーは『職業奉仕の団体』から『国際奉仕の団体』へと変貌するのですが、その萌芽はすでにこのろからあったのでしょう。

1967年、東ケ崎 潔(東京RC)がRI会長エレクトに指名されました。 国内では、ロータリー記念米山奨学会が財団法人となり、また、1970年開催予定のEXPO'70のための万国博ロータリー組織委員会が設立されました。 沖縄で初めて第358地区の地区大会が開かれたのも、この年です。

1960年代から1980年代にかけては、戦後におけるロータリーの歴史のなかで、増強、拡大のもっとも盛んな時期だったといってもよいでしょう。 現在の第2700地区59クラブのうち、1960年から1980年の20年間に35クラブが創立されています。 地区内クラブの60パーセントは、この時期に誕生したことになります。 ロータリーの発展とともに、その組織は次第に複雑化し、地区では地区ガバナーの負担が次第に重くなって来ました。 1969年、地区ガバナーの負担を軽減するために、地区に地区幹事、地区会計長を設けることになりました。

この当時、地区のテリトリーは現在より広く、地区ガバナーのクラブ公式訪問には、大へんな時間と労力を必要としました。 例えば、田中丸善三郎パスト・ガバナーなどは、マイクロ・バスのなかにベッドを持ち込んで、車の中で休息をとりながら、公式訪問を続けたそうです。 その頃から1980年頃まで、RIから送られてくる文書類は全て英文、また、地区ガバナーからRIへの報告書も全て英文で書かなければなりませんので、ガバナーは苦労しました。 地区幹事のなかに英語に堪能な会員を加えなければならなかったそうです。 地区幹事や地区会計長が専任になったのも、こういった背景があったからです。

1960年代になると、RI会長の福岡訪問が多くなりました。 1962年11月10日ラハリーRI会長来福、福岡市天神ビルでIM開催。 1967年3月9日エバンスRI会長夫妻来福、福岡市明治生命ホールで第370地区歓迎IM開催。1969年3月19日東ケ崎RI会長夫妻来福、福岡市私鉄グランド・ホテルで歓迎IM.開催。1979年には、3月にレヌフRI会長夫妻が、また10月にはポーマーRI会長夫妻が来福しました。 また同じ1979年には、1月27,28日の2日間、福岡市ホテル・ニュー・オオタニにおいて、九州では初のロータリー研究会が開催され、320名のガバナー、パスト・ガバナー、ガバナー・ノミニー が集まりました。

創立以来二度の世界大戦を経て、国際ロータリーは、発展の一途を辿ってきましたが、RIほどの大きな、しかも世界的規模の団体になりますと、毎年のように変更しなければならない問題や、決定を要する大きな事項が出てきます。 それらの問題を、ロータリーという一つの組織のなかに組み込むべきか、除外すべきかを決定しなければなりません。 そこで生まれたのが『国際ロータリー組織及び手続委員会』です。

20世紀の終わりから21世紀にかけて、ロータリーはコペルニクス的転換を行おうとしています。 それには、激しい賛否両論が寄せられています。 それについての議論は、後に譲りますが、新しい世代を抱え込もうとしているロータリーは、それなりに新しい時代に適応できる組織を持たなければならないでしょう。 但し、最近のロータリーを見ていますと、組織そのものが余りにも複雑硬直化しているように思われます。ハロルド・トーマスは『私は、常にロータリーを単純に保つ主張に組してきた。 もしもロータリーを単純に保とうとするならば、技術や、技法や、構造はすべてこの目標を念頭に置いて設計されなければならない。 また、随時点検が必要である。』と云っています。 1960年代の言葉ですが、これを読みますと、いまから40年もまえから、ロータリーの動脈硬化はすでに始まっているのかも知れません。

(菅 正 明)  

前回、第2700地区59クラブの60パーセントは、1969~'80年の20年間に創立したと書きました。この時期は、日本の敗戦後、国内の経済成長が進むに伴って、日本全国に大小の都市が次々と誕生、いわゆる都市化が進んだ時期です。 それまでは、国内の地域的特性はどうにか保たれていましたが、このころから日本中どこへ行っても、コンビニとファースト・フードの店が並んでいて、農村も都市もない画一的な町が出現しました。

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日本のロータリー・クラブは、戦前は都会のしかもVIPの集まりであったものが、日本全国の隅々までといってもよいほど、どこの町にも拡がったのが、ちょうどこの時期です。 戦後の日本を振り返ってみますと、このころは、まだ市民生活に色々な困難な問題が沢山ありましたが、私は、国中がいちばん活力に溢れていた時代だったと思います。 そのころのことを振り返ってみるのも、決して無駄なことではありますまい。

1960~'80年代といいますと、日本のIMF八条国への移行、経済開発機構(OECD)加盟から、プラザ合意までといってもよいかも知れません。 この間に、日本は先進国の仲間入りを果たして、発展途上国への援助の責任を負うことになったのです。 国際ロータリーのなかでも、RI復帰後、日本ロータリーの果たす役割が重くなってきたのも、この時期です。

1961年に始まったベトナム戦争は、1960年代の後半に至ってますます激しさを増しましたが、一方では韓国、台湾、香港、シンガポールなどのアジア諸国に、目覚しい経済成長をもたらしました。 ベトナム戦争は、アジアの経済を発展させはしましたが、アメリカ本土においては、1975年の戦争終結後も、米国内に経済的、社会的に大きな爪あとを残しました。

1960~'70年にかけて、日本の陸上輸送は、旅客も貨物もともに鉄道から車へと変化しました。 東海道新幹線は、東京オリンピックが開催された1964年に開通、その同じ年に、初めてのインターアクト・クラブが米国フロリダ州で発足しました。 WCSが出来たのも、この年です。 ベトナム戦争の影響が浸透して、アメリカ社会に癒しがたい影響を与えようとしているときに、インターアクト・クラブが生まれたというのは、如何にも象徴的ではありませんか。

国内では、池田内閣から佐藤内閣に代わりました。 池田内閣の時代には、いわゆる所得倍増計画を実行するということで、内政に政治の焦点を当て、主として経済成長政策を推し進めましたが、佐藤内閣に代わると、日米や日韓など、それまで殆ど手をつけていなかった政治課題である外交問題に、積極的に取り組みました。 かくて、1971年に沖縄返還協定が調印され、沖縄は翌1972年5月、日本に返還されました。

1960年の終わりから1970年代は、経済成長のもとで、国民の実質所得も急激に増加しました。 主要産業での賃金は、上昇率15パーセントに近く、消費者物価の年率5パーセントの上昇を見込んでも、実質年10パーセント近い所得増が続いたのです。 住宅の平均部屋数は増え、乗用車は農村部から都市部へと普及しました。 医療機関の数も増えました。 高校進学率は1970年代の半ばには90パーセントを超え、大学進学率は上昇し、女子の大学進学も増えてきました。 国民の多くが中流意識を持つようになったのも、この時期です。

生活水準が上昇するにつれて、社会的には公害問題がクローズアップされるようになりました。 すでに1950年代に入って間もなく、水俣病や四日市喘息などが問題視されていましたが、これらが大きな社会問題として取り上げられるようになったのは、1970年になってからです。 1970年に中央公害対策本部が設置され、公害関連14法案が衆議院を通過、産業廃棄物規制で、事業者の責任が明記されました。 経団連では、はじめこの法案には、必ずしも賛成ではなかったようです。 後に制定された『経団連企業倫理宣言』では、環境保全について、これは企業の基本的倫理であると規定してあります。 この経団連の宣言に興味をお持ちの方は、各地の商工会議所にお申し込みくだされば、入手できます。 翌1971年に、環境庁が発足しました。 この後間もなく、ロータリーでも環境問題の重要性が注目され、やがて1990年、社会奉仕部門の重要なテーマとして『環境保全』が取り上げられることになりました。

戦後のいわゆる団塊の世代が、大学に進学するのは1960年代です。この時期に、日本の大学数は245校から369校に増え、学生数も67万人から116万人になりました。 60年安保の後、多くの高校生まで巻き込んで起こった大学紛争は、連合赤軍による赤間山荘事件のような悲惨な事件を繰り返しながら、やがて影を潜めてゆきました。 あのような、短期間の反社会的事件の意味するものは、果たして何だったのでしょうか。 この時代に大学生活を送った世代は、もう大方還暦を迎える年代でしょう。 これからのロータリーをリードして行くのは、彼らの世代なのですが、どのような道を進んで行くのでしょうか。 世界のロータリー活動が変革の時代を迎えていると同じように、日本のロータリーも変わって行かざるを得ないでしょう。その舵取りをするのは、団塊の世代のロータリアンです。彼らは、日本のロータリーをどのようにリードして行くのでしょうか。大きな期待を持って眺めたいと思います。

1972年、『日本列島改造論』を引っさげて田中内閣が発足しました。

丁度、いわゆるニクソン・ショックの後です。 その後、全国で公共事業が増加しました。 老人医療費が無料化し、老齢年金の増額などもあり、1973年は『福祉元年』ともいわれました。

この頃から、大学生のなかに反体制的な雰囲気は見られなくなりました。 一般的に、自分で物事を考える努力をしないとか、自分の固有の意見を持たないというような学生が多くなったのも、この頃からです。 政治についても、『支持政党なし』が増加してきました。社会的風潮につきましても、『金や名誉を考えず、趣味に合った暮らしを送りたい』とか、『クヨクヨしないで、呑気に暮らす』などと考える傾向が強くなり、『社会のために尽くす』とか『一生懸命に働いて、金持ちになる』というような、目的志向の考えが減少、社会の変化を好まない傾向が、目立つようになりました。 ベテランのロータリアンから、ロータリー活動の低迷や、ロータリー意識の低下についての厳しい意見が再々出されますが、このような一般社会における生活意識の変化が、ロータリー活動の変化の背景にあることも、無視出来ません。

田中内閣は、やがてロッキード事件で倒れます。 国内では、素材型産業が低迷し、エレクトロニクスや、電気、精密機械などの産業が著しく伸展し、第三次産業の拡大発展が目立ってきました。 日本の対米、対欧貿易は、第一次石油ショック以来急増し、貿易収支では黒字幅の拡大が目立ってきました。

1970年代の、国内自動車の生産台数は、年産650万台であったものが、1980年代になると年産1,100万台を超えました。 これが国内の高度経済成長の後、輸出に回ることになったのです。 日本の輸出は増加の道を辿り、日本の国際収支は大幅な経常黒字が続きました。 円は、一時170円台の高値をつけたこともありましたが、その後は、240円台前後で推移していました。 1985年、ニューヨークのプラザ・ホテルで先進5ケ国蔵相会議が開催され、ドル以外の通貨の上昇が求められました。 いわゆるプラザ合意ですが、その後、急激な円高が進むことになります。

(菅 正 明)  

1977年2月21日から26日まで開かれたRI理事会で、1979-'80年度におけるロータリー創立75周年記念事業について、『1979-'80年度中に、ロータリーはその創立75周年を迎えます。 理事会は、R創立第75周年記念事業を研究しているアド・ホク委員会からの報告を受理し、ロータリー史上重要なこの75周年を記念する活動や事業についての計画を進める決議を行った。』と決定し、その旨地区ガバナーを通して、各クラブ宛に通知しました。また、RIからは、各クラブや地区に、R創立75 周年記念の活動を考案、調整するために、『75周年委員会』を設立し、その委員長の任期は2年とすること、また地区協議会や地区大会にも、創立75周年を記念するような企画を取り入れるようにとの要請がありました。

この年、第270地区は新家忠男地区ガバナーの年度でしたが、新家は、75周年記念事業について、次のような考えであると、述べています。

『75周年記念事業として、継続性のあるものを考えたい。 1ケ月健康だった人は、それを感謝して、月末に1,000円ニコ・ボックスする。 1ケ月100パーセント出席の人は、お金を出せ。 そうすると、クラブの90パーセントの人は、ニコ・ボックスするようになる。 270地区に4,400人の会員がいるから、毎月1,000円Х4,000人=400万円集まる。1年で4,800万円だ。 これで障害児のための奉仕やRYLAをやる。 クラブ独自の奨学金制度を作ってもよい。

それを、創立75周年の記念事業にすればよいではないか。 RIから記念事業についていろいろいってきて、会員に義務ずけるようなことをいっているが、それには反対だ。』

地区ガバナーとしては、なかなかここまでは云い得ないものですが、さすが新家さんだなと思います。第270地区では、この地区ガバナーの意向を尊重して、各クラブの自主性を尊重し、独自の記念行事を計画実行することになりました。 その詳しい事業内容については、その次の年度のガバナー月信連載されていますから、興味をお持ちの会員は、それをご覧ください。

また、地区全体としましては、創立74周年記念日に当たる1979年2月23日までに、RIが推進している、会員1人当たり15米ドル、クラブ単位で1,500米ドルの寄付を達成して表彰資格を獲得するよう、地区ガバナーからの要請がありました。 各クラブには、『75周年記念キット』が、RIから配布されました。

創立75周年を迎える1979―'80年は、喜多村禎勇ガバナー年度です。 第270地区のR創立75周年記念事業は、喜多村年度に受け継がれました。彼は、当時の石油ショックの影響で、まだ不安定な社会状況を顧慮して、活動の重点を青少年奉仕と職業奉仕との2点に置きながら、この記念事業を推進しました。 この頃は丁度、入試地獄という言葉通り、受験戦争がエスカレートした時代で、シラケの世代だとか、暴走族、校内暴力も目立ったものです。 モラトリアム人間が社会の注目を集めたのも、この頃です。共通一次試験が始まったのも1979年ですが、それも結局は偏差値重視の風潮に歯止めをかけることが出来ないまま、現在に至っています。 若者たちがヘッド・ホンを耳に当てて歩くようになりました。 『赤信号みんなで渡れば怖くない』とか『カラスの勝手でしょ』などという流行語が流行ったのも、その時代の若者だけに見られた現象ではなくて、それが社会一般の風潮だったと思います。 ロータリー活動の重点を青少年に置いたという、当時の喜多村ガバナーの気持ちが分かるような気がします。

R創立75周年の世界大会は、1980年6月1日から6月5日までの5日間、ロータリー発祥の地シカゴで開催されました。 大会には世界110ケ国から約2万人の会員が集まり、日本からは2,645名が参加しました。 大会本会議で、ボーマンRI会長は、長崎RCの岩永光治会員を壇上に招いて、香港における難民救済活動に対する同会員の積極的参加を称えました。

喜多村は、75周年記念事業を推進しながら、この記念すべき年度にこそ、職業奉仕を重視すべきだとして、R創立当時の職業奉仕は『事業経営の方法』というタイトルのもとで進められていたこと、その概念は、長年の間に拡大、深化されたことを説き、職場例会の重要性についても言及しています。

さて、第270地区分割の話は、田中丸善三郎ガバナーの年度から話題にはなっていましたが、それを具体的に取り上げたのは、新家年度からです。 当時地区内のクラブ数は86クラブで、地区ガバナーの業務内容の面から見ても、すでに限界に来ているといってもよい状態でした。 その頃の1つの地区は、40クラブくらいから成り立っていたようで、それから見ますと86クラブというのは、随分多いクラブ数です。地区分割について、地区内全クラブのアンケート調査を行いましたところ、福岡県内の全クラブは分割賛成、反対10クラブ、壱岐、壱岐中央、鳥栖の3クラブは条件付賛成でした。 反対の理由ははっきりしませんが、福岡県内のクラブが分離すると、佐賀、長崎両県のロータリーが衰退するのではないかとの危惧の念があったようです。 地区の分割問題が前提としてありながらも、75周年記念事業を地区内のクラブが一丸となって推進したということは、当時のロータリー活動の一面を知るうえで、大変貴重なことだと思います。

世界のロータリーが、年と共に発展を続けていくなか、1981年3月1日、『国際ロータリー東京支局』が開設されました。 それまでRI 中央事務局宛に送られていた文書類は、以後、特別に指定されたものを除いて、東京支局宛に送ればよいことになりました。

(菅 正 明)

1960年代から1970年の終わりにかけてのロータリーでは、新しい奉仕プロジエクトが次々に誕生しました。 そして1980年代になりますと、それらが一斉に花開き、ロータリーは国際的な奉仕活動に向かって、大きく一歩を踏み出すことになるのです。

第1回のロータリー財団奨学生が決まったのは1951年でした。 その後、高校生を対象とした国際交換学生事業が始まったのが1959年、世界社会奉仕(WCS)の創設は1963年です。 また、1966年には、R財団に研究グループ交換(GSE),専門的訓練補助金、特別補助金の3つの補助金制度が設けられました。 特別補助金は、国際性のある意義あるプロジエクトに対して、100-50,000米ドルを財団から補助するもので、補助金と同額の金額を、奉仕プロジエクトを実施するクラブが準備しなければならないという制度ですが、これは現在実施されている同額補助金(Matching Grand)の原形をなすものです。 1969年には大学課程奨学金制度、1971年には心身障害者教育奨学金制度が、さらに1976年にジャーナリズム奨学金制度が採択されました。

1978年、東京の国際大会で、RIは保険・飢餓追放及び人権尊重のためのプログラム、いわゆる3Hプログラムを発表し、次いで、1979年R財団は、3H―保健・飢餓及び人間性尊重補助金プログラムを設定しました。 RI理事会は、翌年の1980年創立75周年を迎えるに当たって、国連が定めた国際児童年の活動の一環として、このプログラムの実施に踏み切ったのです。 3Hプログラムは、Health, Hungry, Humanityの3つの語の頭文字をとったものです。 HealthとHungryとはそのままでもよく分かりますが、Humanityについて少し説明しておきます。 世界中の人々が幸福な生活を送ることが出来るためには、病気をなくしたり、食料を補給して飢えをなくすだけでは不十分で、教育、社会、文化、環境、職業、人のこころなど、私たちの社会生活全般から個人の心の中の問題まで満たされなければ、本当の平和な世界は得られないという考えから出発したプログラムです。

R財団は、この3Hプログラム実施のための特別基金として、『ロータリー75周年基金』を設けました。 75周年記念基金は、全世界のロータリアンの協力により募金が続けられ、1980年3月27日現在寄付金総額5,300,000米ドルに達しました。 なお、世界の各地区の寄付額上位10地区の内8地区は日本、2地区はドイツで、わが第270地区は第3位でした。 ロータリーの記念事業で、高額寄付地区がすべて第二次世界大戦の敗戦国だというのも、なかなか興味あることです。

ロータリーでは、この後1980年に3Hプログラムの一環として、フィリッピンに対して、600万人分のポリオ・ワクチン投与のための資金援助を行いました。 これが、ポリオ・プラス活動の緒となったのです。

第270地区でのR創立75周年記念事業としては、すでに述べました75周年記念基金への協力の他に、RYLAの実施と地区史の刊行、『ねむの木学園』への協力があります。 夫々の記念事業について、簡単に書いておきます。

RYLAは、ご承知のように、オーストラリアの当時RI第260地区ブリスベーンRCが提唱し、1959年に1週間の期間で第1回の会合が開催されました。 その後1971年より、ロータリーの公認プログラムの1つになったものです。 第270地区ではそれまで、夏季に一般の高校生や、インターアクター、ローターアクターなどを対象とした『青少年野外活動』が毎年実施されていたのですが、これに代わり、R創立75周年記念事業の1つとして、RYLAが取り上げられることになりました。 第1回のRYLAは、新家75記念事業実行委員長のもとで、佐世保 RCがホストとなって、1980年5月18日、19日の2日間、長崎県西彼杵郡大瀬戸町雪の浦『親和森の家』で開催されました。 その後の第2700地区におけるRYLAの発展は、新家PGの尽力と、それを支えた地区委員の熱心な参加によるものです。かれらの努力によって、来る2004年には、第25回RYLAを迎えることになりました。

第1回目のRYLAでは、RYLAについてのPR不足もあって、講演のほかに自衛艦の体験航海など盛り沢山なスケジュールが組み込まれていましたが、参加人員は60名に過ぎませんでした。 第2回RYLAは、『福岡県立英彦山青年の家』で開催、このときの参加人員は、280名を超えました。

地区史の編纂は、新家実行委員長から喜多村地区ガバナーに受け継がれ、福岡RCの鈴木鉄次郎会員が地区史編纂委員長の委嘱を受けて、1980年(昭和55)4月28日第1回地区史編纂委員会が開催されました。 地区史編纂に当たっては、福岡RCの会員で電通福岡支社長の光安彦臣氏の協力に負うところが大でした。 また、編纂資料として、福岡RCの会員だった故松田昌平氏の資料が大いに参考になりました。 これは、昌平氏のご子息である福岡RCの松田順吉会員に受け継がれたものです。 なお、地区編纂委員会は、福岡市博多区大博町1―8 三信会原病院内RI第270地区樋口ガバナー事務所に置かれ、編纂委員として、新家忠男、川村謙二(地区副幹事)、堀部雄一郎(G事務所)、藤井正一(門司RC)、安部 泰(小倉RC)、の諸氏が委嘱されました。

地区史は、『国際ロータリー創立75周年 国際ロータリー第270地区史』として、1981年6月30日『RI第270地区75周年記念委員会』から刊行されました。 この地区史には、1968年以降12年間の記録が収録されています。また、ガバナー、パスト・ガバナーによる座談会や、当時の地区内各クラブの活動状況が掲載されていますが、すでにこの座談会のなかで、第270地区の分割問題が話題となっています。

いま1つの記念事業は、福岡市にある障害児施設『ねむの木学園』への支援です。 『ねむの木学園』は、宮城まり子が私財を投じて育てた施設です。 たまたま地区大会の後援のため宮城女史が福岡を訪れた際、学園の子どもたちが描いた画集1,165冊、宮城まり子随筆集386冊の売上金合計395万円を、学園に寄贈しました。

各クラブは、地区での記念事業とは別に、独自のRI創立記念行事を実施しました。その詳細は、喜多村年度のガバナー月信に掲載してありますので、ご覧下さい。

(菅 正 明) 

福岡、佐賀、長崎の3県をテリトリーとするRI第270地区の分割については、すでに書きましたように(第6回)、1977-'78年の田中丸年度のころから話題になっており、次の新家ガバナーは、地区の分割を前提としてガバナーに就任しました。 当時(1970年代)     の第270地区は、クラブ数88クラブで、全国2位の巨大地区でした。 公式訪問も地区ガバナーの大きな負担で、いずれは地区の分割再編もやむを得ないという考えでした。 また地区分割後は、地区専用のガバナー事務所の設置も視野の中にありました。 しかしながら、分割についての地区内全クラブの意向を問いましたところ、福岡県内のクラブは全て分割賛成でしたが、佐賀、長崎両県内のクラブで反対の意見があったので、地区の分割は実現しませんでした。

1978-'79年度喜多村ガバナーは、前の年度の新家パスト・ガバナーの依頼を受けて、その年の国際協議会の際に、地区分割についてのRIの了解は得ていました。 地区の分割につきましては、田中丸パスト・ガバナーはと蟻川パスト・ガバナーは賛成の意向でしたが、七条パスト・ガバナー(1977―'78年度、雲仙RC)は、分割により地区のクラブ数が減少すると、ガバナー事務所の運営も難しくなるなどの理由で反対でした。

やがて、1981年(昭和56)7月、第270地区の再編についてのRIの告示がありました。

RI告示:

RI理事会は、国際ロータリー細則第13条第1節の規定に基ずき、第270地区を二つの地区に再編成することを決議した。

1982年7月1日をもって効力を発する二つの地区は、次の通り。

第270地区  福岡県、及び長崎県壱岐、対馬、佐賀県鳥栖市を含む地域

第274地区  壱岐、対馬を除く長崎県及び鳥栖市を除く佐賀県を含む地域

上記の地区再編成に対する、第270地区内クラブによる反対の意思表示は、8月3日までにRI事務総長のもとに届くように届出差なければなりません。

その後、地区再編成についての、地区内クラブからの反対の意思表示はありませんでしたので、1982年7月1日をもって、このRI告示は発効することが確定しました。

新しい第270,第274両地区の編成は、次の通りです。

 

第270地区

(第1-5分区)

第274地区

(第6-11分区)

ク ラ ブ数 51 (59) 37 (58)
会 員 数 2,920 (3,607) 1,842 (2,935)
I A C 数 22 (32) 17 (24)
R A C 数 18 (17) 11(12)

この表の括弧のなかは、2002年6月現在の夫々の地区の現況を示したものです。 20年前と比べて如何でしょうか。 いささかの感慨がありますね。

新第270地区発足当時の地区内は、次の5分区に分かれていました。

クラブ数 地 域
1 1 1 門司・小倉・京築
2 2 北九州・筑豊
3 14 福岡・壱岐・対馬
4 8 久留米・筑後
5 6 大牟田・柳川・大川

1982年7月1日、新しい第270地区が発足しました。 1982-'83年度は、中牟田喜一郎ガバナーの年度です。 この年度、中津RCの向笠広次会員がRI会長に、また福岡城西RCの末永直行会員がRI理事に就任しました。 向笠会長は、前年度のマキャフリーRI会長のテーマ『ロータリーを通じて世界理解と平和を』を受けて、『人類はひとつー世界中に友情の橋をかけようー』をRI会長テーマとして選び、まずクラブ奉仕の重要性を強調し、人類はひとつの大きな家族、全世界の平和と幸福とがなければ、個人の平和と幸福もない、と訴えました。 この年度は、大分県からRI会長が、そして福岡県からRI理事と、九州から国際ロータリーの重要メンバーを2人送り出した訳です。 6月20日の地区協議会出席のため急遽帰福した末永理事は、協議会出席全会員の盛大な拍手に迎えられました。

中牟田ガバナーは、向笠RI会長のテーマを受けて、『先ず、自分の文化を知れ。いま17―18才の若者たちは、2000年には30才の半ばに達する。私たちが、若者と手を取り肩を組んで行けば、21世紀には、世界理解と平和のため、素晴らしい友情の橋が架けられる』と云い、『ロータリーの原点である真の親睦を』と訴えました。また、中牟田は新第274地区とは、これからもよきパートナーとしての関係を保ち続けたいと云い、この1年間を新第270地区の基礎固めの年度と位置つけたのです。

地区の運営は、健全な地区の資金計画が前提です。 新第270地区の会員総数は3,000人で、旧第270地区の61.7パーセントになります。 従って、会員分担金の総収入額も、前年度の61.7パーセントに減少する訳です。 会員が少なくなったからといって、その割合で地区の経費が減る訳ではありません。 また、地区分割後には、固定のガバナー事務所の設置が予定されているのですから、経費の節減に努力したとしても、地区予算の大幅な赤字が見込まれました。 新木文男地区資金委員長(福岡RC)は、地区分担金の年間3,000円程度の値上げを求めて、了承されました。 当時、新270地区と同じ規模の会員3,000人程度の地区での分担金は、最高18,400円、少ない地区でも10,000円で、3,000円程度の値上げはやむを得ないものだったでしょう。 これによって、歴代ガバナーが個人で負担していた諸経費のうち、必要分を地区ガバナー事務所費として予算化し、地区ガバナー事務所を固定化することになりました。 また、予想される国際青少年交換資金の赤字も、これによって補填することが出来ました。

この年度は、8月8日に福岡市ホテル・ニュー・オータニで、第270(中牟田DG)、第273(杉村DG)、第274(北島DG)の九州三地区合同・向笠RI会長夫妻歓迎IMが開催されました。

第270地区では、新しい地区の発足を記念して、向笠RI会長テーマを課題とした作文とエッセーとを募集、作文では戸畑高校の3年生の小林信昭君が、また、エッセーには豊前西RCがスポンサーとなって築上西高校に交換学生として米国から来日しているカレン・A.ベッカーさんが、夫々1位となり、その年の地区大会で表彰されました。

新しい第270地区は順調に発足し、RIの地区呼称変更で、1990―'91年上野年度にRI第2700地区と変更されて、現在に至っています。

1983年(昭和58)1月29日、大川文化センターで高橋孝ガバナー・ノミニーによる『次期会長幹事研修会』が開催されました。 新しい地区では、これまでと比べて、地区役員や地区大会ホストの順番が早く回って来ること、地区会員の分担金値上げ、地区ガバナー事務所の固定化とそれに伴う予算の承認などが、議題となりました。

地区ガバナー事務所の固定化は、1983-'84年度からになりますが、固定化の利点について、中牟田ガバナーは次の諸点を挙げています。

1. 経験豊かな事務職員を持つことが出来、ロータリーに関する諸資料の保管、活用が容易となる。
 2. これまで、歴代ガバナーが個人的に負担していた費用のうち、可なりの部分が節約でき、事務費
   の合理的運用が可能となる。
 3. 新第270地区には、地区ガバナー事務所を固定化するための地理的条件が揃っている。
 4. 地区ガバナーの推薦がしやすくなる。

何事にも利点と欠点があるものです。地区ガバナー事務所は、欠点を克服しながら、新しい世紀を迎える訳です。

(菅 正 明)

この前、地区史ノート第5回でプラザ合意のことを書きました。プラザ合意が成立したのは1985年ですが、その後も日米間の貿易不均衡は一向に是正されませんでした。 それどころか、その間に円高ドル安の恩恵を受けて、日本の企業がアメリカ買いに狂奔することになったのです。 そのような、云うなれば嵐の前の静けさが続いている時期に、福岡県を主テリトリーとする第2700地区は分離独立して、今日を迎える訳です。嵐が来るのを予測した人がいたかも知れませんが、そんな未来のことは分からないまま、夢を抱いて船出したようなもので、この20年間というのは、ロータリーにとっては予測しなかった苦難の道だったと云っても差し支えないでしょう。 ですから、会員増強や拡大の流れを辿るにしましても、その間の世界の流れや国内の動きを無視しては、出来ないことです。 今回は、1980年代の中頃から20年間の国内、国外、さらにロータリーの動きを概観しておきましょう。

先ほど述べましたように、1980年代に入ると、日米間の貿易摩擦、さらにはヨーロッパでの貿易摩擦も拡大しました。これは、例えば日本における低公害燃費節約車の成功が日本の輸出拡大の一因になったように、国内では、素材型産業から自動車、電気、精密機械などの新技術産業や第三次産業への転換の時期でもありました。この結果、1985年には日本は最大の貿易黒字国になりました。 RIやR財団の主なプロジエクトの原型は殆どといってもよいほど1980年までに出来上がっています。 RIがポリオ免疫プロジエクトを提唱したのは1982年、丁度第2700地区が発足した年です。 ポリオ・プラスについては、R財団のところで書きますが、1985年にポリオ・プラス・プログラムが発表され、1992年に大きな成果を挙げてこのキャンペーンは一応1992年に終了、その後もロータリー創立100周年に当たる2005年までは、引き続いて活動することになっています。 国内では、1983年は戦後政治の総決算と謳われた時代でもあります。 中曽根首相が韓国を訪問して、日韓新時代にはいったともいわれました。

1983年にはR財団が、米国の非営利団体として認められ、財団の活動がこれまで以上に活発になりました。 この年、日本のロータリーは、社会奉仕に関する決議23―34条、いわゆるセントルイス宣言についてRIに申し入れを行いました。 セントルイス宣言は、翌年の1984年に一時ロータリー手続要覧から削除されましたが、日本のロータリーの努力が実って、1986年には再び復活し、『社会奉仕に関する1923年の声明』として社会奉仕に関する項目の初めに掲載されています。

世界のロータリー・クラブ会員の数が、この年100万人を突破しました。ポリオ・プラス・プログラムが発表された1985年には、R財団の3Hプログラムが生まれ、日本国内では米山奨学生の学友会がこの年から発足しました。

鈴木内閣の時代、1981年に発足した臨時行政調査会では、行政改革はほとんど進みませんでしたが、1985年電電公社がNTTに、専売公社が日本タバコに民営化され、後1987年国鉄の民営化が決まり、全国が7社に分割され、いまのJRが発足しました。 この年、米連邦最高裁の男女差別違憲判決により、RIはロータリーへの女性の入会を認めることになりました。 女性会員については、日本国内のロータリー・クラブでも根強い反対がありましたけれども、それも一時的なもので会員増強の点からも、殆どのクラブでは歓迎されています。 最近でも、ときに女性会員をどう考えるかというような質問に出会うこともありますが、女性会員を入会させるかどうかと云うような問題を議論する時代は、もうすでに過ぎているので、現在では、男女に関係なく良い会員を求めるというのが、時代の趨勢です。 1987年のニューヨーク株価大暴落、いわゆるブラック・マンデーについては、まだ皆さんのご記憶に残っているでしょう。 このころの日本国内では、株価と地価が急騰しました。 RIはこの1987年に文盲追放10ケ年計画目標を設定、これが後に1997年キンロスRI会長年度に識字率向上運動と、それを推進するための識字率向上月間となって、実現しました

1989年1月7日朝、昭和天皇が崩御されました。 皇太子明仁親王が即位、元号は平成と改められて、64年の昭和の時代は終わりました。 この年は、ベルリンの壁が撤去され、ブッシュとゴルバチョフ両首脳会談が開かれ、東西冷戦の終結が宣言されました。 国内では、4月から消費税が実施され、この年末株価は3万9千円に迫る市場最高値を示しました。 ロータリーでは共産圏にロータリー・クラブが次々に創立、1990年にはモスクワにロータリー・クラブが誕生しました。 ソ連は、翌1991年ゴルバチョフが大統領を辞任し、かくして12月ソ連邦は消滅したのです。

冷戦時代、世界は自由主義国、共産圏、それに第三世界の3つに分かれていましたが、ソ連崩壊後、世界は超大国アメリカと、中小の先進国、さらに多くの所謂途上国の間で、将来も解決されることの困難な問題を抱えて、21世紀を迎えています。 このなかで、RIはどんな道を進んで行くのでしょうか

1995年1月、阪神淡路大震災が起こり、国内外のロータリアンから多くの援助が寄せられました。 RIでは、1947年に制定された大学院過程奨学金制度を拡大して、1995年からロータリー国際親善奨学金制度を設け現在に至っています。 R財団に冠名奨学金制度が作られたのもこの年からです。 1996年には、『青少年奉仕』  という言葉が『新世代のためのロータリー・プログラム』と改められました。 これは、20世紀末から新しい世紀に向かって、ロータリーの若者への取り組み方を示す、大変画期的な意義ある提言として、高く評価されるべきでしょう。 世界のロータリーは、年とともに拡大と増強を続けてきましたけれども、その内容は、第2700地区が分離した20年前とかなり違っています。 特に目立つのは、いわゆる途上国でのロータリー・クラブは増加し、会員数も多くなっているにもかかわらず、先進国では現状維持か、むしろ減少傾向にあるということです。 これと関連して、R財団の同額補助金がこの10年間で約7倍増え、教育的プログラムは、その金額は増加しているものの、R財団全体の支出金額の中で占める割合は、減少しているということに注目して頂きたいと思います。

1997年になると、北海道拓殖銀行の破綻、山一證券の自主廃業、翌1998年には日本長期信用銀行の破綻と、経済の失速は止まるところを知らずという状態が続いています。 2001年、政府は戦後初のデフレの到来を認めざるを得ませんでした。 その年9月、米国同時多発テロが起こり、日本の株価は急落しましたが、この急落もたまたまテロと株価の急落が一致しただけだのことでしょう。 これからの世界はどうなるのでしょうか。 同時多発テロから1年経ったニューヨークで、証券取引所の会員権の値段がバブル時の値段より高くなっているそうです。 こんなことが、将来を見通すのには、一番確実な指標になるのかも知れません

この文章を書いているのは、2002年9月3日です。 ホーム・ページで皆さんに読んで頂けるのは、多分来年の4月ころでしょう。その頃の、世界、日本、そしてロータリーはどうなっているでしょうか。

(菅 正 明)

1982年(昭和57)地区が分割して、新しい第270地区が発足したときの地区の会員数は3,042名、その年度の終わりの会員数は3,155名です。 地区分割後には当然のことながら地区の会員数は減少する訳ですから、それを補うために地区では増強・拡大に真剣に取り組みました。 この1年前の'81-'82年度には、全世界の会員数が減少し、経済大国日本で会員が増えないと、WCSのバランスが取れなくなるから、日本のロータリーでは特に増強に努力しなければいけないといわれました。 そのとき第270地区で最大のクラブは福岡RCで、会員数160名、最小のクラブは対馬RCで、会員数31名でした。 この当時は、拡大についても地区として現在よりも真剣に取り組んでいたようです。 1985年までに、行橋みやこRC、福岡北RC、福岡城東RC、宗像RCが誕生、特に福岡北RCでは、年間22名の増強を達成して、その年度の新記録をたてました。 当時は、拡大に対する地区の努力もさることながら、それだけ新クラブ創立の余地も多かったということです。

ここで、もう一回先に掲げた第2700地区の趨勢(第1図)をご覧ください。

【第1図】

この図は、過去20年間の第2700地区のクラブ数、会員数及び女性会員数の動向を示したものです。 クラブ数は、その後1990年に小倉中央RCが,1991年に福岡平成RCが誕生して地区内クラブ総数59クラブとなって、現在にいたっています。 また会員数は、地区分割以後徐々に増加し、一時は会員総数4,000名に達したこともありましたが、大体3,600名前後のプラトーの状態で推移しているようです。 女性会員の数も殆ど不変だといってもよいでしょう。

すでに1985年頃から、会員の高齢化傾向が見られ、若い会員を歓迎するようになりました。 この年の全国調査では、会員数300名以上のクラブは2クラブ、200名以上が3クラブ、150名以上が12クラブで、少ないクラブでは、21名以下のクラブは21クラブでした。 本来、クラブの機能ということを考えますと、私は会員数50名から70名くらいのクラブが、会員相互のコムニケーションがうまく行くので、いいのではないかと思います。 それ以上の会員数になりますと、クラブの運営は容易になるでしょうが、クラブ本来の目的からしますと、どうもうまくありません。 会員数が100人以上のクラブになりますと、入会してから退会するまで、一度も声を掛けることがなかったし、顔を合わせることもなかったという話をよく聞きます。 今から10年ほど前、1991年に『10年以上拡大していない、創立30年以上のクラブは拡大をかんがえよ』という元気のよい意見が出されましたが、クラブには夫々に歴史や伝統がありますから、ただ数字だけで、大きいクラブは拡大をやれといわれましても、それは無理な話だと思いますが、会員増強には、クラブを創設すること、即ち拡大が最も有効な処方箋だということも、事実に違いありません。 因みに1994年、地区内59クラブのうち会員の増加したクラブは18クラブ、不変は13クラブ、減少したのは28クラブでした。

次の、第2図と第3図及び第1表をご覧ください。 この3つの図表は、地区を分区ではなくて、社会的条件によって分け、各地域でのクラブの状況を示したものです。 これは3年ばかり前の資料ですが、大体の傾向は今と殆どかわっていません。 この図表の各地域については、すでに会員の皆さんはよくご存知でしょうから、ここでは簡単に説明します。 福岡、北九州は夫々都市圏、福岡圏は福岡市の周辺地域、筑豊は飯塚・直方・田川地域、京築は行橋・京都・築城地域、筑後は久留米・筑後・柳川・大川・八女・吉井を含む地域、壱対は壱岐・対馬地域を指します。

福岡、北九州、筑後圏の3つの地域の会員数が圧倒的に多いのですが、1クラブ当りの会員数となると、福岡市内を除いて殆ど変わりはないようです。 また、会員数100名以上のクラブも福岡市に多いようです。 この図表から見ましても、福岡市にはもっとクラブが増えてもいように思われます。 拡大の問題は、地域の課題として真剣に取り組まなければならないように思われます。

【第2図】

【第3図】

地域 C-数 会員数 1C平均 増加 不変 減少 100C↑C 49↓C
福岡 12 1160 97 8 3 1 4 0
福岡圏 3 153 51 2 1 0 0 1
北九州 16 1111 69 8 2 6 1 4
筑豊 4 252 63 1 1 2 0 0
京築 5 296 59 3 1 1 0 4
筑後 16 997 62 8 4 4 0 3
壱岐 3 112 37 1 0 2 0 3

ロータリーでは、数値目標が重要視されるものが3つあります。 R財団寄付額、会員増強、それに出席率です。 出席率は会員個人の問題です。 最も重視されるのは、会員増強でしょう。 何故なら、会員が多くなればR財団寄付も増えるからです。 ロータリーの会員が増えることは、全会員の願いであると同時に、ロータリーの最大の課題であることには違いありません。 但し、ただ会員の数が増えればよいかというと、決してそうではありません。 良い会員に入会して頂くこと、そしてながく会員であってもらうこと、です。

増強委員の苦労もそこにあります。 ただ数を増やすだけの増強をやりますと、必ずトラブルが起こります。 以前、入会してから良い会員になるよう育てなければいけないというような議論がされたことがあります。 しかしながら、考えてもご覧なさい。 一人前の大人が、そう簡単に立派なロータリアンに変身するはずはないではありませんか。 いい会員を選ばなければいけないということです。 会員増強は、英語では『membership development』とか、『membership growth』ですから、ただ会員の数だけを増やせばよいという訳ではありません。 数が増えるだけでいいのなら、buildupとかincreaseといえばいい訳です。そこをgrowthとかdevelopmentと書いたのには、それなりの意味があるのです。 増強はクラブの発展に繋がらなければなりません。 何時でしたか門司西RCの平田善一会員が、増強は造強だといっていましたが、まさにその通りです。

(菅 正 明)

地区でのクラブ奉仕関係の委員会は、第2700地区の分離以来、『会員増強・拡大』、『広報』及び『雑誌・会報』の3つの部門以外には設けられていません。 地区によっては、ロータリー情報部門を設けているところもあります。 わが第2700地区も、分離独立以来25年を過ぎました。 この25年の間に、会員の顔ぶれも随分変わりました。会員が変わると、ロータリーも随分変わります。 RIから寄せられる情報も、年々変わっていることは、既に皆さんご承知の通りです。 それに、地区の動きを4,5年単位に眺めていますと、おやっと思うような変化が起こっています。

例えば、何年か前まで、地区に高齢化対策委員会と云うのがあって、プロバス・クラブを作ったり、スーパー・ロータリアンズ・サミットと云う会合を支援したりしていましたが、いつの間にか消えたようです。 R財団の活動内容を見ましても、教育的プログラムと人道的プログラムの占める割合が逆転しました。 新世代奉仕の内容も変わりつつあります。 地区は、RIからの情報に対応しながら、地域のニーズを汲み上げて、発展して行かなければなりません。 そのためには、なんと云いましても、会員が正しいロータリーについての情報を、共有する以外にないでしょう。 幾つかの地区では、地区情報委員会があって、必要なR情報は情報委員会を通じて、伝えられています。 これは、わが地区でも将来顧慮すべき問題でしょう。 最近地区IT委員会が発足しましたが、大切なのは如何に情報を伝えるかではなくて、何を伝えるかです。 IT委員会を情報委員会に発展させるのも1つの方法かも知れません。

第270地区が独立した当時、現在の『ロータリーの雑誌月間』は、『雑誌愛読の月』と呼んでいました。 なんとなくソフトな感じがしませんかね。 『雑誌月間』は、『友』だけでなく、ロータリーの情報に広く関心を持とうと云う月間です。『友』も随分変わりました。この20年間に、活字離れも進みました。そうは云うものの、『友』に投書した原稿が掲載されるまでの期間は、昔よりも長くなっているそうですから、私どもが思っている程には、活字離れでもないのかも知れません。『友』は、読む物であると同時に、投稿する雑誌でもあります。『友』をご覧になればお分かりのように、沢山の投稿欄があります。 投稿欄をうんと活用して頂きたいものです。因みに、次回の地区史ノートには、1982年から2000年までの間に、第2700地区のロータリアンが『友愛の広場』に投稿した文章の題名と掲載された巻号を挙げておきました。私は、整理しながらその以外におおいのに驚きました。

会報(クラブ週報)には、3つの役割があります。 それは、クラブの記録、R情報の伝達、会員交流の場の3つです。 週報には、プログラムを始め出席報告など、各クラブの例会の記録がすべて残されます。 クラブで作っている週報を辿るだけで、クラブの歴史は自ずから明らかになるでしょう。 週報の編集には、クラブによっていろんな工夫がされていますが、要は必要にして十分な、しかも無駄のない記録を如何にして残すかということです。 クラブ会報に必要な予算は、例えば、1987年頃の当地区で、クラブ予算の4パーセント以上を占めているという報告があります。これは勿論、週報、クラブ月報、季刊、クラブ年報を含めての金額ですが、これを何とか節約しようという工夫がいろいろと試みられています。 最近では、クラブ週報以外に、月報や年報を出しているクラブは殆どありませんし、経費節減のためにパソコンを導入して印刷費を節約しているクラブも多いようですから、会報予算も以前ほど多額ではないでしょう。

クラブによっては、週報をインターネットで流そうとか、また、地区によっては、ガバナー月信をインターネットでなどの試みもあるようです。考えとしてはいいのですが、日本でのインターネットの普及状況を考えますと、現状ではいささか無理があります。最近では、サイバー・クラブを認めよと云うような議論が、地区でも聞かれますけれども、これは論外のことで、クラブは会員が集まってこそクラブであって、ネット上のやりとりだけでは、クラブではありません。横道にそれましたが、これだけは云っておきたいと思います。

これも時の流れでしょうが、クラブでITを使って週報を安く上げるのはいいのですが、そのために職業分類印刷業の会員には申し訳ないような気もします。最近では、IT機器の導入によって、会報予算が削減され、却ってカラフルで豊富な内容の、バラエテイーに富んだ内容の会報にお目にかかれるようになりました。

IT機器と云えば、このノートを掲載し始めた年度から、地区IT委員会と云うのが発足しました。時流を先取りした結構なことではありますが、IT機器の利用はそれ自体が目的なのではなく、ロータリーの情報をITを利用して、如何に早く的確に捉えるかにあります。ロータリーに関する情報は、すでにRIからホームページを通して、日本語で入って来ます。地区のIT委員会が流す情報も、同じRIからの情報をもとにしたものですから、いまのところ、まだテスト・ケースとしての意義以外にはない訳で、当分の間その成長を見守ることにしましょう。序でに云いますと、地区内ではいくつかのクラブでホーム・ページを開いています。ホーム・ページは絶えず更新されるからこそ意義があるものです。国内には、ホーム・ページを開いているクラブが沢山ありますが、そのうちで絶えず更新しているクラブがどれくらいあるでしょうか。この点から見ますと、ロータリーでは、折角のホーム・ページも余り活動していないと云うのが、現状です。第2700地区でのホーム・ページの現状もまったくその通りです。

広報については、色々と問題があります。 ロータリーは広報が下手だとよくいわれます。 ロータリーの奉仕は、なにも殊更にPRする必要はないという考えがありますし、奉仕活動は宣伝してやるべきものではないという、ロータリーの基本的な考えもあります。 しかしながら、ロータリーのことを地域の方々に十分に理解して頂くのも必要なことですから、広報には努力する必要がある訳です。 外国の新聞などでは、地域の奉仕団体などの活動状況を市民に知らせつ特集欄が設けられているのですが、日本ではどうもロータリーのようなボランチアー団体について、いささか偏った考えをもったメデイアが多いような印象を受けます。

ロータリーのPRには、なんといってもロータリーが、地区が、そしてクラブが、地域社会の注目を集めるような活動をすることでしょう。2,3の例を挙げておきましょう。 1982年ダラスの世界大会で、RI理事会決定の人種などの差別を撤廃する立法案が時のマキャフェリーRI会長から提案され、全会一致で可決され、バーミングハムRCの『会員は白人だけに限る』という規則も即時撤廃されました。 このニュースは、ダラス発AP電として報じられ、ロータリーにとっては、プラスのニュースとして受け止められました。

また、これは私の経験ですが、1999 年のインデアナポリスの世界大会のとき、インドの核実験でアメリカの世論は大いに沸きました。このときの新聞に、『国際間に軋轢があっても、ロータリーではアメリカもインドも仲良く交流している』という見出しで、RI世界大会の記事が新聞紙上に大きく報道されました。ロータリーの国際奉仕がに、これ程大きく一般市民の関心がよせられたことはないでしょう。

地区においても、各クラブの奉仕活動こそ最良の広報なのです。 豊前RCの『町民に慕われえる駐在さん表彰』(1982)、鳥栖RCの『鳥栖市落成にクラブ独自参加 弘中平祐講演会』(1982)、博多RCの『博多伝統職人連盟の結成』(1993),宗像ユリックス・ハーモニーホールでの宗RC『宗像地区高齢化対策公開シンポジウム』(1996)、『JAPAN EXPO 北九州博覧際2001』での戸畑RCの常設会場(2002)など、どれ一つを取り上げて見ても、素晴らしい広報ではありませんか。

久留米RCでは1997年11月に、『アイ・サーブ』誌を発行しました。 内容は、ロータリーの各奉仕部門の紹介ですが、誌名にあるようにロータリーの基本は『アイ・サーブ』だということを強調するのが目的だと思います。 この雑誌を会員だけでなく、地元の公共施設や病院、金融機関のロビーなどに配布して、ロータリーについての一般の方々の関心を高めようというのです。 広報活動の一つとして、関心が寄せられました。

第2700地区では、1997年以来、西日本新聞社の協力で、その年度の地区大会の開催に合わせて、4ページのロータリーの広報紙が発行されるようになりました。 これは、内容も十分に考慮されており、ロータリーについての理解を深め、地域社会でのロータリー活動の実態を理解するうえに、大へん有効だと評判を呼んでいます。

序ながらこれはロータリー情報に関するものですが、1995年ロータリー創立90周年を記念して、『ロータリー・ワールド』が創刊されました。 年4回発行ですが、日本語版も発行されており、世界のロータリーの動きが手に取るようによく分かります。 意外にご存知ない方が多いようです。 各クラブ宛配布されていますので、是非ご覧下さい。

(菅 正 明)

第2700地区が分離独立した当時から、地区に『職業奉仕委員会』はありました。これは、当然のことでしょう。然しながら、その頃の『職業奉仕委員会』は、例えば、 1982年の10月は、たまたま『四つのテスト』創始50周年に当たっていたのですが、そのことが、殊更に大きく取り扱われたと云う訳でもありませんでした。またその後も、ガバナー月信のなかでは、職業奉仕委員会についての報告らしい報告も見当たりません。 ロータリーには、四大奉仕部門があって『職業奉仕』はそのなかの1つであることは、今更云うまでもないことではありますけれども、ロータリーは職業奉仕の団体だとさえいわれている、その団体の月信のなかに、『職業奉仕』という言葉が出てこないというのは、いささか奇異に感じます。このことは、当時のガバナー月信を調べてみて、初めて気いたことですが、古くから在籍しているベテラン・ロータリアンの方々も以外に思われたことでしょう。

但し、ガバナー月信のなかに取り上げられていなかったからといって、地区の皆さんが職業奉仕について無関心であったかといいますと、決してそうではありません。 そうではないどころか、この頃のロータリーでは、職業奉仕や、社会奉仕が如何にあるべきかなどという、ロータリーの基本に関わる議論が盛んに行われていました。では何故、職業奉仕がガバナー月信の記事にならなかったかといいますと、それがロータリーにおける他の3つの奉仕部門とは違った性格を持っていたからです。 と云いますのは、他の奉仕部門は、国際奉仕にせよ社会奉仕にせよ、サービスの目的があって、その目的を実現するための行動が伴うものです。 そして、全てのサービスの背後にロータリーの基本とする考え、即ちロータリー哲学があるのですが、このロータリーの基本となる考えが、職業奉仕なのです。 いま職業奉仕とは何かと云う議論をする積もりはありませんが、職業奉仕は、RI会長や地区ガバナーのメッセージなど、月信のなかの文章では常に強調されていますので、殊更にはタイトルを付けて取り上げられることはありませんでした。当時のロータリーでは、炉辺会合(いまの家庭集会を以前はこう呼んでいました)などなにか会合があると、先輩のロータリアンから職業奉仕とは何かと云う話を聞かされたものです。

1989―'90年は石橋年度ですが、これに先立つ1987-'88年度の第2回RI理事会で、職業奉仕に関する新方針が採択されました。 その内容は、ロータリー手続要覧の1989年版に掲載されていますのでご覧頂きたいと思いますが、このなかに『職業奉仕は、ロータリー・クラブとクラブ会員両方の責務である。クラブの役割は、たびたび職業奉仕を実践してみせることによって、また、クラブ自身の行動に職業奉仕を生かすことによって、模範となる実例を示すことによって、さらに、クラブ会員が自己の職業上の手腕を発揮できるようなプロジエクトを開発----------』と謳われております。 さらに1989年の規定審議会では、職業宣言のなかに、『--------------青少年に機会を開き、他人からの、格別の要請にも応え、地域社会の生活の質を高めよ。』と云う文章が採択されました。職業相談や職業指導、優良職業人の表彰など、本来なら社会奉仕活動の対象ともいうべき奉仕活動まで、職業奉仕の一環として求められたのですから、これが地区でもその後、ロータリーは『アイ・サーブからウイ・サーブへ転換するのか』の議論を呼び起こして、社会奉仕に関する決議23―34,所謂セントルイス宣言とも相俟って、活発な議論が行われるようになりました。この頃からロータリーはすこしおかしくなって、それが今に至っているのでしょうか。

1991年の地区協議会では、このRIの職業奉仕についての新方針について、『職業相談』『職業指導』『職業情報』『職業活動表彰』などを地区でどう取り上げるかが検討されましたけれども、その内容には青少年奉仕や社会奉仕とオーバーラップする点が多く、また当時の日本の国内状況に適合しないこともあって、これという結論も得られないまま放置されました。 地区全体の考え方としては、国際ロータリーの活動方針が変わったからといって、それに足並みを揃えて従う必要はなく、各クラブには夫々クラブ独自の伝統や、長い間に培われた個性があるのだから、それを尊重すべきであるという考えでした。ロータリーの基本はクラブにあるのですから、このような結論を出した地区の態度は、正鵠を得たものと云わなければなりません。ロータリーは、時代とともに変わっていくことは当然のことと思いますが、RIがロータリーの基本についての間違った解釈をすると云うのは、それとは別問題で、許されるべきではありません。

国際ロータリーの決議事項については、一般的にはあまり批判を加えることなしに、受け入れるものですが、職業奉仕に関するこの決議だけは、大いに論議を呼び、その後も1990年代の後半に至るまで、セントルイス宣言(決議23―34条)の内容と対比させながら、『アイ・サーブ』か『ウイ・サーブ』かの問題が論じられました。(セントルイス宣言については、次回『社会奉仕の歩み』の項で書きます。)

1999―2000年度のRI会長は、イタリアのカルロ・ラビッツアでした。 C.ラビッツアは、1986年の規定審議会でRI理事会が、所謂セントルイス宣言を廃棄してこれに代わって決議86―203を社会奉仕の新方針として提案しようとしたときのRI理事でした。その時、日本から選出されている理事はこれに強く反対しましたが、理事会では賛成者も多く、議論が紛糾しました。その時、C.ラビッツア理事の計らいで、これが取り下げになったという経緯があります。 考えようによっては、C.ラビッツアは日本のロータリーとは非常に関係深い人だと言ってよいかも知れません。

1999―2000年度のラビッツアRI会長は、『ロータリー2000:活動はー堅実、信望、持続―』をRIテーマとして、21世紀に向かってのロータリーの変革を求めました。 彼は、質の高い会員を求めるためには、一時的な会員の減少も止むを得ないといっています。 彼が強調した目標は、質の強化、古くなった伝統の否定、ロータリーの機構・進路の再検討、ロータリーの行動とは奉仕―奉仕は地域社会へ、世界社会へ、地域・国際社会での活動で会員の価値は決まる、の5項目に表されたロータリーの変革です。 ロータリーが新しい時代のなかで、発展していくためには、思い切った変化が必要でしょう。 ラビッツア年度は、そのためにも思い切ったターゲットを示したといわなければなりません。

国際ロータリーでは、何年かおきにロータリーを紹介するための、分かりやすいパンフレットが発行されています。そのパンフレットの冒頭に、ロータリーとは何かについて、端的に説明してあります。

ごく最近まで配布されていたここパンフレットには、『ロータリーは職業奉仕の団体である』と書いてありました。ラビッツア年度の 1999年に発行されたパンフレットでは、冒頭の文面から職業奉仕という言葉が消えて、『ロータリーは国際奉仕の団体である』という文章に変わりました。これは、ロータリーにとって大きな変化と云わなければなりません。ロータリーが『職業奉仕の団体』から『国際奉仕団体』に変身したのですから、大変な議論を呼びそうなものですが、そのままぎろんの対象にはならないまま終わっています。ロータリーが世界の注目を浴びながら生きていくためには、このような変身もやむを得ないことかも知れませんが、こうなって来ますと、ロータリーのアイデンテテイは失われることになります。そのことが問題視される事もないほど、RIは変貌していると云うことです。

1999―2000年度RI会長テーマの意味する内容とあわせてこのパンフレットの変化を考えますと、これから将来に向かっての国際ロータリーの方向は自ずから明らかになってくるようです。

その後の規定審議会での決議事項の内容などから、地区でもロータリーの今後の進路について、とくに古い熱心な会員の間で、多くの議論がなされました。 これでは、国際ロータリーは最早ロータリーではないという極端な議論もありました。 とくにロータリーの伝統を最も厳しく守っている日本のロータリーでは、この議論は盛んでしたが、その日本のロータリー・クラブでも、1945年以後に生まれた戦後世代(或いは団塊の世代といってよいかもしれません)がリーダーシップをとる時代になると、職業奉仕論議は空虚な議論として、歓迎されないかも知れません。

1982年以来20年間に、職業奉仕について以上の2つの大きな問題が提示されました。 そのことは、時代の要請に応えるためのロータリーのメタモルフォーゼとして止むを得ない事かも知れませんが、しかしながらだからといって、私どもが職業奉仕を捨て去る必要は少しもありません。 日本のロータリーは、あくまで職業奉仕の団体だとして、これからも育って行くべきだという考えに変わりはありません。

(菅 正 明) 

各ロータリー・クラブは、創立以来、クラブのある地域に密着した社会奉仕活動を続けてきました。 例えば、門司、門司西両ロータリー・クラブが1977年以来今日まで30年近く継続している『有料健康勤労者夫妻表彰』にしましても、その他、福岡東RC 肢体不自由児キャンプの支援(1982),小倉RCの兼恵園老人ホーム設立(1980)、対馬RCの対馬島内ロータリー文庫の創設(1982)など、ロータリーの社会奉仕活動は、全て個々の会員の協力支援によるものです。 且つて、戸畑東RCが『意義ある業績賞』の受賞対象となった、『知恵遅れの子どものための戸畑幼稚園への支援』にしましても、あくまで会員の個人参加によって、活動が支えられて実現したものです。

このように、奉仕活動は、全て個人の奉仕であるべきだというのが、ロータリーの基本哲学として守られてきました。 ロータリーの社会奉仕活動の基本は『決議23―34』にあることは、既に皆さんご承知の通りです。『手続要覧』では『社会奉仕活動に関する1923年の声明』として収録されています。 これにつきましては、1990年6月のRI理事会で、決議23―34全文を破棄して、これに代わる新声明を作ろうとした経緯がありますので、そのことを簡単に述べておきます。

先ほど述べましたように、セントルイス宣言は1986年シカゴで開かれた規定審議会で破棄し、これに代わる社会奉仕に関する新声明を提案することになったのですが、これは取り下げられました。 その後この件については、シンガポールでの規定審議会では提案されず、RI理事会はこのセントルイス宣言の破棄について、社会奉仕委員会の検討課題としました。 社会奉仕委員会は、1990年2月、『決議23―34』は時代に合わなくなったので撤廃すべきだと認め、同委員会が起草した『社会奉仕に関する新方針』に置き換えるようRI理事会に勧告しました。 その後、日本のロータリアンの総意を担っての蔵並RI理事の努力と、サブーRI会長の協力とによって、『決議23―34』はそのまま残され、『社会奉仕に関する1992年の声明と』併記されることになりました。

日本のロータリアンが強く固執した『決議23―34』とは、どんな内容なのでしょうか。 若い会員のなかには、ご存知ない方も多いと思いますので、ここに要点だけを箇条書きにしておきます。 本文は、手続要覧の社会奉仕の項をご覧下さい。

『決議23―34』の内容:
 ① ロータリーは、『最もよく奉仕するもの、最もよく報われる』という実践倫理に基いた実践哲学である。
 ② 国際ロータリーは、種々の奉仕活動が、ロータリーの目的から逸脱しないよう注意するための、
  情報交換機関である。
 ③ ロータリーは心の持ち方だけではなく、実際に行動しなければならない。
 ④ 『We serve』よりも『I serve』の方が、ロータリーの精神により一層合致する。
 ⑤ 奉仕活動の主体は、あくまで各クラブである。国際ロータリーは、クラブに対してアドバイスは出来るが、命令することは出来ない。

どうでしょうか。 当時、日本のロータリアンが、その撤廃について、声を大にして反対した訳が、よくお分かりになったことと思います。

1990-'91年度のP.VC,コスタRI会長は、社会奉仕の重要課題として、環境保全問題を取り上げました。 第2700地区は上野正康年度でしたが、上野は、国際協議会から帰国するとすぐに、地区社会奉仕部門に環境保全対策委員会を設置しました。 すでに述べましたように、RIでは10年以上前から、環境問題を将来の重要課題として検討していました。 1973―'74年度RIは、『環境調査と資源諮問委員会』を設けて、環境対策の重要性をロータリアンに訴えました。次いで1980年、シカゴでの国際大会でも、環境問題を強調、1986年の規定審議会では、日本の第262地区浜松東RC提案の植樹症例案が殆ど全会一致で賛成されました。このように、ロータリアンの目立たない長い間の努力が、ここで初めてRIの表面に浮かび上がったということです。 地区の委員会構成は、第270地区の分割以来、変化のないまま10年経過したのですが、ここで初めて『環境保全委員会』という新しい委員会が加わることになったのです。

コスタ会長は、環境保全問題に特別な関心を寄せ、『ORESERVE PLANET EARTH―地球保全―』を訴えるとともに、『The Green Wave』と名付けたニュース・レターを発行して、環境問題の重要性を世界に訴えました。 地区では、これに応えて、ガバナー月信には毎号、例えば『アースワーク・グループ著(土屋京子訳 地球を救うかんたんな50の方法』や『ジョン・シーモア著 地球に優しい生活術』など、環境問題に関する著書が沢山紹介されて、会員の関心を寄せました。

上野の熱心な働きかけに応ずるように、地区内の各クラブでも独自の環境保全プロジエクトを計画・実行しました。例えば、1991年9月に若松中央RCが実施した『グリーン・ルネッサンス北九州'91』に対する協賛、前原RCの『糸島の川に十万匹の蛍を飛ばそう』、福岡東RCが2000年から始めた『地球環境・ゆめ劇場』などです。特に、前原RCのプロジエクトは、'95年度の意義ある業績賞に選ばれ、その年7月の『ロータリー・ワールド』にも大きく取り上げられ、世界の注目を集めました。

環境保全と経済発展を両立させるということは、きわめて困難な問題ですが、もう環境問題を優先させる以外は考えられない時代に来ているといってもよいでしょう。 上野年度の1年前から、RIでは環境問題を取り上げており、『経済発展と環境保全におけるロイータリー精神―日本のロータリアンに何が出来るかー』というテーマで座談会を企画していますが、第270地区からは九州電力出身の石橋周一ガバナーがし出席して、政治問題とも関連させながら、意見を述べています。 昨今の原発事故を考えますと、ロータリーの予見性について、改めて考えさせられるではありませんか。

(菅 正 明)

1985年5月、RI理事会は『高齢者のための委員会』を設置して、高齢者のための奉仕活動についての指針を纏めて発表しました。

それによりますと、活動目標として、リタイヤーした高齢者のための支援プログラムが挙げられており、プロバス・クラブなど高齢者クラブの結成や、高齢者と若者との世代間のギヤップをなくするためのプログラムなどが推奨されています。

第2700地区では、1989年4月に北九州で開催された地区大会(吉田茂雄ガバナー)の第1日目に、『高齢者社会への対応』と云うテーマで分科会が開かれましたが、そのときその会のカウンセラーだった岡野パスト・ガバナーから横倉G.ノミニーに、「(地区の)高齢化対策について、どう思うか」と云う話があり、横倉G.エレクトが「昭和62年(1987年)の統計では、65歳以上の高齢人口は1332万、10.9パーセントです。高齢人口がピークになる昭和96年(2021年)には、それが23.6パーセントになるそうですから、わが国として、避けて通れない問題と思います。」と応えましたが、この後すぐに『地区高齢化社会対策委員会』が発足することになりました。

その後、日本の高齢化は、これまで世界では見られなかったような早いスピードで進みました。 平成12年(2000年)の国勢調査によりますと、年齢65才以上の高齢人口は、25.5パーセントとなっていますから、13年前に国立人口問題研究所が予測した2021年には23.6パーセントになると云う数字を、はるかに超えています。 ものすごい速さで高齢化が進んでいることに、今更ながら驚かされます。

地区では、高齢化社会対策委員会が発足したものの、あまり問題が大きく、その対策には社会経済面からの制度整備や、それに関連した政治課題など、ロータリーだけでは対応できない問題があまりにも多岐に渉っているので、地区委員会も各クラブもその対応に戸惑って、どこから手を付けてよいか、分からない状態でした。 それはとにかく、やれる所から始めようと手探りで委員会が発足したというのが実情です

その時、取り上げられた問題としては、ロータリアンとしての心構えについて、高齢者を尊敬しよう、但し甘えさせてはいけない、高齢者は老人意識を捨てて社会の役に立て、高齢者は人生経験を次世代に伝えよ、高齢者は進んで奉仕活動に参加せよ、大へん厳しいものでした。 また、ロータリー・クラブの対策として、高齢者をクラブ奉仕に参加させ、その人生経験をクラブ活動に生かせ、65歳老人説を廃棄せよ、プロバス・クラブを創れなど、なかなか前向きの提言が沢山挙げられていますが、中には安楽死の研究とか臓器移植の推進などどうも理解に苦しむようなテーマも見られます。 ここに挙げられたテーマを見ただけでも、ロータリーは高齢問題について、かなり進んだ考えを持っていたことが分かります。

この時期に、地区内で独立の高齢化社会対策委員会を持っているクラブは、4クラブに止まり、多くのクラブでは、老人問題を卓話のテーマに取り上げたり、社会奉仕委員会の活動の1つとして老人ホームや、この頃から問題になり始めていた寝たきり老人の慰問を計画する程度でした。 豊前西RCでは、小学生が書いた葉書を75才以上の高齢者に送って、老人と小学生の心の交流を図りましたが、これが大成功でした。

1994年になって、地区でもプロバス・クラブが話題になりました。

プロバス・クラブは、1965年にイギリスのロータリー・クラブが始めたものです。 Professional(専門職)とBusiness(事業)の頭文字をとってPro―Bus Club(プロバス・クラブ)と名付けました。専門職と事業に携わっていた人たちが引退後、この会に入会出来ます。 ロータリアンも入会出来ますし、クラブ運営にはロータリーのあるような、厳しい規則もありません。 クラブ独自のルールで運営できるので、プロバス・クラブを提唱したロータリー・クラブも大へん楽な気持ちでお手伝いが出来る訳です。 日本国内でも、上郡RC提唱のプロバス・クラブ『清流会』その他、赤穂、神戸北、姫路などのロータリー・クラブが提唱しています。 ロータリーでは、1985年に組織されたRIの『高齢者のための委員会』でも、推進事項としてプロバス・クラブが挙げられています。

第2700地区では、平成9年5月、壱岐RC創立30周年記念事業の1つとして、『壱岐プロバス・クラブ』を提唱しました。これが、地区のプロバス・クラブ第1号です。 この年、全国では14のプロバス・クラブが活動していました。 次いで翌'98年、福岡城東RCの提唱で福岡城東プロバス・クラブが誕生しました。 平成13年7月(2001年)現在の地区内プロバス・クラブの一覧表をここに挙げておきます。

【地区内プロバス・クラブ一覧表】 クラブ名 提唱 設立年月日 初代会長 例会場 電話
壱岐 壱岐 1997.5.25 末永 徳春 壱岐ボウル 09204-7-2121
福岡城東 福岡城東 1998.3.11 武藤 五郎 Hステーションプラザ 092-474-4530
みやこ 行橋みやこ 1999.3.14 森友 忠生 京都ホテル 0930-25-0655
北九州 小倉 1999.11.11 今田 章 松柏園ホテル 093-551-3783
田川 田川 2000.6.26 水城 和男 ラ・ファミーユ・フクジュ 0947-42-4306

*その後、平成13年12月14日、小郡RCの提唱による『小郡プロバス・クラブ』が誕生。これで地区内プロバス・クラブは、6クラブとなった。

高齢化対策というのは、社会奉仕における重要テーマであると同時に、クラブの問題でもあります。 ある先輩ロータリアンに、「クラブの高齢会員の問題も真剣に考えなければいけないのではないでしょうか」といいましたら、「私は、元気に頑張っていますから」そんなことは関心事ではないという答えを頂きました。 しかしながら考えようによっては、クラブの高齢化対策のほうが先決問題かもしれません。

ロータリアンの高齢対策の1つとして計画実行されたのが、行橋みやこRCの『スーパー・ロータリアンズ・サミット(S.R.S)』です。

行橋みやこRCは、かねてからアイデア豊かなプロジエクトを考え出すクラブですが、このS.R.S.もそのうちのの1つです。 各クラブの元気な高齢会員が集まって語り合うのも有意義なことではないかというのが、この会合の発端でした。 家庭集会で会長の田村**会員の発言がきっかけだったようですが、それを直ちに実行に移すところが、行橋みやこRCらしいと思います。 計画の中途で、全国のロータリー・クラブから参加者を募集しようかという意見もあったようですが、開催地を行橋市と決めていたことなどから、取り敢えずは第2700地区内に限定しようということになりました。

『第1回 スーパー・ロータリアンズ・サミット』は、平成8年11月10日(1997年)行橋市のウイズ行橋で開催され、地区内から75才以上のロータリアン18名が参加して開かれました。 第2回のS.R.S.は、翌平成9年3月29日(1998年)、同じく行橋市のみやこホテルで開かれ、23名の参加者がありました。 第3回は、行橋みやこRCの意向を受けて、戸畑東RCがホストとなり、平成10年9月26日(1998年)北九州市のリガ・ロイヤル・ホテル・小倉で開催、茂原RCの会員で明治37年生まれの当時94才、ゴルフ現役の内田収三会員を呼んでの講演会も開かれました。 この年は、年2回の開催でしたが、26名の参加者を得ました。

S.R.S.は、その後も地区内クラブの回り持ち開催が期待されましたが、その後は中断したまま現在に至っています。 S.R.S.と云う企画は、なかなか面白いし、意義あるものだと思うのですが、それに参加するエイジド・ロータリアンが、何故自分たち自身でこんな会合を企画しないのでしょうか。 若い会員が計画した会合に、出席して、発言して帰る、ただそれだけなら他の何かの集まりとちっとも変わりはないのです。 ベテランのロータリアンなら、ただ出席するだけではなしに、もっと自分から積極的に参加すべきでしょう。この辺りが、S.R.Sが3回で中断した1つの理由でもあるのでしょう。

1989年に設けられた『地区高齢化社会対策委員会』は、2000年まで存続しましたが、それ以後は地区委員会から姿をけしました。 その役割を終えたからでしょうか。その理由は不明です。 高齢問題は、会員自身の問題でもあります。 或いは、クラブ奉仕のなかに高齢問題委員会を設けるのも、1つの考えかも知れません。

なお、会員の高齢化問題について興味をお持ちの方は、『ロータリーの友』1998年6月号『ノーマライゼーション(友愛の広場)』を参照下さい。

(菅 正 明)

平成7年(1995年)9月17日、福岡市西日本銀行本店で、『青少年奉仕セミナー』が開かれました。 セミナーの基調講演は、深川純一パスト・ガバナー(PG)の『青少年奉仕に取り組むに際してのロータリアンの心構えと青少年との係わり合い方について』と云ういささか長いテーマの講演でした。深川PGは、講演のなかで、ここでの青少年奉仕はロータリーの青少年奉仕であって、例えば、お金を出してボウイスカウトを育成すると云うような、一般社会での社会奉仕ではなくて、あくまで『ロータリーでの奉仕』だと云うことを強調しました。 深川PGが,わざわざ『ロータリーの』と強調したのは、ただお金を出すだけでは駄目だ、青少年奉仕活動を通じて、ロータリーの目的を青少年に、さらには青少年を取り巻く地域社会に十分理解して貰い、浸透させなければならないと云うことを、強調したかったからです。

ロータリーでは、青少年奉仕について、どのような考えをもっているのでしょうか。 RIの青少年奉仕についての考え方は、手続要覧に明記してあります。 手続要覧は、規定審議会でロータリーの規則が改定されるたびに、新しい版が作られますから、3年に1回改訂版が出る訳です。 手続要覧のなかで、RIの青少年奉仕の取り扱いが、どのように変わって行ったか、その経過を辿ってみましょう。

第270地区が分割した1982年から今日までの20年間に、要覧は改訂版が7回出版されています。 ロータリーは創立以来、青少年奉仕を社会奉仕活動の1つの柱としてきました。身体障害児童の救済事業(Crippled Children Work)が、『社会奉仕活動に関する決議23―34』提案の原因になったことについては、すでにご承知の通りです。

青少年奉仕が、手続要覧のなかで、職業、社会、国際の各奉仕部門と同じ重要な奉仕部門として取り上げられたのは、1984年の改定以来のことです。 これは、手続要覧の編集方針の変化にもよりますが、RIが青少年奉仕の重要性を、これまで以上に認識するようになったからに他なりません。 要覧の『青少年への奉仕(Service to Youth)』と云うタイトルは、それ以前とは変わりませんが、その取り扱われるウエイトが増したと云うことでしょう。

1998年の手続要覧では、青少年奉仕についての大改定が行われました。 『青少年への奉仕』が『新世代のためのロータリー・プログラム(Rotary's Programs for New Generations)』と変更されました。

これまでも、例えば青少年障害者について、'Handicapped Youth'が'Youth with Disabilities'と変更されたと云うような部分的変更はありましたけれども、この年度のような大きな変更は初めてです。

『青少年』が『新世代』に代わっただけではなく、内容も一新して、奉仕の目標にしましても、それまではただ『青少年にとって健康体』と云うように、表現も抽象的でしたが、新しい要覧では『健康:ポリオ・プラス、薬物乱用、エイズへの理解』と云うように、具体的表現が取り入れられています。

『新世代』の意味する内容につきましては、まえにも触れましたし、関連の論文もたくさんありますので、ここでは省略します。

1982年、第270地区が分離独立したときの、地区内インターアクト・クラブ(IAC)は20クラブ、それから20年後の2003年には31クラブになりました。 第2700地区は、国内有数のインターアクト活動の盛んな地区と云ってよいでしょう。 ここに挙げた図は、地区内IAC数と会員数の推移を示したものですが、各クラブのIACに対する熱心な取り組み方がお分かりだと思います。 面白いことに、地区内ではIACは北九州が盛んで、久留米から筑後にかけての県南部では低調、交換学生はそれと反対に、県南部で盛んですが、県北部では低調と云う傾向にあります。

クラブ数会員数の推移

ここで、インターアクトの歴史を振り返って見ましょう。 既に述べましたように、ロータリーは創立以来、青少年を目標にした奉仕活動を推進してきました。 1933年、RIは時の初代RI事務局長であるチェスリー・R.ペリーの意見を入れて、少年週間を青少年週間と変え、青少年奉仕委員会を設けました。 その後、1959―'60年度のRI副会長だったウイリアムR.ロビンスが、メルボルンRCの指導で運営している高校生の集まり『ホイール・クラブ』に着目して、同じような青少年の活動をRIで計画するよう熱心に訴えました。 たまたまその年度のRI会長は、あの『ロータリー・モザイク』の著者ハロルド・T.・トーマスでした。 彼は、青少年奉仕と国際奉仕とを組み合わせるような奉仕活動プログラムは出来ないものか、と考えていたものですから、その任期中にロビンスの話を中心に、慎重な調査研究を行い、その結果1962年10月、インターアクト・プログラムが制定されました。 いま、毎年11月5日を含む1週間が『世界インターアクト週間』ですが、これはどうしてでしょうか。 ご存知の方は教えて下さい。 因みに、インターアクトは、InternationalとActionのInterとActとを結びつけて作った言葉で、奉仕と国際理解を目的とする、14才から18才までの青少年の世界的団体です。 わが国では、翌1963年に宮城県の仙台育英高校で最初のインターアクト・クラブが誕生したことは、既に述べた通りです。

インターアクトが目指す目標の第一は、自己の完成とリーダーシップの養成にあります。 その他いくつかの目標が挙げられていますが、それらは、国際理解を深めることを含めて、全て自己完成とリーダーシップの獲得のためには必要なことでしょう。 IACは一般的に奉仕のためのクラブと思われていますし、会員を募るときにも、そのように説明されているようです。しかしながら、それは間違いで、インターアクトの目的はあくまで青少年の『自己の完成』にあります、奉仕活動はそのための手段ではあっても、決して目的ではありません。このことを忘れては、IACは成り立ちません。

1982―'83年度の中牟田喜一郎ガバナーは、青少年の将来像について、『いまの青少年が20年先の21世紀には30台を超えて、社会の中核をなす』と深い関心を寄せていましたが、いまその21世紀になって、若者たちがどのように育ったでしょうか、大へん興味深い問題です。各IACでは、夫々独自の奉仕活動を、あるクラブでは単年度に、またあるクラブでは継続事業として、地味な奉仕活動を続けてきました。昭和40年に創立した戸畑商業高校IAC(戸畑RC)では、創立以来17年間継続した道路清掃奉仕について、建設大臣表彰を受けるなどは、その1例でしょう。 1986―'87年度には、小倉工業高校IAC(小倉RC)が単独で4泊5日の韓国訪問を実施し、慶州高校、慶州女子高校との交歓を行いました。 小倉工業高校で特筆しておきたいのは、スポンサー・クラブの小倉RCと一緒に、カリフルニア州サクラメント市に日本の桜を贈り、カリフルニア州を代表するアーモンドの木を北九州市に植樹して、『グリーン北九州』キャンペーンに協力したことです。 アーモンドは、桜に似たピンク色の可憐な花を咲かせます。 北九州市での植樹式は、多くのロータリアンをはじめ、ミス・ユニバース日本代表も出席して、盛大に行われました。 また、1988―89年度の年次大会では、ホストの久工大付属高校(久留米東RC)のアクターを中心に112名が愛の献血に参加したり、1993―'94年度には、『薬物乱用防止についての青少年作文コンテスト』を実施、最優秀賞に福岡西陵高校IACの山口明子さんが選ばれるなど、インターアクトは多方面で多くのプログラムを実施してきました。

1988年3月26日から29日まで3泊4日で、第1回IA韓国研修旅行が行われました。 1行は、アクター24名を含む総員35名で、RI第366地区の全ガバナー始め、地区役員の大へんな歓迎を受け、記念植樹や在韓高齢日本人のための施設『ナザレ園』を訪問するなど、韓国との交流を深めました。 その後、韓国での短期海外研修は毎年実施され、1994―'95年度には、アクター48名を含む総員60名が参加するなど、規模も大きくなりましたが、その後訪問国が台湾に改められ、現在に至っています。但し、台湾にはIACがないので、今後問題になりそうです。

インターアクトでの年中最大の行事は、インターアクト年次大会です。 年次大会は、毎年8月に、1泊2日で行われていました。これは、旧地区の範囲が3県に渉っており、大会参加者は1泊せざるを得ないと云うやむをえない点もありましたが、1989年8月5,6の2日間、小倉高校IAC(小倉南RC)がホストとして開催された年次大会で、『お金を食う大会は、今年で止めよう』と云うことになって、翌1990―91年度の遠賀高校IAC(遠賀RC)がホストを務めた宗像市での大会から、日帰りの年次大会となりました。 その後、博多女子商業高校IAC(福岡南RC)がホストを務めた1994年の年次大会が、4月29日『みどりの日』に開催され、それ以降この日に定着して、現在に至っています。

インターアクトを提唱しているクラブでは、各IACへの負担金の他、地区分担金、海外研修のための資金、指導者講習会その他の諸会合の分担金など、クラブ負担金が決して少ない金額ではありません。勿論、奉仕活動にはそれなりの負担がかかるのは当然のことですから、それについては、なにも問題はないのですが、奉仕活動にもコストとエフェクトが顧慮されるべきで、インターアクトのクラブ負担について、検討し直すべきではないかとの意見が、毎年のように提唱クラブから出ています。 また、1995―96年度地区委員の今里会員(大牟田RC)は、『この委員会,並びに24校のIACの年間実行費は2,500万円位あります。このような多額の予算を使用するからには、全ロータリアンに喜んで頂けるような活動を、実績で表さなければならない』と書いていますが、まったくその通りだと思います。

RIでは、IACの資金調達について、次のように云っています。

 ① IACのプログラム遂行に必要な資金は、IAC 自身の責任で集めなければならない。
 ② 提唱クラブは、IACに時折、または臨時の援助以外に財政的援助をしてはならない。
 ③ IACは、他のIAC,RACに財政的援助を求めてはならない。
 ④ IACは、地域の個人、商店、団体に、財政的援助を求めるときには、それと同じだけの代償を
   提供しなければならない。
 ⑤ IAC会員の会費、分担金は、ごく僅かとし、IACの管理費を賄えるだけとする。

これをご覧になって、どのようにお感じになりますか。 いまの地区におけるインターアクト・クラブの運営については、根本的に考え直さなければいけないのではないでしょうか。

(菅 正 明) 

ローターアクトのカウンセラーである大屋PGは、1997-'98年度の地区ガバナー在任中から、「ローターアクターは、young adultなのだから、ローターアクト・クラブ(RAC)の運営は、アクターがもっと自主的にやるべきだ」と繰り返し云っていました。 RIのローターアクトについての取り決めを読んで見ましても、まさにその通りで、RACの運営はIACとは比べ物にならないくらい、クラブの主体性が尊重されていますし、もちろん財政的にも『ロータリー・クラブに財政的援助を求めてはならない』と謳われているように、ロータリー・クラブとは独立の組織と云ってもいいくらいです。

第2700地区におけるRAC数の推移を見ますと、1982年、地区が分離した年の地区内RAC数は、20クラブ、会員数414名で、提唱率は、全国第5位でした。 その後、クラブ数は、昭和63年(1988年)に1クラブ、続いて翌平成元年(1989年)に1クラブ誕生して22クラブとなりましたが、会員数は減少の一途をたどり、回復の傾向は見られず、1997年には会員数226名と、分離当初の54パーセントまで落ち込みました。また会員数も、地区内22クラブのうち9クラブ、約40パーセントが、会員数10名以下と云う状態になりました。 また、アクターの平均在籍期間は、1984年に1年11ケ月でしたが、その後は1年8ケ月となり、特に都市部で在籍期間は短縮する傾向にあります。その後は、いくらかは会員数も増えましたが、低迷状態は続いています。

1985-'86年度第1回日豪青年相互訪問プログラムが始まりました。派遣人員は30名、1986年5月1日から8日までの8日間で、東オーストラリア・シドニー首都圏が含まれるRI第968,969,975地区を訪問、オスモアRCやケシントンRACなどと交流しました。第2回の相互訪問は、参加人員18名、期間は1987年3月15日から29日までで、RI第964、975地区のRYLA発祥の地ブリスベーンを中心に交歓しました。その年の5月11日から2週間、オーストラリアから20名のローターアクターを迎え、彼らは5月16,17の両日に開かれた第18回RA年次大会に出席しました。 RACの国際交流は、その後も現在まで盛んに行われており、1991年の年次大会には台湾のRI第348,349地区から49名の大会出席を得、翌1992年には、福岡で開催された日韓RA国際交流会には、韓国のRI第3660地区より36名のアクターが来日するなど、韓国、台湾との交流が続いています。

平成12年8月、地区内で最初に創立した戸畑RAC(戸畑RC)が解散しました。 かねてから会員増強に苦労していたクラブですが、会員数は少ないとはいえ、公民館と共同で小学生のための触れ合い教室を開設するなど、地域と密着した奉仕活動を続けるなど、奉仕活動についても特異なクラブでした。 会員たちは、クラブの存続を強く希望していたのですが、スポンサー・クラブの事情で解散のやむなきに至ったのは、戸畑RACがこの地区最初のRACだっただけに、惜しまれてなりません。

ここで問題にしたいのは、スポンサー・クラブがRACを解散したいと云ったとき、何故戸畑RACのアクターたちが存続しようと努力しなかったのでしょうか。 スポンサー・クラブもアクターたちもどちらも、ローターアクトについての意欲を失くしたのならやむをえませんが、アクターたちは自分たちのクラブの存続について、もっと努力すべきではなかったでしょうか。 アクターたちは、たとえクラブが解散しても、公民館での奉仕活動は続けたいとまで云っていたのですから、地区ではこれをもっと支持してやるべきだったのでしょう。

インターアクト・クラブにしても、このローターアクト・クラブにしても、提唱ロータリー・クラブがIAC,RACの運営について過保護すぎると思います。 『ローター・アクターはヤング・アダルトだ』と云う大屋PGの言葉を、ここでもう一回引用して、ローターアクトの項を終わります。

RYLAは、Rotary Youth Leadership Award(ロータリー青少年指導者養成プログラム)の頭文字を取ったものです.1959年オーストラリア、ニュージーランドで誕生、1971年からRIの正式なプログラムとなったものです。 1975-'76年度のE.I.デ・メロRI会長の推奨により、わが国ではその年度に、第366地区(大阪・和歌山)で初めてRYLAが開催されました。 第2700地区では、ロータリー創立75周年事業の1つとしてRYLAが取り上げられたことは、既にご承知の通りです。

第2700地区のRYLAは、ロータリー創立75周年記念事業の1つとして始められましたが、75周年記念事業の実行委員長である新家PGは、RYLAの生みの親であり、育ての親と云うってよいでしょう。 新家PGは第1回以来、RYLAの実施には勿論のこと、地区RYLA委員会の運営にも大きな影響を与えました。 例えば、RYLA関係の地区予算も、出来るだけRYLAのために有効に使うべきだと云う考えから、地区委員会の会合のための旅費や会議のための飲食費などは、すべて自弁として、地区の旅費予算も使用しないと云う取り決めが、いまも守られています。

1984-'85年度から、第2700地区単独のRYLAが開催されるようになりました。 この年度のRYLAは、1985年(昭和60年)5月4日から3日、篠栗町にある福岡県立社会教育総合センターで、福岡東RCがホストで開催されました。 開催期間は、初め2泊3日で行われていましたが、1987―’88年度より1泊2日となり、1996-'97年度からは再び2泊3日、その後2001-'02年度から1泊2日の日程で開催されるようになって、現在に至っています。 第11回RYLAは、戸畑東RCがホストで、その年新装なった甘木市の国立夜須少年自然の家で開催されました。 地区内クラブがホストとなってのRYLA開催は、その次の1990-'91年度の久留米RCまでで、それ以後は地区RYLA委員会が主催しています。

地区RYLA委員会は、委員会創設以来絶えずロータリーの伝統を守り、前向きの運営を心掛けています。 一般的に地区委員会は、どうしても前年度までの事業を継続しがちなものです。 その上、委員になりますと、これまで以上の業績を上げたいと努力しますので、事業計画のないようが益々エスカレートすることになりかねません。この結果として、奉仕プロジエクトが委員にとって、大きな負担になってくるのです。それはそれなりの効果もあるのですが、前年度のプログラムを踏襲することが、何時の間にかマンネリズムに陥って、やがてはそのプロジエクトに対する魅力が失われると云う結果になりかねません。地区委員会は、絶えず活動内容を検討評価しながら、マンネッリズムに陥ることを避けなければなりません。単年度で完結するのが、ロータリーの奉仕活動の原則ですが、その理由もここにあります。RYLA委員会は、RYLAのホスト、テーマ、開催場所、開催期日などについて、絶えず検討しながら、マンネリズム化を見事に乗り越えて、現在に至っています。

ここでは、第6回以後のRYLAの開催期間、開催場所、ホスト・クラブ名を挙げておきましょう。

RYLA

(菅 正 明) 

青少年交換は、1774年のRI理事会によって採択されたプログラムで、通常15才から19才までの高校生を、1学年間海外へ交換留学させる制度です。 第270地区では、特にこのプロジエクトに熱心なクラブとして、'82―'83年度の地区大会で、行橋、大川、福岡東の各クラブが表彰されました。 これまで、交換学生の受入国は米国、カナダ、豪州の3ケ国だけでしたが、1982年頃から欧州よりの交換申し込みが寄せられるようになりました。

1982年、第270地区が分割独立した後も、交換学生は第270地区、第274地区の合同で実施されていました。 この地区内では、例えば大宰府クラブが交換学生とそのホスト・ファミリーを大宰府天満宮の曲水の宴に招待するなど、いろんなサービスが計画されました。

1984年以後は、第270地区単独で行われるようになりました。

そのころ、英国、フィリッピン、ブラジルなどから学生の交換申し入れがありましたが、こちらからの派遣希望学生がなかったため、それらの国からの受け入れは、実現しませんでした。

1986年頃になると、交換学生数も増加して、インバウンドもアウトバウンドも10名を超えるようになり、帰国学生も多くなったので、Rotexの組織化が計画されました。 1900年,入国管理法が改定され、20才未満の学生が日本の高校で教育を受ける場合、母国で1年以上の日本語教育を受けていることが義務ずけられました。 また、交換学生ことに日本からの派遣学生の質の低下が問題になったのも、この頃です。

1990年から'91年以後、第2700地区では余り目立ちませんでしたが、全国的に見ますと来日学生が激減しました。 その原因は、米国の不況によるもののようでした。 その代わりにと云う訳でもないでしょうが、この2年くらい前から、RIの公式プログラムとしてではありませんが、中国、ポーランド、ソ連などの非ロータリー諸国との交換が始まり、第2700地区でも1992―'93年度にカザフスタン共和国から1名来日しました。

地区の交換学生委員会は、年間を通じて大へんな時間と労力とを要します。 ある地区委員が、まるで外務省のようだと云うっていますが、まさにその通りで、委員は自分の仕事の合間に、領事館の事務方のような業務を、時には自分の職業はそっちのけでしなければなりません。 1998―'99年度は、インバウンド14名、アウトバウンド16名と過去最高の交換学生の世話をしました。 ヨーロッパからは、フランス、ドイツ、オランダ、ベルギー、スウェーデンから各1名の留学生を受け入れましたが、全体的には米国からの学生が減って、台湾など東洋諸国、ヨーロッパからの受け入れが増えたと云うこのになります。 インバウンドの学生の中には、ホーム・シックに罹ったり、その他いろんなトラブルで、中途帰国を余儀なくされたものもありますが、RIでは留学生のためのフォロー・システムを充実させ、また、地区委員会も長年の経験を生かして、留学生をサポートしていますので、今後は、これまでにも増して、大きな成果が期待できるでしょう。 且つて、日本からの派遣学生の質の低下が問題になったことがありました。 交換学生は、貴重な地区資金は勿論のこと、クラブの財政的負担、ホスト・ファミリーの物心両面に渉るサポートがあって始めて成功するものです。 受け入れるにせよ、送り出すにせよ、コストに見合った留学効果をあげて貰わなければなりません。 何を目的で留学するのか、それをはっきりと自覚している学生、或いはそれを自覚するだけの能力を持った学生を選ぶことが、学生交換の前提条件です。 交換学生は、ただ人数だけ増やせばよいと云う訳ではないでしょう。また、交換学生の規模と云う点から考えますと、現在のような厳しい経済状況が続けば、交換学生総数の減員も考えなければならないような辞退も起こりうるでしょう。

ここに、現在の第2700地区が分離して以来の、交換学生の動向を、国別、年度別に第1図に示しておきました。

第1図 交換学生の動向
インバウンドアウトバウンド

世界社会奉仕(World Community Service, WCS)は、1963年(昭和38年に創設されました。 これまでの社会奉仕と国際奉仕とが結びついたものと云ってよいでしょう。 但し、このプログラムは、求められるままに援助を行うものではなく、援助を受ける地域のロータリー・クラブが、自主独立の精神を持って最大限の努力をしても、なお力及ばぬところを、他国のロータリー・クラブが援助するもので、1クラブ単独ではなく、他の複数のクラブと共同でプロジエクトを進めるものです。 WCSは、やがて1965年に発足した同額補助金(Matching Grand)や,その後1989年に制定されたカール・ミラー助成金制度などにより、組織として充実され、例えば同額補助金の金額について云いますと、この20年間で、R財団の年間支給額のなかでの同額補助金の占める割合は、10倍近くの増加を示しています。

第270地区が分割独立した1982年頃は、WCSとは直接関係はありませんが、『愛の古切手収集』ネパールにBCGを贈ったり、戸畑RCが韓国籍無縁物故者の墓を天安市望郷の丘に建立して、ダラスの世界大会で表彰されると云うような国際的な奉仕活動が盛んに行われました。WCSについては、RIから出版されているWCSリストNo.20によってクラブ単位で取り組むようすすめられていました。

1984年11月、フィリッピンのマニラでRIアジア地域大会が開催された際、アジアにおけるWCSをテーマにした会議が開かれました。この年のロータリーの友英語版『TOMO』に日本国内全地区のWCSに関する現況が掲載されています。

1983―84年度は、①インド及びインドネシアへ井戸寄贈(40万円)、②RID386フィリッピン、コロナダルRCとの活動(60万円)が、地区のWCSとして行われ、その後もフィリッピン、インド、バングラデシュ、マレーシアなどにWCSによる援助が行われました。

1989年、フィリッピンのRI D382に対し3年間の援助計画をたて、この年はその第1年目に当たったのですが、そのときの佐村泰輔地区WCS委員長は、WCSはクラブ・レベルで行うべきもので、他区ではクラブ・レベルのWCSが活発で、これによってクラブ間の交流が盛んになっていると反省しています。

1993年1月、後にガバナーになった本間四郎地区WCS委員長のとき、地区内では初めて、59クラブの合同のWCS委員会が開催されました。 WCS委員会のないクラブからは、国際奉仕委員が出席しましたが、この年の記録では、地区内7クラブが何らかの活動(WCSと云ってよいかどうかは別として)を行っており、とくに柳川RCは、同額補助金を使って釜山の脳性小児麻痺施設に対する援助をしました。 これがこの地区最初の同額補助を使ったWCSです。

1997―'98年度のキンロスRI会長は、飢餓追放のための識字率向上運動を推進するとともに、インド、バングラデシュにおける同額補助金を使ってのシェルター建設を呼びかけました。 第2700地区では、翌1998年にシェルター10戸分を同額補助を使って建設しました。 同額補助を使ってのWCSにはこの他に、1998年、福岡南RCがジャパン・プログラムで来日していた学生の働きかけを受けて、ブラジルに盲人用の機器を贈ったことが挙げられます。

第2700地区では、フィリッピンやネパールなどに対する、複数の年度に渉る熱心なWCS活動がありますが、同額補助を使った奉仕プロジエクトが少ないと云うのが特徴です。 先にも触れましたように、同額補助金の総額は、この20年間に10倍近く増えています。

拠出金と同額の補助金がR財団から受けられる訳ですから、この制度を大いに利用すべきでしょう。 このことは、全国のR財団セミナーでも指摘されたことがありますので、今後の課題として心に留めておいてください。 一時、日本とアメリカでは同額補助を使わないようにとR財団からの支持があったとの話がありました。 RIの日本支局に確かめましたところ、そのような指示を与えたことは全くないとの回答を得ています。 これは、日本国内を対象とした同額補助は受付けられませんので、そのことが誤って伝えられたのかも知れません。

第2700地区は、全国でも有数の外国人留学生、特に韓国・中国・台湾、さらに東南アジアからの留学生が多い地区です。 1983年度(昭和58年)は、米山奨学生希望者23名のなかから8名が選ばれましたが、その国別の合格者数を見ますと、韓国2名、台湾2名、スリランカ2名、バングラデシュ1名、イラン1名となっています。これをご覧になっても、20年前から福岡在住の留学生の出身国の様子がお分かりでしょう。 その後、後ほど述べますように、出身国もアジアに限定されることなく、世界中に拡大され、また非ロータリー国、特に中国からの留学生が多くなり、その結果、奨学生の数のうえでの増加とともに、国際色豊かな奨学生を迎えることになりました。 一口に云えば、このことが第270地区分離独立以来20年間の米山奨学会の歩みと云ってもよいでしょう。

米山奨学生を支えている柱の1つは、地区内の世話クラブです。学生にとって便利性だけから云いますと、大学所在地のクラブにお願いするのがよいと云うことになるかも知れません。 しかしながら、学生の便利性だけを考えますと、どうしても世話クラブの所在地が偏ってしまいます。 地区では、例えば壱岐RCや豊前RCのような大学とはいささか遠方にあるクラブに世話クラブを引き受けて貰ったのですが、これがクラブの会員の皆さんに、米山奨学会を理解して頂くためにも、また奨学生が地域特性を体験するためにも大へん役立ちました。

10月が米山月間に指定されたのは、この地区が分離した1983年からです。 その後20年の間に、米山奨学会を取り巻く社会情勢も随分変わりました。 東南アジアなど途上国の生活水準も高くなり、米山奨学会が目指す、将来社会のリーダーとなるような優秀な学生の援助と云う目的も十分に果たせるようになりました。 1999年からは、ロータリー・クラブの所在国に関係なく、全ての国・地域から米山奨学生に応募出来るようになりました。 特に目立つのは、中国からの留学生が多くなったことでしょう。 さらに全国的に応募者の数も多くなり、事務的な処理が難しくなりましたので、2002年からは大学推薦制度が実施されています。

第2図は、1982年以降の第2700地区における米山奨学生数の推移を示したものです。 全国の奨学生数を線グラフで示しておきましたので、両者を比較しながらご覧下さい。

第2図 米山奨学生数
米山奨学会

地区の奨学生数は、その地区の米山奨学会への寄付額によって決まります。 次の第3図は、第2700地区の寄付額の推移を示したものです。 線グラフは、地区における累積寄付額、棒グラフは年度別の米山功労者、功労法人の数です。

第3図 地区累積寄付額
米山功労者、功労法人の数

次に、参考までに全国の地区別個人平均寄付額(2001年度)を、第4図に揚げておきます。 第2700地区の平均寄付額は、少ないほうから13番目と云うことになりますが、せめて全国平均までは伸ばしたいものです。

1965年(昭和40年)に発足した『研究グループ交換(Group Study Exchange, GSE)』は、国際間の2つの地区がペアを組んで実施されます。 この地区では、米国ノースキャロライナ州のRI第769地区よりGSEの申し入れがありましたが、受け入れ態勢が出来ていなかったので、実現しませんでした。 その後、第2700地区では、1987年以来3回GSEを実施しています。 1987年に実施されたGSEは、旧第270地区としては、10年振りのことになります。

以下、3回実施されたGSEの概略を書いておきます。 詳しい記録は、ガバナー事務所に保管してありますので、それをご覧ください。

第4図 地区別個人平均寄付額
地区別個人平均寄付額

○1987―'88年度:
 1.組合せ地区   RI D186(西独逸 ハイデルベルグ地域)
 2.受入れ時期   1987年9月28日―10月28日
 3.受入れ人員   Helmut Erlinghagen団長他5名
 4.派遣時期    1988年5月22日―6月26日
 5.派遣人員    脇坂順一団長他5名
 4.運営組織    『研究グループ交換』小委員会を地区に設置
          ガバナー   脇坂順一  
          G.ノミニー  吉田茂雄
          GSE委員長  藤本新二

○ 1993―'94年度:
 1.組合せ地区  RI D7980(アメリカ コネチカット州)
 2.受入れ時期  1993年10月17日―11月13日
 3.受入れ人員  Jon Hugh Alvarez団長他4名
 4.派遣時期   1994年4月25日―5月22日
 5.派遣人員   楢原純一郎団長他4名
 6.運営組織   ガバナー   国府敏男         
         G.ノミニー  片岸修次
         GSE委員長   楢原純一郎

○ 1996―'97年度
 1.組合せ地区  RI D5040(カナダ バンクーバー市並びにその近郊)
 2.受入れ時期  1997年4月17日―5月14日
 3.受入れ人員  Yang Jun Shin団長他4名
 4.派遣時期   1997年5月18日―6月13日
 5.派遣人員   俵口未加団長他4名
 6.運営組織   ガバナー  本間四郎
         G.ノミニー 大屋麗之助
         GSE委員長 中牟田久敬

第270地区が分離した1983年6月に、鳥栖RCとRI D3690の西仁川RCとが姉妹クラブを締結しました。 その後現在まで、23のクラブが姉妹クラブを締結しました。 別表はその一覧表です。

姉妹クラブ締結

(菅 正 明)

R財団と米山奨学会のこととなると、どうしてもお金集めのことになります。これはやむを得ません。 R財団の寄付活動にしましても、『ロータリーは、寄付団体ではない。 アイ・サーブの団体であって、ウィー・サーブは間違いだ』などと云って、財団の活動に水を注そうとする会員があります。 これはこれで1つの考えではありますが、賛成できません。 ロータリーも最近随分変わってきたように思われます。 それをロータリーの危機だと捉える会員もありますけれども、古くから守られてきたロータリーのよいルールは、クラブで大切に守りながら、そのうえでロータリーが新しい時代に合った行き方をすればよいことです。 変わったところばかりを大きく取り上げて議論するのは、それはそれなりにロータリーの1つの楽しみではありますが、余り理屈に走るのもどんなものでしょうかね。

現在の第270地区が分離独立した1982年に、それまでは『R財団推進委員会』と呼んでいた地区委員会の名称を、『R財団増進委員会』と変更するよう、日本支局を通じてRIから通達がありました。 推進も増進も余り変わらないようですが、財団の寄付を増やそうと云うRIの意欲のようなものが感じられて、面白いですね。 序に、この20年間に地区財団委員会の名称の変遷を辿っておきます。

地区R財団委員会は、奨学・学友・推進・米山の4つの小委員会で構成されていました。 '82年名称変更の後、1983年から『奨学・学友』『米山』『財団増進』の3つに分かれ、翌'84年から『R財団(奨学・学友・増進)』と『米山』の2つとなりました。 1987年、これに『ポリオ・プラス』と『GSE』の2つの委員会が加わり、翌'88年『GSE』が除かれ、次いで1991年に『ポリオ・プラス』がなくなりました。 その後『GSE委員会』は、1991年から'93年までと、1995年に設けられています。 1995年には、『R財団委員会』は『奨学・学友・増進』の3小委員会となり、『米山』は『国際奉仕委員会』に組み込まれました。 『地区国際奉仕委員会』は、『米山』『国際青少年交換』『世界社会奉仕(WCS)』の3委員会から構成されています。 1996年、『地区R財団委員会』のなかに『ポリオ・プラス』が設けられて、『奨学』、『学友』、『増進』及び『ポリオ・プラス』の4つの小委員会となり、現在に至っています。 これを書いている2002―'03年度の地区委員会構成表を見ますと、『増進』が『推進』に変更されていますが、RIからの要請によるものかどうかは分かりません。

地区委員会の名称の推移について、いささか冗長と思われることを書きましたが、これをお読み頂くと、地区の奉仕活動についての考え方なり、奉仕についての姿勢なりが覗えると思います。

話を、元に戻します。 1982年、人頭分担金(この語はどうも適当ではありませんが、当時使用されていますので、そのままにしておきます)が17米ドルから20米ドルに引き上げられました。地区では、各クラブに対して、『財団の友』になるよう働きかけがありました。 この時の『財団の友』は、現在推進されているものと違って、クラブの全会員が1人当たり10ドル、財団に寄付するとクラブが『財団の友』になると云う制度です。 2002年になって、『財団の友』を募集していますが、これは以前の制度と形は違います。

また、現在のベネファクターと同じく、1,000米ドルをR財団に寄付する『世界理解と平和のための基金』が設立されたのも'82年です。 『冠名奨学金制度』も出来ていましたが、会員にはまだ十分に理解されてなかったようです。 地区の分割以後、財団奨学生の数が減少傾向にあるので、財団寄付の増進、ポール・ハリス・フェローへの参加推進が熱心に行われるようになり、クラブとしても、例えば久留米RCでは、会員の結婚記念日に財団に1,500円寄付するなど、色々な試みが実施されました。

1985年(昭和60年)、『ポリオ・プラス・プログラム』が発表され、世界的規模の運動となりました。 RIは、WHOの要請を受けて、ロータリー創立100周年に当たる紀元2005年までに、世界中からポリオ、はしか、結核、破傷風、百日せきを絶滅しようと云う壮大なプロジエクトです。 この年(1985年)、RIでは『ポリオ・プログラム月間』を設定、1990年まで毎年3月をその月間としました。

RI理事会とR財団管理委員会は、1億2千万米ドルの募金目標を設定、地区では『ポリオ・プラス委員会』が設けられ、第15回ロータリー研究会ではポリオ・プラスについてのキャンペーンが行われるなど、1986年から、ロータリー挙げての大きな運動が展開されたのです。

ポリオ・プラス・キャンペーンは、1988年で締め切られましたが、日本での募金活動は1991年6月30日まで延期されました。 募金目標は1億2千万米ドルでしたが、キャンペーン終了時には、当初の目標をはるかに超えた2億4200万米ドル(183パーセント)が集まりました。 日本での目標額は、2,700万米ドル(40億円)でしたが、キャンペーン終了時には3,300万米ドルに達しました。 第2700地区では、R財団の寄付と競合するのではないかと、当初は募金額の達成が危ぶまれましたけれども、結果としては国内34地区の上位にランクされることが出来ました。ポリオ・ワクチンにつき日本ロータリーは、1992年に『WHO西太平洋地域ポリオ根絶委員会』からの要請を受けて、非ロータリー国ではありますが、中国での接種を行いました。

地区では、これに対して各クラブより寄せられた金2,036,503円(平成5年4月12日現在)を贈り、これに対して、クリフォード・ダクターマン'92―'93年度RI会長より感謝状が贈られました。

1991年(平成3年)、それまでの褒賞枠から現在のシェア・システムに変更されました。 一般寄付の60パーセントが地区財団活動資金(District Designated Fund, DDF), 40パーセントが国際財団活動資金(World Fund, WF)として使われます。 これによって、地区が選択できる奨学金の種類や、プログラムが増えました。 財団のことが分かり難いと云うのは、財団の仕組みが分かり難いことよりも、財団の奉仕プログラムが多くなったことに原因があるのではないでしょうか。

財団奨学生のジャパン・プログラムもその1つです。 1994年のR財団管理委員会は、『国際親善奨学金ジャパン・プログラム』を、3年間の試験的プログラムとして採用、その後延長されて現在に至っています。 第2700地区では、これまで、1998年に福岡南RCがスポンサー・C.となって、ブラジルから1名、2001年に戸畑東RCがスポンサー・C.となってラトビア共和国から1名、奨学生を迎えています。 ブラジルには、このジャパン・プログラムの学生を介して、福岡西RCによる同額補助を使ってのWCSが行われました。

この頃、地区の寄付目標額は、大体25万米ドル前後でした。1996―'97年度の目標額は30万米ドル、翌'97-'98年度年の目標額も30万米ドルでしたが、途中景気の悪化で予定額の下方修正せざるを得ない状態でした。 この年度から、R財団に対する30万円以上の一時払い寄付についての免税措置が執られるようになりました。

R財団では、据え置きクレジット(Deferred Credit) の制度があります。 その当時、1994―'95年度以前のクレジットは1997年6月末日にすべて失効しますので、松田尊文PGのアドバイスで、多くの会員がポール・ハリス・フェローの手続をとりました。そのため、この年度には、345名と云う過去最大のP.H.F.が誕生しました。

ここに挙げた図は、1982年以降のR財団一般寄付額累積を示したものです。 会員の皆さんのご協力によって、立派な業績をあげることが出来たのです。

図 地区R財団一般寄付金の累積表
地区R財団一般寄付金の累積表

多くの会員は、「R財団は、分かり難い」「ロータリーは奉仕団体ではないのに、なぜ寄付集めに奔走するのか」などと云います。しかしながら考えてみますと、国際的な奉仕活動を続けるには、例えばポリオ・プラスを見てもお分かりのように、随分お金のかかるものです。 財団が会員に向かって「どうか、寄付して下さい」とお願いするのは当然のことで、それを受けて会員は自分で出来る範囲のポケット・マネーを出せばよいだけのことです。 財団に集まったお金は、『寄付』と云うことにはなっていますが、やがてはDDFとWFと云う形で地区に還って来て、私たちの計画した国際的な奉仕活動や、地域社会のプロジエクトに使うことが出来るのです。 言うなれば、将来の奉仕プロジエクトのための、利子の付かない貯金をしているようなものです。利子は、奉仕をすることによって得られた、何者にも変え難い心の満足感です。 地区では毎年11月に、R財団セミナーが開かれていますが、このことをもっと強く、分かりやすく訴えなければならないでしょう。

まえにもちょっと触れたことですが、他地区のことは別として、この地区では、R財団委員会とWCS委員会との連絡は全くと云ってよいほどありません。 WCSと財団の同額補助とは、この10年間の財団の歩みを見ましても、大変密接な関係にあります。 WCSが益々発展するためにも、将来2つの地区委員会の連携が必要ですし、WCS委員会を地区R財団委員会のなかに包含することが必要かも知れません。

現在の第2700地区が分離独立して以来、これまで20年間の主な出来事を5つ挙げて見ますと、
 ① 固定ガバナー事務所の設立
 ② 新ロータリー・クラブの創立
 ③ 女性会員の誕生
 ④ 分区再編成
 ⑤ 地区リーダーシップ・プランの採用
と云うことになりましょうか。

固定ガバナー事務所設立の経緯については、既に書きましたので、

ここでは触れません。 ガバナー事務所のことを書くとなると、どうしても云っておかなければならないのは、梶原景親会員(福岡西RC)のことです。梶原さんは、1987年(昭和62年)7月から2002年(平成14年)5月に退任するまでの15年間、ガバナー事務所の事務局長を勤めました。 福岡西RCの会員で、ロータリーについては一家の言を持っておられたし、著書も何冊かありました。 地区の運営につても、大へん厳しい考えを持った人でしたが、事務局長としての役割については、実に厳しい方で、地区運営についてどうしたらいいかと云うような問題に関しても、こちらから尋ねない限り、自分からは決して口出しはしませんでした。 その点は、事務局長としての自らの職責を、十分に心得ていた方でした。 退任の1年ほど前から、『ロータリー100年の歩み』というロータリー回顧録を執筆しました。梶原さんしかご存知ない第2700地区のエピソードなどを書いて貰いたかったのですが、梶原さんとしては、日本全体のロータリーの流れを書くことなしには、地区のことに触れることは出来なかったのでしょう。 続編を期待していたのですが、体調をくずされて入院、終にこの論文が絶筆となりました。 『ロータリー100年の歩み』は、高本精之年度の2002―’03年度ガバナー月信のNo.2に特集号として掲載してありますから、是非ともお読み下さい。 執筆の経緯につきましては、後書欄に書いておきました。

地区が分割されて2つに分かれますと、第270地区のクラブ数は少なくなるのは当然のことで、地区拡大カウンセラーの樋口謙太郎PGは、熱心に拡大に取り組みました。 1982―’83年度になって、クラブ拡大は福岡でと云う要望がつよかったのですが、福岡市内10クラブの会長・幹事会では拡大について左程熱心ではありませんでした。 しかしながら、是非福岡に新クラブの創設をとの、中牟田喜一郎ガバナーの強い要望を受けて、平野桂樹地区拡大委員長を特別代表とした『行動力のある、コストのかからないクラブを』と云う目標をたてました。 そこで生まれたのが福岡北RCです。 クラブの創立には、新家PGの熱心な協力もありました。 福岡北RCは、スポンサー福岡城西RC、特別代表平野桂樹(福岡城西RC)、創立総会1983年(昭和58年)6月3日、創立会員50名で発足しました。 例会の昼食代を1,000円にするなど、ロータリーに新風を巻き起こすと、地区内各クラブから大いに歓迎されました。

1982年10月18日、行橋RCは創立20周年(会長:櫟正直会員)を迎えました。 創立20周年記念事業の1つとして誕生したのが、行橋みやこRCです。行橋みやこRCは、1983年(昭和58年)4月3日、スポンサー行橋RC,特別代表松尾助太郎(行橋RC)、創立会員27名で発足しました。 行橋RCは、前年度末会員数57名でしたが、行橋みやこRC創立後は一時39名に減少しました。その後、同クラブの努力により50名台を維持しています。行橋RCは、1971年以後、クラブ単独で交換学生事業を継続しており、現在までに29名の留学生を受け入れるなど、創立以来アイデアに富んだ奉仕活動を続けているクラブです。

地区内のクラブ拡大計画については、1984年以後、大牟田、折尾、宗像及び福岡の各地域別に推進することになり、1985年9月に開かれた地区拡大セミナーでは、3クラブの創設を当座の目標としました。 かくして1986年(昭和61年)は新年早々から新クラブ誕生のニュースで賑わいました。 福岡城東RCは、1986年2月1日創立、スポンサー福岡中央RC,特別代表小川治夫(福岡中央RC)、創立会員36名で発足しました。 地区内では、初めての土曜日が例会日のクラブです。スポンサー・クラブから7名が移籍、地区内では54番目のクラブとなりました。

宗像地区にロータリー・クラブをと云う声が起こって1年半になります。 そこで生まれたのが宗像RCです。宗像RCは、1986年(昭和61年)5月7日創立、スポンサー福岡東RC、特別代表葦津嘉之(福岡東RC)、創立会員25名で発足しました。宗像地区は、距離的にはむしろ北九州圏に近いのですが、創立以来20年近く経った現在では、福岡市の通勤圏内と云ってもよいでしょう。 福岡東RCがスポンサーとなって創立したことにも、意味があったと思います。

宗像地区にロータリー・クラブをと云う声が起こって1年半になります。 そこで生まれたのが宗像RCです。宗像RCは、1986年(昭和61年)5月7日創立、スポンサー福岡東RC、特別代表葦津嘉之(福岡東RC)、創立会員25名で発足しました。宗像地区は、距離的にはむしろ北九州圏に近いのですが、創立以来20年近く経った現在では、福岡市の通勤圏内と云ってもよいでしょう。 福岡東RCがスポンサーとなって創立したことにも、意味があったと思います。

歴代ガバナーの宿題の1つは、大牟田地域にロータリー・クラブを創ることでした。 この地域の人口は、当時16万人だったのですから、もう1つクラブをと云うのも当然の要望だったでしょう。然しながら折からのエネルギー革命で、大牟田は不況のどん底で喘いでいました。 なんとか自分の年度中に、新クラブを作りたいと云う 横倉ガバナーの熱意に応えて誕生したのが、大牟田北RCです。

大牟田北RCは、198年(昭和63年)12月29日創立、スポンサー大牟田RC,特別代表江口建策(大牟田RC)、創立会員29名で発足しました。明けて翌昭和64年1月、昭和天皇が崩御され、元号が平成と替りました。 大牟田北RCは、昭和年代最後に生まれたクラブです。

1985年ころから、久留米と大川との間に新クラブをと云う話がありました。 久留米とテリトリーが同じ地域に、二階建クラブとして生まれたのが、久留米中央RCです。 1990年(平成2年)2月20日創立、スポンサー久留米RC、特別代表川村謙二、創立会員40名、地区第57番目のクラブとして発足しました。

1991年は、湾岸戦争、天安門事件、ソ聯の崩壊と国外では多事な年でした。翌1992年、第2700地区に2つのクラブが誕生しました。小倉中央RCと福岡平成RCです。 何れも、創立会員のなかに女性会員が含まれていると云う、地区にとっては画期的とも云うべきクラブが誕生しました。

小倉中央RCは、1992年(平成4年)3月14日創立、スポンサー小倉RC,特別代表上野正康(小倉RC)、創立会員42名(内女性会員9名)で発足しました。 地区第58番目のクラブです。

福岡平成RCの創立は1992年(平成4年)9月11日、スポンサー福岡RC、特別代表上田宗八郎(福岡RC)、創立会員53名(内女性会員3名)で発足、福岡市内第11番目、地区第59番目のクラブです。

細胞には細胞分裂と云うのがあって、自分の生命を新たにします。クラブもある程度の時間が経つと、若返りのために、分裂が必要ではないでしょうか。 且つてRIは、創立後かなりの年数が経ったクラブに対して、拡大計画があるかどうかについての調査を行ったことがあります。クラブがいつまでの若々しく活動的であるためには、拡大が必要だとの考えに依るものでしょう。 事実クラブが古くなりますと、それなりのマイナス面が出て来ますからね。

クラブは、会員の数が多くなるほど、財政的には運営し易くなります。 財政面からも、増強はクラブの全会員で努力しなければなりませんが、一方では、クラブの財政基盤を安定させるための増強と云うのも問題があると云う会員もあります。然しながら、イイクラブが出来て、いい会員が増えることは、私ども全会員の願いですから、新しいクラブの誕生を心から期待したいと思います。

会員数が100名を超えるようなクラブでは、会場の確保も容易ではありませんし、会員相互の交流なども思うに任せません。 時には、会員が入会してから退会するまで、話したこともなければ、顔を合わせたこともないと云うような、これでは、一体クラブとは何か、と疑問さえ湧いてくるようなこともあります。世界中のロータリー・クラブでは、200―300人はおろか、数百人のクラブもあるのですから、なんとも申しませんが、とにかく何年間も会員数が100人を超えるクラブでは、クラブも地区でも、細胞が分裂を繰り返して生命を維持するように、拡大を視野に入れて検討すべきだと思います。

女性会員の問題を取り上げるためには、どうしてもロータリーの人種差別撤廃について触れておかなければなりません。今から考えると、ロータリーに人種差別があったなどと到底思われませんが、書いておきます。 第270地区が分割される前の年度(スタンレー・E・マキャフリRI会長年度)、1982年6月9日、ダラスで開催された世界大会で、RI理事会提出の『いかなるロータリー・クラブも、人種、肌の色、信条あるいは国籍をもとに会員を制限することを禁止する』と云う立法案を、満場一致で議決しました。 この改正は、その年の7月1日から発効しました。わが第2700地区はまさに、ロータリーの人種差別撤廃の年にスタートしたと云うことです。

米国アラバマ州バーミングハムRCは、1913年に創立した伝統あるクラブですが、既に定款のなかに『会員は白人に限る』と云う項目があり、1982年にその定款を変更する必要はないと、改めてクラブで決議したのです。 これに関して、5月31日付のニューヨーク・タイムスに、ロータリーは人種差別をしているとの記事が掲載されました。RI理事会は、即刻理事会を開催、上記の国際大会での決議となったのです。 この決議は、即日『Rotary Rejects All-White Rule(ロータリーは、白人会員だけに限るという規則を否決)』と云うAP電で報道されました。 RIでは、1922年以降『人種に関する制限はない』との標準RC定款を採用していましたが、それ以前に創立したクラブでは、クラブ定款のなかに、差別条項を否決しないまま残しているところがあり、バーミングハムRCのように、それを再承認したクラブもあったと云う訳です。いまのRIではとても考えられないようなことですが、ロータリーの歴史を辿って見ますと、いいろんなことがあるものです。

女性会員のロータリー・クラブ入会拒否について、米国デユアーテRCがカリフォルニア州控訴院に控訴して、それが違法だとの判決が出たのは、1986年3月17日です。 これより先、カリフルニア州デユアーテRCは、女性を入会させたため、RIから除名処分を受け、この処分を不服として、カリフルニア州第一審裁判所に提訴したのです。 これに対して同裁判所は、RIを支持する判決を下しましたので、デユアーテRCはこれを不服として、同州控訴院に上告しました。 この上告審の判決が、3月17日に出された、女性入会拒否の違法判決です。 RI理事会は、早速州最高裁に控訴院判決の破棄を求める再審請求をしましたが、最高裁はこれを却下、1987年5月4日、米国連邦高等裁判所も女性の入会拒否は違法であるとの判決を支持し、デユアーテRCのRI復帰を命ずる判決を下しました。この結果、RIはRI定款第4条4節によって米連邦最高裁の命令に従うことになり、1989年シンガポールで開かれた規定審議会において、そのことが認められました。 以上が、ロータリーにおける女性会員問題の経過です。

その後第2700地区では、1992年になって初めて、創立会員のなかに女性を含むクラブが誕生したと云う訳です。 それでも中々女性会員を受け入れるクラブは少なく、「私の目の黒いうちは、女性会員は絶対に受け入れません」と云う会長さんがいたりしました。 ごく最近になってからも、『女性会員をどう思うか』と云うようなアンケートに接したことがありますが、もう既にそのような時代ではなく、性別には関係なく、『よい会員を』と云うのが、ロータリーの考えです。

新しく発足した第270地区は、第1分区:京築・門司・小倉・田川の11クラブ、第2分区:門司・小倉を除く北九州市・遠賀・筑豊の12クラブ、第3分区:福岡市とその周辺・鳥栖・壱岐・対馬の14クラブ、第4分区:鳥栖・久留米・筑後地区の8クラブ、第5分区:筑後・大川・大牟田・柳川の6クラブ、の5地区で運営されていました。 この状態がずっと続いたのですが、分区間にクラブ数の違いがありますので、分区の規模を出来るだけ均等にしたほうがよいのではないかとの意見が出て、1995年から分区の編成替えを検討することになりました。 その後、地区内各クラブの一般的な空気として、第1,2,4,5の各分区では、現在のままにしておきたいとの意向が強いので、組み換えは第3分区のみについて行うことになり、実行案が検討されました。

その後、RIの意向として、1分区当り3―7クラブが適当だと云う数字が、手続要覧にも謳われていることから、1つの分区の規模を5―8クラブとした分割案が作られ、種々検討の結果、1998―'99年度より、第1分区:豊前・豊前西・苅田・門司・門司西・田川・行橋・行橋みやこの8クラブ、第2分区:小倉・小倉中央・小倉東・小倉南・小倉西・戸畑・戸畑東・若松・若松中央の9クラブ、第3分区:飯塚・直方・直方中央・遠賀・八幡・八幡中央・八幡南・八幡西の8クラブ、第4分区:大宰府・福岡・福岡平成・福岡東・福岡城南・福岡南・福岡東南・宗像・対馬の9クラブ、第5分区:福岡中央・福岡城西・福岡城東・福岡北・福岡西・博多・壱岐・壱岐中央・前原の9クラブ、第6分区:甘木・久留米・久留米中央・久留米東・久留米北・小郡・鳥栖・浮羽・八女の9クラブ、第7分区:筑後・大川・大川東・大牟田・大牟田北・大牟田南・柳川の7クラブ、の7分区制が発足しました。 その後、第1分区の門司・門司西の両クラブから、第2分区に分区替えして欲しいとの要望書が提出され、同時に小倉区内の全クラブからも、同じ意向の要望書も提出されました。 第1分区でも、この要望ついて、やむをえないだろうとの意向でしたので、門司・門司西の両クラブは第2分区に編入されることになりました。 その結果、第1分区は6クラブ、第2分区は11クラブとなりました。この他にも、2、3新編成についての異議が寄せられましたが、第1、2分区以外には、変更がないまま現在に至っています。

分区再編成の目安として、1分区の規模を5―8クラブとして、再編案がつくられました。 この5―8クラブと云うのは、地区リーダーシップ・プランのなかで『ガバナー補佐1名につき4から8クラブを担当することが推奨される』と謳われていることに拠ります。

地区リーダーシップ・プラン(DLP)は、第2700地区では1997―'98年度(大屋ガバナー)に採用されました。 RIがこの制度を正式に採用するまでの経緯については、煩雑になりますので、ここでは省略します。 採用当時のDLPについての考へ方は、当時の諮問委員会での大屋(当時はG・ノミニー)の発言を読んで頂くとよく分かりますので、ここに引用しておきます。

『配布された資料によれば、ガバナーの業務を補佐する数人を任命して、世界の12地区で実施した。 その効果を検討したところ、大へん有効であったので、日本の地区においても実施しては如何かと云うことである。配布した資料を見て頂くとお分かりだと思うが、ガバナー補佐と云うのは、名称は違っても、当地区で実施している分区代理システムと同じ効果を狙った制度である。日本国内にも、分区代理を設けていない地区が2地区あるようだが、世界中には、分区代理のない地区が沢山ある。 ガバナー・ノミニーの意見としては、日本国内の各地区のように分区代理制度のあるところで、分区代理をガバナー補佐と云う名称に変更しても、あまり意味のないことではないかと云うことであった。 また、ガバナー補佐を設けなくても、RIがどうこうととい云うこともないとのことであった。第2700地区の場合は、分区代理の業務を強化すると云うようなことで、如何かと思っている。 資料を十分に検討して、いずれ機会をみてご意見をお聞きしたい。』

DLPには、分区代理の業務を強化する役割があり、分区を活用して地区の運営を円滑にすると云う意味からは、有効な方法であるが、一方で、各クラブに対するRIの管理強化に繋がるもので、このシステムが将来、ロータリーの望ましい運営と発展に役立つかどうか、慎重に検討すべきである、と云う意見もかなり強硬でした。

地区では先に書きましたように、1997―'98年度にDLPを採用しましたが、第2700地区は、地区のテリトリーの範囲が狭く、クラブ数も適当で、現行の分区体制で何らの問題点もない、DLPを実施すると、ガバナーや分区代理に対する負担が増大する、などの理由で、その翌年度(菅年度)は、DLPを実施しませんでした。 その後、2000―'01年度になって、ガバナー補佐の名称を使用しない地区に対しては補助金を増額しないとの、RIからの通達があり、急遽分区代理をガバナー補佐と呼びかえることになりました。 因みに、『地区リーダーシップ・プラン』は、『1998年版・手続要覧』に初めて掲載され、『2001年版・手続要覧』では数箇所改定が行われて、『全世界で採択』となりました。 その詳しい内容については、別の機会に触れることにします。

(菅 正 明) 

2002年(平成14年)9月から21回に渉って、第2700地区の歩みについて書いた。1981年(昭和56年)6月、第270地区では国際ロータリー創立75年を記念して、『RI創立75年記念誌』が刊行された。その翌年の1982-'83年度、第270地区は、福岡県と佐賀・長崎両県の一部がRI第270地区、佐賀・長崎両県の大部分がRI第274地区の2地区に分離した。このノートはすでに述べたように、第270地区が分離独立した1982年7月から2000年6月までの18年間の資料を纏めたものである。

何年か前、当時まだお元気で、ガバナー事務所の事務局長を務めていた福岡西ロータリー・クラブ所属の梶原景親さんと、第2700地区が分離独立してから以後の、地区の歴史を書いて残しておこうじゃありませんかと云う話をしたことがある。これを書くには、当の梶原さんほど適任者はいない。私は梶原さんに「梶原さんほど適任者はいないのだから、貴方が書いてください。枚数は100枚でも200枚でも、制限なしでいいですよ」と云った。それから半年ほどして、梶原さんから「とても100枚やそこらじゃあ書けませんばい」と云って、原稿を頂いた。2002-'2003年度ガバナー月信の特集『ロータリー100年の歩み』は、それを活字にしたものである。その後、これからいよいよ第2700地区の歴史に入ると云うときに、梶原さんは病に倒れ、事務局長も辞任されて、やがて不帰の人となった。梶原さんは、第2700地区のことを書くにしても、それに先立って、どうしてもロータリー100年の歩みについて触れないではおれなかったに違いない。梶原さんには、そう云った律儀さがあった。梶原さんの後を受け継いで、第2700地区の資料を纏めたのが、このノートである。いずれ地区の歴史でも纏めようかと云うことになったときに、役に立つのではないかと思って集めた資料を、戸畑東RCのホーム・ページに掲載し始めたのが2002年9月であった。それから2年経った訳で、今回はそれ以後の、これまでのノートでは取り上げていなかった2000年(平成12年)から2003年(平成15年)までの、地区の歩みを纏めておく。

懸念されたコンピューター・トラブルは、なにも起こることなく、無事に2000年を迎えた。それから4年経って、いまキー・ボードを叩きながら、この文章を作っている訳だが、この間にロータリーで何が目立って変わったかと云うと、ロータリー情報のIT化と、日本国内では、戦後生まれの所謂団塊の世代が、クラブのリーダーシップを取るようになったことであろう。この間柳川で開かれたPETSでのグループ別会長エレクトの懇談会で、私より二回りくらい若い年代の会長エレクトが、近頃の若い者はエチケットを知らないなどとと云う話をしていた。その発言を聞きながら、私は自分も年を取ったものだなとの思いを深くした。ロータリーも、大きく変わる時代に来ているようだ。どう変わって行くのか、それが楽しみでもある。

2000-'01年度の大島英二地区ガバナーは、国際協議会に出席する途中、フランク D. デブリン2000-'01年度RI会長エレクトの部屋を訪問して、そこに備えてあるIT機器に驚いた。デブリンは、大島G.エレクトの前でインターネットのキーを押して、「いま、ここからボタン1つ押せば、世界中のロータリー・クラブと情報交換ができます」と云った。大島G.エレクトは、ロータリーのIT化がこれからの課題だと云う思いを一番の土産にして、国際協議会から帰った。

ロータリーでのIT導入は、1996年1月に国際ロータリーRIウエブサイトを開設したことに始まる。RIでは、その後2000年1月理事会で情報提供のRI化を決定、5月にRIの年間経費節減を目的ととして、ウエブ・コムニテイー制度を承認した。それを受けて、2000-'01年度に入って、デブリンRI会長のIT化推進となった訳である。その後2001年には、規定審議会においてIT関連の立法案が採択され、2003年にはRI理事会で、ロータリー・ウエブが出版物と同様の存在であることが確認された。この間に、ロータリー・サイバー・クラブが試験的に作られたが、私はこれに言及するつもりはない。

わが国では1998年、ロータリーでのインターネットの利用と普及を目的とした全国ロータリアン・インターネット協議会( JRIC )が発足し、2年後の2000年2月、第2680地区の田中毅パスト・ガバナーの熱心な働きにより、ロータリー日本ウエブ(RJB)が設立された。2003年(平成15年)4月現在、国内34地区のうち殆どの地区にホーム・ページが開設され、全国2,323クラブのうち、ホーム・ページを持っているのは679クラブである。第2700地区では、2004年3月現在までに、59クラブ中電子メールを開設しているのは55クラブ、ホーム・ページ開設は15クラブである。大島年度に続く、2001-'2年度妹尾隆一郎地区ガバナーは、ロータリーIT化の流れを受けて、地区IT委員会を発足させ、今年で3年目を迎えている。

何年かまえまでは、国際協議会の冒頭に発表される次年度RI会長テーマは、一々ファクシミリで各地区やクラブ宛に送信しなければならなかった。ロータリーのIT機器の導入によって、いまでは即刻インターネットで全世界のクラブに送信されるようになった。ロータリーに関するニュースは、何時でもキャッチ出来る。本当に便利になった。然しながら、ITは情報伝達のための手段に過ぎない。重要なのは、メデイアではなくて情報である。如何なる情報(ここではロータリー情報と云ってもよいだろう)を、正確に速く伝えるかである。誤った情報を伝えることは勿論あるべきではないし、不要な情報の伝達も避けなければならない。地区のIT委員会も、IT機器の普及と云う委員会の第1段階の役割は終わったのだから、この辺りで『R情報委員会』にでもメタモルフォーゼするとよいかもしれない。正しいR情報を如何に早く、如何に理解し易く、如何に会員がなじみ易く伝えるか、この3つがこれからあのIT委員会に課せられた役割である。因みに、今全国のクラブで開設されているウエブサイトは、全くと云ってよいほど機能していない。このことについては、何れ機会があったら触れたいと思っている。

2001年(平成13年)は、2月、ハワイ沖で、宇和島水産高校実習船えひめ丸と米国原子力潜水艦との衝突事故、6月、池田市の小学校殺人事件と、暗い悲しい事件が続き、9月11日、米中枢部の同時多発テロと云う世界中を震駭させるような大事件が勃発した。国際ロータリーでは、リチャード・キングRI会長が直ちにウエブ・サイトを通して深い哀悼の意を表し、災害の緊急援助について、世界に呼びかけ、直ちにロータリー義捐活動が開始された。第2700地区からは、総額3,242,689円の義捐金が寄せられ、WCSエリア・コーデイネイターを通して、アメリカ大使館に贈られた。

妹尾隆一郎地区ガバナーの2001-'02年度は、米中枢同時多発テロからアフガニスタン侵攻、イラク空爆、そしてイラク戦争に至る不安定な世界のなかで、国内では初めて狂牛病が発見され、牛肉偽装事件が発覚した。妹尾地区G.は、リチャードD.キングRI会長のテーマ『人類が私たちの仕事』を受けて、『反芻しよう ロータリー綱領を』と、ロータリーの職業奉仕を強く訴えた。

妹尾年度、地区大会のホストを務めた福岡RCより、地区大会の余剰金1,000万円が、青少年育成のための基金として地区に寄贈された。第2700地区は、全国でもインターアクト活動の最も盛んな地区の1つである。妹尾年度、筑豊高校インターアクト・クラブが直方中央RCをスポンサーとして誕生、地区内インターアクト・クラブは32クラブとなった。これは恐らく全地区内最高のクラブ数ではないかと思う。地区内のインターアクト・クラブ数は、北高南低の傾向があるが、県南地区における今後のIACの創設に大いに期待したい。

ローターアクト・クラブの活動は、全国的に低調と云わざるを得ない。地区でも、地区委員、ローターアクターがあれだけ熱心に活動しているにも拘らず、伸び悩んでいるのは、ローターアクト・クラブが日本の社会に適応し難い何かがあるのではないだろうか。RACそのものの構造に問題があるのか、アクターの意識と行動に問題があるのか、検討すべき時期に来ている。まえにも触れたが、大島年度に戸畑RACが解散した。昭和44年10月創立の、地区内最初のRACであった。私には、アクターのスポンサー・クラブに対する依存的体質が最も大きな原因であったように思われる。ローターアクト・クラブにせよインターアクト・クラブにせよ、クラブが発足したからには、それ以後はクラブの独立した運営を考えるべきである。戸畑RACの場合も、創立30年にして依然とスポンサー・クラブに依存していた体質に解散の最大の原因がある。若者のクラブが、スポンサー・クラブとどのような関係を維持していくか、両者にとって今後のもっとも重要な課題である。

妹尾年度のRYLAは、開催場所をそれまでの『北九州玄海青年の家』から『国立夜須高原少年自然の家』に移し、地区委員の新しい構想のもとに、インターアクターやローターアクター、米山奨学生の参加を得て、1泊2日で開催された。ロータリー創立75周年記念事業の1つとして始められたRYLAは、2004年佃年度に開設25周年を迎える。RYLA委員会は、RYLA運営について、毎年いろんな構想を動いているようであるが、将来は例えばローターアクト・クラブとの共催なども視野に入れると良い。

新世代奉仕部門は、その規模から云っても、地区最大の奉仕活動を行っている。2002-'03年高本精之年度の発足後間もない時期、高本地区ガバナーは、大屋地区新世代奉仕委員会カウンセラー等と、麻生渡福岡県知事を訪問した。麻生知事、藤田茂令県議会議長等と、県が推進している青少年アンビシアス運動とロータリーの新世代奉仕の相互協力などについて話合った。

高本年度の地区大会は、北九州市厚生年金会館で開催されたが、感銘深いものであった。折から、RI第4ゾーン訪問の途中来日していた、ビチャイ・ラクタルRI会長の大会出席を得たことは、大会に大きな花を添えることになった。更に、リンA.ハモンドRI会長代理の大会での講演は、参加したロータリアンの心に深い感銘を与えた。A.ハモンドRI会長代理は、米国コロラド州ラブランドRCの会員である。ラブランドは、米国内でももっとも住みよい都市の1つに数えられている。彼の講演は、それ程雄弁ではなかったけれども、成る程こんな会員がいるから、こんなクラブがあるから、アメリカがあるんだと思えるような、心温まるものであった(A.ハモンドRI会長代理の講演は、福岡平成RC大楠正子会員の名訳が、D2700のホーム・ページに掲載されている)。

RIの強い要請があって、大島年度(2000年、平成12年8月)から、それまで使われていた分区代理の名称を、『ガバナー補佐』に変更することになった。もともと地区リーダシップ・プラン(DLP)と云うのは、国際ロータリーの管理強化とR財団活動の徹底とを目的として計画されたものである。第2700地区では、それまでも地区活動はRIの方針に則って十分に行われているとの認識があり、ガバナー業務の煩雑化と地区経費の負担増を必要とするDLPの導入は必要ないとの考えから、その意図は尊重するものの、DLPそのものの実施には踏み切らなかった。

RIがDLP導入に踏み切った理由は、分からないでもない。例を引く。第2700地区は、地区の最長距離(県南の大牟田から県北の門司まで)はせいぜい100kmである。高本年度のA.ハモンドRI会長代理のラブランドRCは、RI第5440地区に所属しているが、この地区は米国のワイオミング、ネブラスカ及びコロラドの3州にまたがっており、南北約1040km。これは直線距離で計ると、日本では福岡から静岡までくらいの距離になる。其のなかに、48のクラブと3300人の会員がいると云うのだから、クラブ数と会員数だけなら、丁度第2700地区と同じくらいの規模である。云い方を変えるなら、西日本地が1つの地区で、そのなかに50クラブあることになる。西日本全体を半年の間に廻らなければならないとなると、なるほど,DLPも必要になってくる。第5440地区は、ロータリー発祥の国である米国の1地区だからまだしもであるが、これが途上国のある1地区であったらどうであろう。熱帯地方の砂漠のなかに広がる街のロータリー・クラブを、半年間に50クラブ公式訪問するとなると、DLPのような組織を作って、それを利用しなければ、とてもじゃないが、地区ガバナーの仕事などやれるものではない。ロータリーについての理解を深めるためにDLPを採用するのは、クラブの存在する地域によっては、必要なことである。DLPが導入されようとした当初、RIの管理強化に対する批判が多かったけれども、ロータリーが世界的組織になり、しかも冷戦終結、ソ連崩壊後、途上国にロータリー・クラブが次々に創立するようになると、DLPのようなシステムが必要になるのは、当然のことである。

地区にDLPを導入する際には、以上述べたDLP誕生の経緯を十分に顧慮しておかなければならない。DLPについての最も新しい記述は、手続要覧の2001年版をご覧頂くとお分かりと思うが、ガバナー補佐の責務が明示されている以外は、地区ガバナーの任務内容については、殆ど変わっていない。

第2700地区における、1999-'2000年度以降の会員数の推移を図示する。これは、地区全体の集計であるが、会員数の増減は、クラブによって可なりな差異が見られる。以前にも書いたが、社会的・経済的観点から、大都市部、都市周辺、郡部と分けてみると、其の間にも夫々の特徴がある。会員減少は、決して増強努力の不足によるものではないことを、強調したい。このような困難な時期に、地区の増強委員に指名されたことは、本当にご苦労なことである。

地区会員数の推移

この図をみても明らかなように、この4年間に会員数は10パーセント近く減少している。地区会員数は過去最大4,000人であったから、それからすると15パーセント減である。会員の減少で一番ダメージを受けるのはクラブである。地区には地区会員増強委員会と云うのがあるけれども、時々地区に増強委員会が必要なのかなと思うことがある。『クラブは増強、地区は拡大』に徹したら、もっと効果的ではないかと云う気もする。

地区ガバナー事務所の梶原景親事務局長は、1987年(昭和62)7

月以来事務局長として親しまれていたが、2002年(平成14)年5月、高齢に加え体調を崩したことを理由に退任を申し出たので、福岡東南RCの谷喜久男会員がその後を引き継いだ。梶原元事務局長は、福岡西RCの会員でロータリーについての著書もあり、ロータリーについて1つの見識をもっていた。事務局長としての梶原さんは、自分からは決して意見を述べることなく、なにか尋ねると、それに就いては適切なアドバイスをするが、こちらから聞かない限り、自分からは決して口出ししないと云うように、事務局長の役割に徹した人であった。

2001年の規定審議会には、地区から国府敏男PGが出席した。この年の審議会では、会員身分を正会員と名誉会員の2種類にすること、これまでの定款細則に拘らない試験的クラブを作ることなどが採択された。試験クラブは、日本国内からは3クラブが名乗りを上げたが、第2700地区からの応募は無かった。この年9月1日から、国際ロータリー日本サービス・センター( Rotary International  Japan Service Center )は国際ロータリー日本事務局( Rotary International Japan Office )となった。

RIからは、会員増強のための方策として、30~35歳会員の会費を免除したらどうかなどの提案があったが、地区では取り上げられなかった。R財団の財源確保のための分担金の増額、ポリオ・プラスへの寄付などについての地区ガバナーや地区R財団委員会からの強力な働きかけがあり、R財団の財源確保を目的としたロータリーVISAカードの利用の推奨された。また、R財団では、2002年から世界平和奨学金が開始され、日本では国際基督教大学がその研修大学に指定されたが、第2700地区からの応募はなかった。

地区のR財団活動では、DDFの殆ど全額が国際親善奨学生の派遣に当てられている。派遣学生のうち多くの学生は、出身地が福岡県であるなど、第2700地区と何らかの関係は持っているものの、便宜的に第2700地区に応募する事例や、留学終了後、送り出しクラブに何の連絡もなかったり、地区のオリエンテーションに出席しないなど、財団留学生本来の目的を理解していなないと思われる学生が見受けられる。DDFの使途も多様化してきたのだから、これを教育的プログラムだけに充当することはどうであるか、今後の問題である。今後DDFの地区交付金は60パーセントから50パーセントに減額される。また、今後世界的に人道的プログラムは益々そのウエイトを増すであろう。地区の財団活動も見直しの時期に来ている。

2004年の国際大会は、『2004年RI国際大会 ( 関西 )』として2004年(平成16)5月20日から27日まで8日間、大阪で開催される。世界大会の成功に向けて、『On To Osaka 委員会』が設けられ、地区では2002-'03年度第3グループの原田準一ガバナー補佐が就任した。

大島年度の2001年(平成13年)5月25-26日、第8回国際青少年交換福岡会議が福岡市・キャナルシテイ・グランド・ハイアット福岡で開催された。青少年交換活動は、年間、全国でインバウンド、アウトバウンド夫々300名、合計600名の高校生の留学世話を行っている。交換学生の選考、ホスト・ファミリーの依頼、資金の調達、学生のトラブル処理など、地区委員は、年間を通じて休む暇も無いような厳しい活動を強いられている。毎年1回全国各地回り持ちで開かれているが、本年度の福岡大会では、地区内各クラブの国際奉仕委員長も出席して、成功裏に会議を終えることが出来た。

大島年度の2001年(平成13年)5月25-26日、第8回国際青少年交換福岡会議が福岡市・キャナルシテイ・グランド・ハイアット福岡で開催された。青少年交換活動は、年間、全国でインバウンド、アウトバウンド夫々300名、合計600名の高校生の留学世話を行っている。交換学生の選考、ホスト・ファミリーの依頼、資金の調達、学生のトラブル処理など、地区委員は、年間を通じて休む暇も無いような厳しい活動を強いられている。毎年1回全国各地回り持ちで開かれているが、本年度の福岡大会では、地区内各クラブの国際奉仕委員長も出席して、成功裏に会議を終えることが出来た。

高本年度の2002年(平成14年)10月12日、九州地区インターアクト合同委員会が福岡市で開催され、インターアクトの九州各地区の状況、年次大会や指導者講習会の在り方、インターアクターと国際交流などに就いて話し合われた。地区世界社会奉仕委員会では、2001-'02年度に計画した『小規模水力発電所建設プロジエクト』が、この年度に終了した。

ロータリーと直接関係はないけれども、2000年(平成12年)11月8日、モーリス・グルドー-モンターニュ駐日フランス大使の出席を得て、元RI理事末永直行PGにフランス国家功労章コマンドール章が授与された。当日は、モウリス・グルドー・モンターニュ駐日フランス大使の出席を得て、盛大な祝賀会が開催された。末永PGは、在福岡フランス名誉領事を永い間お務めになり、また、皆さんご存知の日仏交歓の夕を毎年開催するなど、両国の親善に長年切る尾された業績が、高く評価されての受章である。

地区の輝かしい活動とともに、この3年間各クラブでは多くの会員が逝去された。一々お名前は挙げないけれども、ロータリーアンとして逝去された方々の面影と業績は、何時までも私たちの心に残るであろう。ここには、地区関係の物故会員のお名前を挙げて、併せて心よりご冥福をお祈りする。

 新家 忠男 平成10年 2月18日逝去 87才 福岡北RC
 本間 四郎 平成12年12月 8日逝去 70才 久留米東RC
 今村 一郎 平成13年 1月13日逝去 83才 若松RC
 片岸 修二 平成13年12月 8日逝去 65才 八幡南RC
 岡野 正実 平成14年10月26日逝去 91才 門司西RC
 脇坂 順一 平成15年 3月 5日逝去  89才 久留米RC
 妹尾隆一郎 平成15年 8月 1日逝去 81才  福岡東南RC
 梶原 景親 平成14年 7月16日逝去  95才  福岡西RC 名誉会員

2002年9月から戸畑東RCのホーム・ページに連載した『第2700地区・地区史ノート』は、これで終了する。前にも書いたが、分離独立して以来の第2700地区史を書くことの出来る人は、亡くなった梶原さん以外にはない。そのことを、今改めて思いながら、この稿を終わる。 (了)

(菅 正 明) 

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