論語でロータリー

「論語」は孔子の言行録です。孔子自身はなにも書き残していないのですが、亡くなって50年くらいたって、弟子たちが先生の言ったことを思い出して編纂したのが「論語」です。記録によりますと、孔子はいまからおよそ2500年前に生まれて、74歳で生涯を終えました。インドのお釈迦様も、ギリシャのソクラテスも大体同じ時代に生きた人だと考えていいでしょう。このころの人はソクラテスも釈迦も、お喋りはしていますけれども、自分ではなにも書き残してはいません。釈迦などは、亡くなってから千年以上たってから、これがお釈迦様の教えだといってお経ができたくらいです。一体どうなっているのですかね。

地球の歴史を調べてみますと、いまの私たちと同じような人類が出来あがったのが250万年くらいまえだそうですから、それから230万年たって、人類はやっと理性とか生の悩みとか、人生の無常、社会の仕来り、政治などについて、体系的に考えるようになった訳です。長いような短いような二百万年ですね。

「論語」を読んでみますと、孔子という人は大へん現実主義で、考え方が自由で弾力的で、孔子の生きた時代から2500年たったいまでも、「論語」は、私たちが生きていくための生活の智恵として、とても役に立ちます。

孔子の時代、君子は六芸に通じていなければなりませんでした。君子は英語の翻訳書では、ゼントルマンです。ロータリー会員の皆さんだと理解して下さい。皆さんも六芸に通じていなければいけないわけです。六芸とは、礼・楽・射・御・書・数のことです。そんなことはとても自分には縁がないなどと考えずに、しばらく付き合って下さい。

礼とは、冠婚葬祭から人の付き合い、職業倫理、会社の就業規則、家庭生活、経済、政治など生きていくうえでのルール全般のことです。楽とは音楽、演歌でもジャズでもカラオケでも宜しい。なぜ音楽を大切にするかといいますと、音楽はハーモニー、調和がなければ成り立たないからです。ロータリーもそうです。皆さんもロータリーでは、会員として例会に出るだけではなく、クラブ全体の活動状況やクラブ行事への参加など、クラブの運営全般について、調和が取れてうまくいくように考えてください。射は弓術。いまならさしずめゴルフです。弓術は、的を当てて点数を稼ぐことよりも、マナーを大切にします。礼儀正しくルールを護り、試合が終わったら相手の技量をほめ、一献傾ける。私はゴルフのことは知りませんけれども、今のゴルフのルールとおなじではないですか。アマチュアもプロも、スポーツはこうありたいものです。亀田某のボクシングなどは、最低ですね。御は馬術のこと、今ならさしずめ自動車の運転です。書は字の通り、パソコンですね。数は計算、ただ経済に通じているだけではなく、電卓もうまく操作できなければなりません。これだけのことを身に付けていさえすれば、どんな就職試験にでも合格しますよね。

孔子は、「君子たるものはこれだけの教養と技術を身につけ、精神的バックグラウンドをもっていなければならない」というのです。そして、そのような人間になるためのノウハウを書いてあるのが、これからみなさんとご一緒に読んでいこうとする「論語」なのです。ですから「論語」は私たち社会人にとって、なかなか役に立つ本です。とにかく、現実主義で、実際家の孔子が喋ったものですから、空理空論に走ったところがありません。

但し、私ども人間には、どうしても理屈だけではわりきれない無意識の「こころ」があります。ときには、私どもの行いは意識している実際の「こころ」よりも、無意識の「こころ」により強く左右されることがあるものです。皆さんも、心の奥底であいつはいやなやつだと思い込んだら、理屈ではうまく付き合わなければと考えても、心底相手に心を開くことはありませんよね。孔子は「論語」のなかでは、無意識の部分については言及しないと、はっきりいっています。これは大へん大切なことで、彼は無意識の部分を大切にしながらも、「論語」のなかでは言及しないで、敢えて実生活の心得についてのみ説いたのです。

この連載の第一回目は、ちゃんと題を決めて書けばよかったのですが、「はじめに」としたものですから、内容は「論語」の最初の章句を中途半端にとりあげて、まとまりのないものになってしまいました。第二回目は「時に習う」という題です。「論語」は、「学びて時に之を習う」という言葉で始まります。最初から「学ぶ」という言葉が出てくるものですから、それだけで拒絶反応が起こりそうです。かくいう私も全くその通りで、私どもの時代は、中学に入りますと漢文というのが一週間に5時間くらいあって、先ずその授業が大嫌いになりました。しかしながら年取って漢文を読んでみますと、これがなかなか面白いものだということに気付きました。会員の方も、このシリーズに時にはお付き合いください。

孔子は書いたものをなにも残さなかった、とこのまえお話しましたが、お釈迦様も書いたものをひとつも残しませんでした。孔子も釈迦もどちらも書いたものはひとつも残さなかったのなら、論語や仏教の経典はでは一体何なのかと言うことになります。このシリーズで取り上げている「論語」は、孔子が亡くなって百年近くたってから、孔子のお弟子さんたちが、むかしの孔子が言ったことを思い出し、整理して書き留めたものです。仏教の経典にいたっては、釈迦が亡くなって何百年もたって、「これこそ釈尊の正しい教えだ」といってできあがたものも沢山ありますから、経典の解釈となりますと、これたまたなかなかの難問題です。ロータリーだって、まだやっと百年しかたっていないのに、創立当初のことは神話化されてほとんど分かりませんからね。

お釈迦様が書いたものを残さなかったのは、インドに文字がなかったからです。聞くところによりますと、もともとインド人は書いた証文など信用しなかったそうで、男と男の約束ほど確かなものはなかったそうです。わざわざ証文をつくって取引するなどというのは、最低のことだったのですね。ロータリアン同士の商売は、口約束だけ。それで取引がスムーズに運ぶ。こんな団体が、世界中で一つくらいあってもいいのではないでしょうか。

釈迦様のインドとは違って、中国は文字の国。なんでもかんでも文字にして、記録を残さなければ気がすまないところです。だから「論語」などという二千年以上昔に書いたものが、残っているのです。中国の甲骨文は、いまから四千年くらいまえの殷の時代のものが発見されていますけれども、中国は盛んに遺跡の発掘調査をやっていますから、まだまだ古いものが発見されるかもしれません。甲骨文字を見つけた話も面白いのですが、それは後のことにして、本題の「論語」に帰ります。

「論語」は「学而第一」で始まります。これを日本風に書きますと「第一章 学而」となります。「学而」とはいかにも難しそうですが、何のことはありません。この章が「学而(まなびて)」で始まっていますから、「学而」としているだけのことです。前回引用した「論語」の最初の言葉を、ロータリー風に書きます。「論語」に限らず古典として昔から伝えられている本は、現代人がどのようにでも読めます。どう読むかということも、古典を読む楽しさのひとつです。「論語」の開巻最初の文を、先ず原文はぬきにして、ロータリー風に読んでみましょう。

仕事が忙しかろうと暇だろうと、ロータリーの勉強をやめない。ただロータリーの知識を深めるだけでなく、ときには自分で行動する。それこそ人生の喜びではないか。遠くの会員がメーキャップに来て、知り合いの輪が広がる。こんな愉快のことはないではないか。しかしながら人生はさまざまだ。自分たちの奉仕活動が、世の中で認められないからといって、別に不満とも思わない。それこそ紳士というものだよ。

どうでしょうか。とても二千何百年まえの文章とは思えないでしょう。そこが「論語」のような古典の面白さです。「論語」は、その時代その時代の人が、時代に合った読み方をしてきたので、今も生き残っているのです。ロータリーだって同じです。原点にかえれなどといって、百年前に書かれたことを、百年まえの会員と同じように読んでいたのでは、時代の激流を越えて生きてはいけません。二十一世紀には二十一世紀のロータリーの読み方があるはずです。

新しい会員のなかには、ロータリー・クラブに入って、何でいまさら勉強かと思う方がいらっしゃるかもしれません。勉強という言葉が悪ければ、「ロータリーのことを、知ってください」といいなおしましょう。折角高い入会金と会費とを払ったのですから、ただ昼飯を食べに行くだけでなく、クラブを知って、クラブを楽しんでもらいたいからです。昔私は「ロータリーは、あなたのオアシスだ」というエッセーを書いたことがありますけれども、あなたのこころの持ちよう次第で、例会出席があなたのオアシスにもなり、苦痛にもなることがあるからです。あとでお話するつもりですが、「論語」のなかに「これを知るものは、これを好むもものには及ばない。これを好むものは、これを楽しむものには及ばない」という文章があります。新会員の皆さんは、まずロータリーを知っていただいて、やがてはロータリーを楽しんで頂きたいものです。そこできっと会費は何倍かになってあなた還ってくるでしょう。

「論語」の本文は漢字で書いてあります。先ず、その原文と日本流の読み方を紹介します。退屈でしょうが、しばらく付き合ってください。先ほど私がロータリー風に読んだ文章の原文は、次の通りです。

本文:「学而時習之 不亦説乎 有朋自遠方来 不亦楽乎 人不知 而不愠 不亦君子乎」

日本流に読むと:「学んで時にこれを習う。また説(よろこばし)からずや。
朋(とも)あり遠方より来る。また楽しからずや。人知らずして愠(いか)らず。また君子ならずや。」

教科書風の解釈:「(礼を)学んでは、時を決めて弟子たちが集まり、おさらい会をひらくのは、こんなうれしいことはない。友が遠方から訪ねてきてくれるのは、こんな楽しいことはない。自分の才能が皆から認められなくても、べつに気にかけない。これこそ紳士というべきだね。」

「礼」とは、礼儀作法ではなく、私たちが生きていくための社会規範全般と考えて下さい。「論語」にはいろんな読み方や解釈があるのですが、学校では大体ここで紹介した教科書風な解釈しか教えません。ですから「論語」は堅苦しくて面白くないということになります。この文章をご覧になると、どこかで聞いたような言葉がいくつかあるのにお気付きではないでしょうか。学校や学生寮の名前に「時習館」とか「学而寮」「時習寮」というのがよくありますが、みな「論語」からとった言葉です。「友あり遠方から来る」などは、日ごろよくいうではありませんか。私たちが日常よく使う言葉のなかには、「論語」に由来する言葉がとても沢山あります。「木鐸」「忠恕」「暴虎馮河」「戦々兢々」などすべて「論語」の中の言葉ですし、「女子と小人は養いがたし」「過ぎたるは及ばざるが如し」「和して同ぜず」「薄氷を踏むが如し」などもみな由来は「論語」です。

「論語」は、応神天皇の時代に百済の和邇によって、千字文とともにわが国に伝えられたといわれています。もっとも、応神天皇は実在性が認められている最も古い天皇で、朝鮮半島との関係も大へん深かったことはご承知の通りですが、紀元二百七十年から三百十年まで在位していて、即位したのが七十一歳だったそうですから、百十一歳まで生きていたことになります。また、この時代にはまだ千字文は編集されてはいなかったというのですから、この「論語」伝来説もいささかあやふやになってきます。それはともかく、この時代朝鮮半島からいろんなものが齎されたことは事実です。それ以来日本の儒学では、「論語」は四書五経の中でいちばん大切な経典として、伝えられ研究されてきました。

「論語」の主役である孔子は、紀元前五百五十一年中国の山東省に生まれました。いまから二千五百年ほどまえのことです。釈迦の誕生は、孔子より十年前の紀元前五百五十年といわれていますし、前四百六十三年の生まれだという説もあります。ソクラテスは、紀元前四百六十九年に生まれました。ちょうどこの頃になって、人類はやっと人間の理性や苦悩などについて考え悩むようになったのでしょう。いまのような形の人類になったのは、いまから二百五十万年まえだそうっですから、人間の理性や感情が形をなすまでに、随分時間がかかった訳です。私たちが、「礼儀正しく、マナーを守れ」などといわれても、なかなか行儀作法は難しいですね。そのはずです。孔子様の時代から、まだ二千五百年しか経っていませんからね。もう千年くらいしたら、人間ももっとお行儀がよくなって、礼儀正しくなるのでしょうかね。反対かな。ロータリーはどうなるのかと考えますと、楽しくなりますね。

孔子は、ソクラテスとおなじように、著作を残しませんでした。ソクラテスの思想が弟子のプラトンによって伝えられたように、孔子の言行は彼の死後五十年ほどたって、弟子たちの手によってまとめられました。それが「論語」です。孔子の時代には、まだ紙は発明されていませんから、記録はすべて木や竹の札に書いて、これをつづり合わせて保存しました。いわゆる木簡や竹簡がこれです。

中国の春秋戦国時代の学問は、いまと違って、先生が口づてに古典や礼について弟子に講義し、弟子たちはこれを聴いて暗記するのでした。勿論、教科書やノートなどというものはありませんから、ただ耳から入れてそれを暗記するのです。いまのように学問を阻む誘惑もありませんから、記憶するにも条件が整っていたでしょう。ですから、孔子が亡くなって何十年もたって、先生の語録を、弟子たちの記憶をたよりに編纂することができたに違いありません。

孔子が教えた講義の内容は「詩経」や「書経」で、弟子たちは先生の講義を一生懸命に覚えました。孔子は、「少ない謝礼でも、それを持ってきた人には、私はこれまで教えてやらないことはなかった」といっているように、孔子の名声を聞いて、遠近から教えを請いにやって来た人々に対して、授業料が多かろうと少なかろうと、おなじように教えを説きました。孔子はいまでいいますと、さしずめ奨学制度つきのビジネス・スクールの経営者兼教師だと思えばいいでしょう。

「論語」といえば、先ず堅苦しいという印象が頭にうかびます。それだけでもう拒絶反応がおこります。いま私の手許に「宇野哲人著 論語新釈」という本があります。この本の内容を見ますと、大体私どもが習った「論語」の解釈とあまり変わりはありませんけれども、「この本は、朱子注によって解釈したものであるが、朱子以外にも色々な解釈があるから、それも読まなくてはいけない」という意味のことが書いてあります。

「朱子学」というのは、孔子が亡くなってから千五百年くらい経った、中国宋の時代の儒学者朱熹が完成させた学問です。何しろ、中国の公務員高等試験に合格するためには、朱子の説いた論語を丸暗記しなければならなかったのですから、お役人が頭が固くなるのもやむを得ません。「朱子学」は、世の中の上下秩序を重視したものですから、徳川家康はこれを徳川幕府の国定学問にして、大学をつくって教えました。徳川三百年の体制作りの基礎になったのが、この儒学なのです。

昔の中国で、科挙という試験があったのを、皆さんご存知でしょう。いうなれば日本の国家公務員高等試験です。紀元六百年ころ、中国の隋の時代から始まりました。紀元六百年といえば、我が国では推古天皇のころです。第二回目の遣隋使に、「天の川ふりさけみれば春日なる三笠の山に出でし月かも」の歌で有名な小野の妹子がいます。

「科挙」は、皇帝が高級役人を採用するための試験ですから、上下の秩序を重視する「朱子学」から試験問題をだして、成績のよい受験生を採用したのです。「科挙」の試験は、一時衰えましたけれども、清朝が亡びる二十世紀のはじめまで、千三百年くらい続きました。このあいだに、「論語」の古い読み方が忘れられて、皇帝に都合のいいような「朱子学」が重視され、それが徳川幕府に採用されたという訳です。福沢諭吉が新しい日本を創ろうとして、「論語」を徹底的に排除したのも無理はありませんね。

ちょっと話が堅苦しくなりましたから、今回はこれで終わりとしましょう。(Q)

商品の名前をだしてはいけませんので、ここでは清姫と言う名前にしておきます。お酒の名前です。12月は会員の皆さん方、ことにお忙しい月でしょう。それにしては、12月はロータリーの催しが多いような気がしますね。

この間酒屋に、「清姫の四合瓶を取り寄せてくれ。」と注文したら、「北九州では品薄なので、6本取って頂ければお取り寄せ致しましょう」といいます。「じゃあ、6本頼むから」と、それほど酒飲みでも、酒好きでもない私は、届いた酒をどう処分したらいいかなと考えながら、酒屋の言うままに6本注文しました。それから一週間ばかりたったある日、酒屋の主人がひょっこりやって来て、「この間は、清姫を簡単に請合いましたが、とても手に入りませんよ、先生」と申します。「そんなことはないだろう。正月前に酒がないことはあるまい。毎年年末になると、何本かは店に並んでいるじゃないか」と私。「それがですね、今年はそうは行かないんですよ。まったく入る目処が立たないんですから。入荷したらすぐにお持ちしますけれども、それも何時になるかお約束できません」と主人。清姫はおろか、有名焼酎の何種類かも、この年末は品薄でどうなるか分からないといいます。いやはや驚きましたね。どこかの商社が買い占めて、年末になってどっと売り出すのかなと思いました。

それからまた一週間ばかり経って、酒屋の主人が友人のTさんという人を連れてひょっこりやって来ました。なんでもTさんは、清姫の醸造元の近くに住んでいて付き合いもあるから、「ご入用なだけ、取ってあげましょう」といいます。ご入用なだけといっても、1本でいいという訳にも行きませんから、「では6本お願いします」。それから三日も経たないうちに、件(くだん)の清姫が6本届いたという訳です。

「それご覧。いくらでもあるじゃないか」「これは特別です。いつでもこうはいきません。ところで、お支払いは?」と酒屋の主人。酒屋は私が現金を持っていないことを知っているものですから、「あの、お支払いはカードでも宜しいですよ」といいます。ちょうどその時私の机の上に、ロータリー・マークの入ったカードがありました。二年ほどまえに送ってきたのを、そのままにしておいたものです。「このカードでいいの」と聞きますと、「宜しいですよ」というものですから、清姫6本の支払いはロータリー・カードで済ますことになりました。

実は、ロータリー・カードのことをいいたくて、この年末の品薄清姫のことを書いた訳です。ロータリー・カードは、会員の皆さんが協力していただいたお陰で、国内発行目標の5,000枚をオーバーしました。ロータリー・カードの国内発行が5,000枚を超えたら、会員がカードを利用した金額の0.3パーセントが、ロータリー財団に還元され世界的な活動資金に使われることは、すでに皆さんご承知の通りです。ロータリーはそこまでして金集めをしなくてもいいじゃないかという意見もありましが、お金は少ないよりも多いほうがいいのですから、何も議論などなさらなくて、自然な気持ちでカードを使っていただけばいいのです。カードの利用金額の還元というのは、会員に強制するのでもなく、心理的な負担をかけるわけでもありませんから、案外いいアイデアだと思います。私もロータリー・カードを送ってきてから二年目にしてはじめて、カードを使いました。ロータリー風に申しますなら、「一杯楽しんで、世界に奉仕」ということになりましょうか。

今回の「論語」は、少し飛びまして、「子罕 第九」即ち「論語」の第九章の次の章句を取り上げます。

子、 罕(まれ)に利(り)を言う。命(めい)と与(とも)にし 仁(じん)と与(とも)にす。(子罕 第九―1)

難しい字が出てきましたから、文字の解説からしておきます。この章は、「子、罕に」で始まる第九番目の章ですから、「子罕 第九」と名前が付いているだけです。は、孔子のことです。は、と同じ意味だそうで、字にはいろいろあるものですね。はつくりが「少」ですから、罕もなにか少ないことを意味するのだろうと思いましたら、その通りで、と同じで、上に挙げた本文のように、「まれにりあり」と読みます。は柄が長い捕虫用の小さな網のことだそうですが、網が小さいから希にしか捕らえられないということでしょうか。意味は「孔子は金儲けについては、めったに語ることはなかった」とでもいったらいいでしょう。もっとも、孔子の時代はまだ流通システムが発達していませんでしたから、これは訳し過ぎでしょうかね。

この章句の全体の意味は、「孔子も希には利益を話題にすることはあるが、そのときは必ず天命や仁の道と関連づけて話をされた。」とでもいえば宜しいのではないでしょうか。但しこの章句の本文は「子罕言利與命與仁」ですから、昔から「子、まれに利と命と仁とを言う」と読まれていました。それだと「孔子は、利益と天命と仁の道については、めったに語らなかった」となります。もともと「論語」は天命と仁とを主なテーマにしている本ですから、この解釈は間違っていると考えて、新しい解釈をしたのが元禄時代の儒学者荻生徂徠です。それ以後、この徂徠の説が多く受け入れられていますし、「論語」の本場である中国でも徂徠の解釈に賛成する人が多いようです。荻生徂徠といいますと、この学者の主張で赤穂浪士が切腹になったというお話は皆さんよくご存知だと思います。

孔子は、利益とかお金儲けについては、ほとんど話題にすることはありませんでしたけれども、利について話すときは必ず天命とか、仁義と関連して説いています。「大学」とか「中庸」という本の中には、「道にしたがって行えば、利はそのなかにあり」とか、「利をもって利とせず、義をもって利とす」とか、また、「論語」の別のところを見ますと、「君子は義にさとり、小人は利にさとる」「利によって行えば、怨み多し」などの言葉に出会います。ロータリーの「最もよく奉仕するもの、最も多く報われる」という「超我の奉仕」の思想そのものなのです。

ポール・ハリスは,お金ことは余りいいませんでした。「(お金のかかる)奉仕活動で、他の団体に引けをとっても、そんなことはちっとも気にすることはない」といっています。私もこの考えに賛成ですけれども、だからといって「利」に消極的で無関心かといいますと、そうはいっておれません。ロータリーが組織として存続(発展?)していくためには、奉仕活動をしなければなりませんし、奉仕活動にはお金がかかります。P.ハリスがこういったからといって、お金集めに消極的なのは間違っています。私どもは、P.ハリスの考えを理念としては持っていなければなりませんけれども、それに固執して、「ロータリーは職業奉仕の団体であって社会奉仕団体ではない。社会奉仕活動のために寄付を強制するとは何事か。ロータリーは I serve で、We serve ではない」という「原理主義」はいけません。

ロータリーの奉仕活動の財源には、クラブのニコ・ボックスとロータリー財団の二つがあります。財団活動に対する会員の態度には三つのパターンがあるように思われます。R財団に熱心な会員、無関心な会員、それとロータリーは寄付団体ではないという原理主義会員の三つです。そして三番目に挙げた原理主義会員は以外に長年在籍のベテラン会員に多いような気がしなくもありません。「We serve は間違いだ」などというのが、財団活動のブレーキになっているような気もします。地区のR財団委員会は、このあたりへの働きかけも考えなければいけないかも知れませんね。「We serve か、I serve か」も本当は「We serve でも、I serve でもいいけれども、どちらかというと I serve のほうがロータリーとしてはふさわしい」なので、それを「あれかこれか」の二者選一に誤解して、それがそのまままかり通っているに過ぎません。

孔子もお金が嫌いじゃなかった訳で、お金に困ったときは、弟子からつるし上げられて、返事に困っていますからね。ただわれわれ凡人と違うところは、お金のことに言及するときには、必ず仁の心を説いたことです。R財団も寄付をお願いするときは、そのお金がどれほど世の中の役に立っているか、そのために救われる人がどれほど多いか、寄付によって世界でロータリーがどれほど高く評価されているか、「論語」風に言いますと、どれほど「仁」を実践しているかを同時に説かねばなりません。

R財団の寄付は、寄付と思わずに貯金と考えて下さい。1万円では目立った奉仕活動はできませんけれども、3,000人が1人一万円ずつ出しますと3,000万円になります。これだけありますと大きく社会のお役に立つことが出来ます。貯金の利子は、仁を為したというあなたの満足感です。(Q)

「ロータリーは創立100年を迎えましたが、これから100年先のロータリーはどうなるか分かりますかね?」。ロータリアンなら、創立100周年を迎えて、ついこう質問してみたくなります。弟子の子張が先生の孔子に同じ質問をしたのが、この章句です。

子張問う。十世知るべきか。子曰わく、殷(いん)は夏(か)の礼に因(よ)る。損益するところ知るべきなり。周(しゅう)は殷(いん)の礼に因(よ)る。損益するところ知るべきなり。其の或いは周(しゅう)に継ぐものは、百世といえども知るべきなり。(為政第二―23)
これをいまの言葉にかえます。

子張が質問した。
「十代先の国がどうなっているか分かるでしょうか。」
孔子先生がおっしゃった。
「殷は夏王朝を受け継いだもので、新しく取り入れたり廃止したりした制度があったが、さして重要なものではない。周は殷王朝の制度を受け継いだ。どこを取り入れどこを廃止したか、おまえにはよく分かっていよう。それから考えてみよ。周を受け継ぐ国は、重要な部分は変わらないのだから、百代先であっても予測することが可能ではないか。」

子張という人は、孔子の弟子のなかでも、若くて秀才です。しかも礼の専門家ですから、諸国の法令制度に通暁しています。その子張が、未来の国情が予測できますかと、先生に対して大胆な質問をしたものです。ロータリーに詳しい会員がRI会長に、百年先のロータリーはどうなりますかと聞いたら、会長はびっくりするでしょうね。
孔子はそれに対して、過去の王朝がどんな制度を廃止し、かわりにどんな制度を採りいえれたか、事実に即して分析した上で、「百世先といえども知ることができる」と答えました。孔子は中国のいちばん古い歴史書である「春秋」を整理大成した人ですから、その確固とした歴史を見る目をもって、社会の変動を眺めていました。そして、人間社会は時代とともに変動はあるだろうけれども、基本は不変で永続すべきものだと考えました。孔子には、二十一世紀の技術文明の発達は具体的には全く予測できなかったでしょうが、人間精神の連続性というか、不変なものへのしんらいがあったからこそ、確信をもって「百世知るべし」といったのでしょう。しかしその孔子も、現代に生きたとしたら、これほどの確信をもって断言できたでしょうかね。

荻生徂徠は、「殷は夏の禮を損益す。その損益するところの者は、夏の代に在って前知すべし。周は殷の禮を損益す。その損益する所のもの、殷の代に在って前知すべし」と。夏王朝の時代を見れば、殷の時代に損益しなければいけないものは予測できるというのですから、これは厳しいですね。

ロータリーでは、PR用のパンフレットが出ているのを、皆さんご存知だと思います。職業奉仕、国際親善、世界平和など、ロータリーのことを分かりやすく説明した、一般向けの簡単な印刷物です。何年か置きに時代に合わせて改定されているのですが、ラビッツアRI会長の年度の1999年に印刷されたパンフレットには、それまでのものと違って、冒頭に「ロータリーは、国際奉仕の団体です。」と印刷してあります。「論語」流にいえば、1999年に「損益」するところありです。之を見て日本の多くの会員は、おおいに反発しました。ロータリーは何時職業奉仕の団体から国際奉仕の団体に変わったのかというのです。私もそう思いました。

ところが、ラビッツア会長の書いたものを読んでみますと、単純にそう決め込むのは間違いなのですね。もともとラビッツアという方は、RI理事会で決議23―34条を手続要覧から削除しようとしたとき、日本の肩を持ってその尊属をサポートしてくれたことがあります。ロータリーの本来の姿を維持するためには、会員の数が少々減ってもやむをえないといい切った方です。ラビッツアという方は、なかなかおもいきったことをいう人だなとおもいましたが、ロータリーの本来の姿、即ち職業奉仕をちゃんと踏まえながら、これからは国際奉仕だと主張したのが彼の本意なので、ただ短絡的に職業奉仕団体が国際奉仕団体に変貌したと読むのは間違っています。損益したのは何かと言うことをちゃんと見据えて、本質を誤らないようにしなければいけません。

手続要覧「新世代のためのプログラム」のなかに、「インターアクト・プログラムの資金調達」という項目があるのをご存知ですか。どんなことが書いてあるかといいますと、インターアクトがなにかやるときに、その費用はインターアクターが集めなさい、提唱クラブは資金援助をしてはいけない、アクターが援助を受けたときは、労働奉仕などで必ずその対価を支払え、と言うのがその内容です。但しこの項目は、2003年の要覧からは削除されていますけれども、それは提唱クラブからいくらでも援助を受けても宜しいという意味ではなく、この考えが定着したと考えたからです。そのことは、ロータリー章典や標準インターアクト・クラブ定款などをご覧になればお分かりでしょう。

インターアクトの資金調達のことを書いていますと、カネボウの社長だった武藤山治を思い出します。武藤は、いまから80年ほどまえ大正15年に、「実業読本」と言う本を出版しています。その中に、青少年活動にいたずらに資金援助をすると、若者の独立心を失い、たかりの精神を助長するだけだ。もし資金が必要なら、勤労作業でもして資金の提供をお願いせよ、と書いています。ロータリーがアクターの活動に求めるものと同じですね。時代が変わっても、大切なことは変わらないということです。私たちはロータリー100年の歴史を尋ねるとき、「損益」したものはなにか、不変のもの、変えてはいけないものはなにかをしっかりと見極めて、これからあと100年を繋いでいかなければならないのですね。

どんな立派な組織でも100年経つと、時代にそぐわないところが出てくるものです。ロータリーもそうです。ロータリーが創立から100年経って、プラスの点はなんでしょうか。3つ挙げてみますと、①強固なロータリー組織が完成した、しかも②グローバルな組織にまで成長し、③世界的規模の奉仕活動を続けていることでしょうか。僅か4人で始めた親睦クラブが、100年も経たないうちに120万人の会員を擁する、世界最大の組織にまで成長したのです。成長の秘訣を論語風にいいますと、この百年のあいだロータリーが、「損益」するところありて、由って在るべきところを失わなかったからです。

物事に誇るべき長所がありますと、それには必ずマイナスの面があるものです。ロータリーの組織は、世界的に拡がりはしましたけれども、その理念はいささかマンネリズム化し、創立者のこころは失われ、それまでは右上がりだった会員数の増加はストップしました。ロータリー・バブルの崩壊とでもいったらいいかもしれません。もっとも、この現象も起こるべくして起こったものですから、其のことを性格に読んで行きさえすれば、「来るべきロータリー百世といえども知るべきなり」です。

これからのロータリーは、①先ず団塊の世代がリーダーシップをとる。之は間違いありません。そして②クラブは国際化と個別化するでしょう。クラブの活動はグローバル化し、そのなかで「よう」クラブを維持するためには、クラブの個性をしっかりと育てていくことでしょう。戦前のことですが、日本のロータリーが日本的なロータリー・クラブを育てようとして、国際ロータリーからクレイムが付いたことがあります。このことがあったものですから、戦後日本が国際ロータリーに復帰するに当たって、RIのルール厳守という厳しい条件がつけられました。しかしながらこれからのロータリーでは、クラブの画一化と個別化が同時にすすんでいくに違いありません。そして③国際奉仕団体への道はしばらく続きそうです。次の世代のリーダーシップを担う団塊の世代にエールを送りたいですね。孔子もいっているではありませんか。

後世畏るべし。焉んぞ来者の今に如かざるを知らんや。(子罕第九―23)

若い人は恐るべきだ。これからの会員が自分たちには及ばないなどと、たれがいえよう。

困難に直面したときは、歴史を振り返ってみよといいます、ロータリーは今そのときではないかと思います。最後に、ポール・ハリスの言葉を紹介しておきましょう。(Q)

ロータリーそのもののみを眺めることを止め、他の重要である諸々の現象との関係を考えなければならない。

松本ガバナーはお仕事が小児科医だけあって、新世代ことに乳幼児の問題に大へん熱心です。今年の地区テーマも「子どもの心を豊かに」という如何にも松本ガバナーらしい内容で、このテーマのもと、着々と年度計画を実行していらっしゃる。この間ガバナー月信を拾い読みしていたら、「現代は家庭における育児力が低下しているので、男性が家庭において家事や育児を女性と十分にシェアする必要がある」とかいてあるのが目に留まって、おやと思いました。不足している育児力を補うために、亭主は家庭でもっと家事や育児のことで女房を手伝えということでしょう。ロータリーは女性会員を歓迎しているとはいいましても、なんといっても男性社会です。この松本ガバナーのメッセージには、かなりの反論が寄せられるのではないかと思いましたけれども、それは私のような高齢会員の杞憂に過ぎなかったようです。

いまから15年ほど前、「山極寿一著 家族の起源 ― 父性の登場」という本が出版されました。大へん面白い内容で、今でも古本屋を探せば見つかりますから、興味ある方はぜひお読みください。父性というのは、母性に比べていささか耳慣れない言葉ですが、その後東京女子大教授の林道義という方が、「父性の復権」という題の本を出版、子育てにおける父性の重要性について強調されました。林教授は面白い経歴の方で、法学部出身の経済学博士、現在は深層心理学が専門だそうで、マックス・ウエーバーについての著書もあります。

山際氏によりますと、類人猿にはゴリラ型とチンパンジー型とが在るそうです。どこが違うかといいますと、チンパンジー型は群れを作る乱交型ですが、ゴリラ型のほうは、オス、メスのペアが家族の中心になりますけれども、新生児の世話はメスに任せっきりで、オス即ち父親は全くしないのだそうです。世話はしませんが、母子を保護する責任だけはちゃんと果たします。子どもが一人歩きできるようになりますと、遊び相手になったり食事の仕方を教えたり、母親から離れるきっかけをつくります。また、子どもたちの喧嘩を仲裁したり、弱いほうの子どもを助けるなど、子どもたちが差別されることなく大きくなり、やがて母親から離れて独立するきっかけをつくります。子どもが母親の手元にありますと、どうしても自分の子どもだけを庇護する傾向がありますが、これがないようにみな対等に扱うのだそうです。そしてやがて子どもが成長すると、父親は子どもをその集団から追い出し、子どもは他の集団の異性と結びつき、新しいペアをつくるのです。ゴリラの母親も放っておきますと、自分の子どもだけ盲目的に可愛がって、他の子どもをいじめるのだそうです。自分の子どもさえよかったら、他の子どもはどうなってもいいという、人間の母親に見られる、盲目的な愛情と変わりませんね。林教授は、現在の人類はゴリラ型の父性をもった類人猿と共通の特徴を示しているというのです。そして、孤立するゴリラ型ですといまの人類のような社会はつくることができませんから、そこは雑居連帯するチンパンジー型とうまく結合できた結果、人類が出来上がったのです。ですから、父性がなければ家族は成り立たないというのが、林教授の結論です。なかなか説得力があります。ロータリーの会員たちよ、大いに父性を強調して下さい。

では父性の条件とはなにかといいますと、次の五つがあげられています。

  1. まとめあげる力: 父親が中心にいて、しっかりした価値観を持ち、家族に生活の原理原則を示す。
  2. 理念・文化の継承: たとえば「奉仕の精神」とか「勤倹」とか「自立」とか何でもよい、生活の理念、価値観をもってそれを子どもに教える。ただ「やさしい父親」では駄目。
  3. 全体的・客観的視点: 自分だけのことでなく、社会全体の利益を考 える。子どもに「公正な態度と行動」とを教える。
  4. 指導力: 家族がばらばらにならないよう、間違った方向に進まないような指導力をもつ。
  5. : 最後になんといっても家族への愛情。愛情と甘やかしとは違う。

どうでしょうか。若いロータリアンの方は、林教授が主張される「父性の復権」についてゆっくり考えて下さい。或いは、クラブの家庭集会に松本ガバナーをお呼びして、「豊かな子どもの心と父性」について話し合うのもいいことかも知れません。

今月のテーマに入ります。

子曰く、唯女子と小人(しょうにん)とは養い難(かた)しと為すなり。これを近づくれば則(すなわ)ち不遜、これを遠ざくれば則ち怨む。(陽貨第十七―25)

この章句をそのままいまの言葉になおしますと、「女子と小人とは扱いにくいものだ。近づけて可愛がると図に乗るし、遠ざけて疎んじると怨みをいだく。」となります。「女子と小人」を、「女・子ども」と受け取っているものですから、「女子と小人は養い難し。女・子どもは黙っていろ」と言う意味に使われて、「論語」のなかでは「民は由らしむべし、知らしむべからず」とともに、大へん評判の悪い言葉です。どちらの章句も誤解されたまま伝えられて、それが一人歩きしているのです。

孔子の時代は、貴族は多妻制で、家庭内に多数の妾が同居していました。「女子」とはこの「妾」を指す言葉です。また「小人」とは男の使用人のことです。そうなりますとこの章句の読み方も大分違ってくるでしょう。荻生徂徠は、「小人は細民(いまこんな言葉はありませんが、元禄時代の著書ですからお許しください)なり。女子は形を以って人に事ふる者なり。細民は力を以って人に事ふる者なり。皆その志ざしは義に在らず。ゆえに「之れを近づくるときは則ち不遜、之を遠ざくるときは則ち怨む」とだけ注しています。おなじ家の仲居妻妾同居して、多くの使用人がいたのでは、「養い難」かったでしょう。孔子のこの言葉は、弟子に向かって講義した言葉だというより、あるとき孔子がふと漏らした「どうしようもないな」という嘆息だったかも知れません。或いは、徂徠がいった「義」のあるなしとと関係づけて考えますと、より朱子に近づきますかね。宮崎市定の訳はより直截です。

子曰く、妾と奴隷とは使いにくいものだ。大事にすればつけあがるし、よそよそしくすれば恨みに思う。(宮崎 訳)

「論語」のなかには、小人という言葉がよく出てきます。現代の中国でも、小人論はなかなか盛んなようで、西周から春秋時代の文献を丹念に調べて、小人は奴隷や農奴とは違った、もっとハイ・レベルの階級で、いくらかは政治にも関っていたなどという研究もあります。そうなると、宮崎市定の訳はいささか訳しすぎかも知れませんが、いちばん分かりやすいですね。

孔子は、君子と小人とを対比させます。君子は、深く学び仁を身につけて、礼を重んじ義を実践するものをいいます。まあそれほど堅苦しくお考えにならなくても、ロータリアンの皆さんのように、社会のルールをきちんと守って、お仕事をなさっている人と理解すれば宜しいでしょう。ロータリー風にいえば、職業分類ですね。これに対して小人は、礼と義という社会的ルールは無視して、己の性情の赴くままに好き勝手に行動するものを指す言葉として使われています。義とは、社会生活の行動規範ですから、義をスタンダードにして考えますと、「論語」の言葉のように「小人は養い難し」ということになりましょうね。

この間新聞を読んでいましたら、ある定年退職された方が、ボランティアで近くの中学に英語を教えに行ったそうです。校長先生から最初に「生徒を叱らないで下さい」といわれたそうです。驚きましたね。「殴らないで下さい」というのなら分かりますが、「叱るな」とはね。私も中学の教師をしたことがありますけれども、あの時代の子どもは、叱らないとものを覚えませんし、社会生活のルールも身につきません。ゴリラの子どもではありませんが、やさしい友達パパとママの盲目的な愛情だけでは、自立できる大人にはなれませんよね。

松本ガバナーの「子どもの心を豊かに」という地区テーマは、これまでのロータリーの新世代プログラムに一石を投ずるものです。といいますのは、ロータリーは「新世代のためのプログラム」で、プログラムの対象を周産期から次世代を担う若者まで広げながらも、じっさいの奉仕活動はこれまで通りインターアクトなど年齢14歳以後を対象としたものです。松本ガバナーの主張は、それを見直せというのです。この機会に、新世代のための活動内容を真剣に再検討したらどうでしょう。

ロータリーはときに、例えば「青少年奉仕」といっていたのを「新世代のためのプログラム」と改めたように、なかなか斬新なアイデアを出します。但しアイデアは出ますが、地区なりクラブの活動状況をみますと、実際にはそれが生かされずに、それまで恒例となった行事がいつまでも継続されています。ロータリーは意外に「保守的」というよりも「守旧的」です。「子どもの心を豊かに」を契機にして、ロータリーを見直し、「会員の心を豊かに」しましょう。(Q)

「論語雍也篇」に次のような章句があります。

子華、斉に使いす。冉(ぜん)子、その母の為に粟(ぞく)を請う。子曰わく、これに釜(ふ)を与えよ。益(ま)さんことを請う。曰わく、これに庾(ゆ)を与えよ。冉子、これに粟五秉(へい)を与う。子曰わく、赤(せき)の斉に適(ゆ)くや、肥馬に乗り軽裘(けいきゅう)を衣(き)たり。吾聞く、君子は急(きゅう)を周(すく)いて富めるを継(たす)けずと。 (雍也第六―4)

原思、これが宰と為(な)る。これに粟九百を与う。辞す。子曰わく、毌(な)かれ、以て爾(なんじ)の隣里郷党に与えんか。 (雍也第六―5)

この二つの章句は、一緒になっているものもあります。荻生徂徠の「論語徴」でも一緒です。古い文字で読みにくいところがたくさんありますから、先ずその解説から致します。

冉子とは、冉有(ぜんゆう)のこと。同じく孔子の弟子。孔子から「求(冉有のこと)や芸あり」といわれるほど実務に優れた才能をもっているのですが、人柄が温和で、自分の考えを主張することなく、発言も少ないものですから、却ってそれが災いして、間違ったことに対してもそれを正すことが出来ず、時に仕えているものの不正に加担することになります。

粟(ぞく)はあわです。孔子の時代の中国の主食はあわです。粟は、精白して籾殻をとった穀類一般の名称として使われます。釜(ふ)は、孔子当時の升目で、研究者によりますと、一釜はおおよそ20リットルくらいでしょう。一升桝10杯、一升瓶10本分というところでしょうか。粟も釜も、当時の給料と思えば宜しい。庾(ゆ)は同じく升目の単位で、一庾は3斗弱で約50リットル。10庾が1秉(へい)です。ですから五秉といいますと、50庾2,500リットル、1石5斗くらいでしょうか。冉有が子華に20リットルもやればよいところを2,500リットルやったのですから、孔子が怒ったのも無理ありません。

全体を今の文章にしてみましょう。

孔子が弟子の子華を斉の国に使いにやった。おなじ弟子の冉有が、留守宅の子華の母親に粟をやって下さいと孔子にいった。子華を斉まで行かしたのだから、出張旅費を出して下さいということでしょう。

孔子は、
「粟を一斗ほどやっておけ」
といった。
冉有が、もっと増やして下さいというと、孔子は、
「だったら、半俵やれ(1俵は4斗)」
と答えた。
冉有はそれでも少ないと思ったので、孔子には無断で粟を三俵、子華のうちに届けた。
後でそれを知った孔子が、
「子華が斉に出発するとき、いい馬に乗り、高価な毛皮の服を着て行ったそうじゃないか。上に立つものは、困っている人は助けるけれども、金持ちにまでさらに金はやらぬものだ」
といった。
また別のときだが、弟子の原憲が孔子の領地の管理者に任命されたとき、孔子は原憲を千石で取り立てた。原憲が、
「千石は多すぎます。もっと減らして下さい」
といって辞退すると、孔子が、
「構わぬ、とっておけ。お前がいらなくても、隣近所には困っておる人もいよう。その人たちに分けてやればいいではないか」
といった。

いまから二千五百年まえのことですから、給与表や出張旅費の規定など、勿論ありません。この会話を読むと、お金に関する孔子の考え方の一端が伺えます。裕福な子華には旅費は出さずに出張させました。それに対して冉有は出張するなら、その人が裕福であろうとなかろうと、ちゃんと出張旅費をやるべきだという考えです。企業や公務員では、当然のこととして冉有の考えが受け入れています。この第2700地区にも旅費規程というのがあって、地区の委員会などがありますと、旅費規程に基づいて、委員に旅費が支払われます。しかしどうでしょう。ロータリーの会員は、一般のサラリーマンよりも経済的に恵まれていると考えていいのではないでしょうか。二千五百年まえの孔子だったら、ロータリアンは一般の市民よりも経済的には恵まれているのだから、旅費を出す必要はないというでしょう。旅費が余程高額になる場合はせめて「釜を与えよ」くらいはいうかも知れませんけれども、たいていの場合は「それくらい自分で負担しなさい」というに違いありません。

出張旅費を出し惜しみする孔子はケチかといいますと、そうではありません。原憲には十分過ぎる給与を与えて、それが多すぎると辞退すると、お前がいらなければ、困っている人に分けてやったらいいではないかと、太っ腹なところを見せます。時に応じて的確な判断をするところが、如何にも孔子らしいですね。

冉有は生真面目な実務家で、経理にたけていました。生真面目な性格ですから、出張したら、その旅費を応分に出すものだという考えです。杓子定規なところがあって、真面目なだけだものですから、悪い主人に仕えると、そのいうがままになって、ついに主人の悪事に加担することになるのです。冉有と違って原憲は、ただ儒学の勉強が出来さえすればよいという、あまり欲のない人ですから、俸給を多すぎるといって辞退したのです。冉有と原憲のどちらが優れているとか、どちらが立派だとかいう問題ではありません。顔がそれぞれ違うように、人の性格は皆違いますから、孔子はそれぞれに人が生きていくためのアドバイスを、的確に与えたのです。

話は変わりますが、1978―79年のガバナーに新家忠雄という方がいらっしゃいます。福岡城西クラブの所属で、後に福岡北クラブの創立会員です。私よりちょうど二十年前のガバナーです。大へんやかましい方で、私も何回か叱られたことがあります。いまのRYLAを創めたのが、その新家PGです。

新家さんは、地区のRYLA委員会を福岡で開くとき、各委員は会場までの旅費はすべて自弁せよといいました。「地区の資金は、金額が幾らにせよ、すべて会員が拠出したものである。資金を地区の奉仕活動に使うのはよいけれども、旅費や茶菓代などに使うのはいけない。それらは全て会員の自弁とすることだ。それがロータリーの考え方である」というのです。新家PGのこの考えはそれ以来三十年近く受け継がれて、いまでも地区のRYLA委員会では、毎月の地区RYLA委員会の旅費や飲食費などは、地区委員の自己負担で開かれており、それが当然のこととして守られています。

新家さんのこの考えを、皆さんはどう思われますか。「とんでもない。忙しい仕事を差し置いて出かけるのだから、旅費くらい地区で負担するのは当然だ」という考えもあるでしょうし、新家さんのように「旅費は自己負担だ」という会員もいらつしゃるでしょう。もしもその地区委員が、体調を崩していたり高齢だったりして、「急行電車やJRでは駄目だ。タクシーで送迎してくれ」ということもあるかも知れません。そのときは、「タクシー代金は、自分でご負担ください」とか「委員をご辞退ください」ということになるでしょう。話はたまたま出張旅費のことになりましたけれども、ロータリーにはこれに類することが沢山あるように思われます。その一つひとつを規則で決めていくよりも、なにか問題がおこったときには、その都度ファジーに解決するのも一つの方法です。ファジーなことは、ロータリーの一つの魅力ですからね。

新家さんがガバナーだった時代から、三十年になります。新家さんという方には、ファジーなところはひとつもないようでしたけれども、おおらかにロータリーの真髄をしっかりと掴んでおられたように思われます。(Q)

四月一日は、クラブ創立記念の日。クラブの創立に因んで、戸畑東クラブ初代会長の山本秀祐さんについて一言。

私は四月になるといつも、クラブの大先輩である山本秀祐さんのことを思い出します。当時山本さんは、戸畑ロータリー・クラブの会員でした。戸畑東クラブは、戸畑クラブがスポンサー・クラブで1971年(昭和46)に創立したのですが、資金的問題から一時設立が危ぶまれたことがあります。その時、山本会員の「やりましょう、私に任せてください」の一言で、すべての難問は解決して、戸畑東クラブの創立が決まったのでした。もしあの時山本さんの一言がなかったら、戸畑東クラの誕生は恐らくなかったでしょう。いわば、山本さんは戸畑東クラブの生みの親なのです。

「論語」八佾(はちいつ)篇に次の章句があります。

子、大廟に入りて、事ごとに問う。或るひと曰わく、たれか、9草l(すうじん)の子を、礼を知ると謂う乎。大廟に入りて、事ごとに問う。子之れを聞きて曰わく、是れ礼なり。(八佾第三―15)

これをいまの言葉にします。

あるとき孔子が、魯の国の先祖を祭ってある大廟で、お祭りの手伝いをしていた。孔子は、祭祀の作法を一つひとつ先輩に尋ねて、儀式を進めていった。ある人がこれを見て、「あの9早iすう)生まれの若造は、礼に詳しいという評判だったが、大廟では、いちいち人に聞いてまつりの儀式を進めていったそうではないか」といった。これを聞いた孔子は、「それこそ『礼』なのだ」とこたえた。

孔子が、まだそれほど有名でなかったころのお話です。魯の国の重要施設である大廟で、国の始祖である周公旦まつる祭典が行われました。当時としては国の最も重要な行事です。いまでいいますと、国会の開会式と思えばいいでしょうか。
孔子が礼に詳しいという評判を聞いて、魯の国では祭りの儀式進行を彼に任せたのです。ところがその礼に詳しいという孔子が、実際に祭祀を行う場で一々先輩の祭祀官にお伺いを立てて行動したというのが、この場面です。それを見たある人が、「あの若造は、評判はともかく、実際にやらせてみると、一々人に聞かないと出来ないじゃないか」と、孔子を馬鹿にしたのです。これを聞いた孔子は、いささか威儀高い顔をして、「それこそ『礼』である」といいました。たとえ知っていることでも、重要なことは一々確認したうえで行動すべきである、というのが孔子の考えなのです。

礼は政治や社会制度の基本になるもので、型の伝統を守ることは大切であるが、型のなかにある精神こそ重要なのだということを示すために、孔子は殊更に傍目には慎重すぎる行動をとったのでした。それが分からぬかと言う気持ちで、孔子はいささか胸を張って答えたのです。しかし後になって孔子は、「こんなことを胸を張って答えるようでは、自分もまだ修養が足りない」と反省したのでした。

孔子の考えは、そのころどこの国にも入れられませんでしたけれども、講師自身は決して理想主義者ではなく、現実主義の行動派だったと思います。ソクラテスは毒をあおって理想に殉じましたが、孔子はそんなことはしません。孔子の像は今に伝えられていますが、これは案外孔子をよく写しているのではないかと、私は思います。あの孔子像の長い髭を剃ってご覧なさい。柔和で、筋骨たくましい偉丈夫を思わせます。性格はたぶん循環気質でしょうね。循環気質の人は、社交的の実務派です。但し時にうつになることがあります。孔子も、時にうつ状態におちいって、舟に乗って逃げ出したくなったり、弟子を失って身も世もあらず嘆き悲しんだりしていますからね。

私は、「論語」のこの章句を読むと、戸畑東クラブのチャーターナイト予行演習における、山本さんを思い出さずにはおれません。山本さんは明治三十九年生まれですから、あのときは63歳です。クラブでは、昭和46年4月1日の創立総会から5月29日のチャーターナイトの日まで、チャーターナイト会場である戸畑市民会館に全会員夫妻を集めて、チャータ-ナイトの予行演習が何度も行われました。会長である山本さんは、ステージの上で認証上を受ける練習を何回となく繰り返すのです。ステージに上がるのは右足からか左足からか、何歩でガバナーの前に進んだらいいのか、認証状を受け取るのは右手からか左手からか、それを確かめながら、なんども練習を繰り返します。私は暗い座席に坐って、明るいステージを眺めながら、紙切れ一枚受け取るだけのことなのに、大抵で止めたらどうだろうと思いました。このときの山本さんの姿が、「大廟に入りて、事ごとに問う」という孔子と重なるのです。山本さんはいつも「形は心に現れ、心は形を成す」といっていました。其のころの週報を開いて御覧なさい。この言葉が必ず出てきます。まだ若かった私には、ステージの上での山本さんの行動は、ただ老いの一徹のようで、どうも理解し難いものでした。

しかしながらいまになって考えますと、山本さんにとっては、チャーターナイトも単なるクラブの行事ではなくて、人生そのものだったのです。ご自分の研究であろうと仕事の一端であろうと、遊びでさえも、山本さんにとっては真剣勝負だったに違いありません。たかがロータリーの集まりだからとて手抜きしない、それが山本さんの生き方だったのですね。そんな山本さんだったからこそ、戸畑東をチャーターナイトまで引っ張って行ったに違いありません。

山本さんは、鋳型修理の技術に関する発明を事業化、昭和27年株式会社富士工業所を創立しました。山本さんの発明は、世界でも画期的なもので、その創意と工夫は、会社創立以来20年間に、日本は勿論アメリカ、イギリス、スエーデン、イタリアなどの40を越える特許として実を結びました。

山本さんは、昭和38年戸畑ロータリー・クラブに入会、戸畑クラブの創立15周年記念行事として戸畑東クラブの創立に尽力したことは、すでに書いた通りです。戸畑東クラブ創立総会での山本会長の挨拶を紹介しておきます。あれから40年近く経ったいまでも、クラブの進むべき姿として、私たちに多くのものを語りかけます。会員の皆さんは、ゆっくり読んでください。

「戸畑東クラブもうまれたばかりで、直ぐに青年期になるが、これ以上歳をとってはならぬと思います。いついつ迄も、青年期の若さを持ち続けて行きたい。私は若さとは、よく勉強し、情熱を沸かし、意志が強固であると云う、三条件を兼ね備えたものでなければならぬと思います。歳をとった者でもこの三条権を持った人は、若かい青年であり、歳若かい青年でも、この三条件のうち一つでも欠けた人は、若い仮面をかぶった老人である。
此の若かさがある限り、ロータリーの奉仕活動も活発になり、刷新も起こり、他のクラブにない独自のカラーも生まれるであろうし、その上、クラブの老化、或はマンネリズム化も決して起らぬと信じて居ます。更にこの若かさにロータリアン相互の深かい、温かい近親感を加へたならば、楽しくロータリーの仕事が出来、おのづと出席することも楽しみになって、出席率も向上するであろうと思いますが、此の近親感をつかむには、かたくるしくない、肩のこらない、崩れても見苦しくない、歳の差はあっても同年令である様な親睦法を、皆さんと考えて行きたいと思うのであります。(原文のまま)」

戸畑東クラブは今年創立37年。山本秀輔さんの言葉は、今も会員の心の中にしっかりと刻み込まれています。

創立記念日の序に、「論語」にこんな文章があります。

子曰く、先進の礼楽におけるや、野人なり。後進の礼楽におけるや、君子なり。もしこれを用うるにには、吾れは先進に従わん。(先進―1)

宮崎市定の訳が分かりやすいので、下に書きます。

子曰く、昔の人たちが身につけた教養は、田舎者流であった。今の人たちの教養は、すっかり文化人風になっている。どっちの教養が本物かといえば、昔の人たちの方だ。

ロータリーでも、こんなことがありそうです。(Q)

私の友人がアメリカに留学しているとき、ちょっとした交通事故を起こして、裁判になったことがあります。裁判のはじめに、判事が「あなたはこれこれの罪を認めますか」と聞いたとき彼は、「はい」とそれをあっさり認めてしまいましたので、その場は混乱してしまいました。アメリカの裁判は「no duty」から始まるのですね。それを最初に「はい、やりました」と罪をみとめたものですから、混乱したのです。日本の裁判では、早く罪を認めて改悛の情を表したほうが、罪が軽くなる傾向があります。友人はたいてい気の強い男なのですが、それでもあっさりと罪を認めたというのは、文化の違いでしょうかね。

物の本によりますと、日本のように「すみません」と先ず自分のほうから謝るという習慣がある国と、「no duty」と先ず自己主張をする国、「謙譲の美徳」が支配する文化圏と、「自己主張」が支配する文化圏との境が、インドシナ半島あたりにあって、それを境にして東が遠慮謙譲圏、西が自己主張圏になるのだそうです。近頃はテレビで、企業のトップがやたらと頭を下げますね。なにもマスコミに向けてあんなに平身低頭しなくてよさそうなものにと思うことが多いですね。もっとも、本当に心から謝ってはいないので、頭だけ下げておけばいいと思っているのかも知れませんがね。あの頭を下げる習慣も遠慮謙譲圏の東の果てにある日本だからかも知れませんがね。もっとも、最近ではモンスター・ペアレンツや医療機関泣かせのモンスター・ペイシアントが多くなって、自己主張圏がグローバル化したかとさえ思えますがね。

「論語」のなかに、次のような章句があります。

子曰わく、君子は争うところなし、必ず射(ゆみい)るときか、揖譲(ゆうじょう)して升(のぼ)り下り、而して飲ましむ、その争いや君子なり。(八佾第三―7)

いまの文章に直します。

先生がいわれた。
「紳士たるものは、決して人と点数を争ったり、競争したりしないものだ。まあ、弓を射るときは例外だろうな。但し、弓道場に入るとき、ご主人にきちんと挨拶して入り、的に向かって礼儀正しく弓を射る。射終わったらお互いに会釈して、試合は終わる。そして勝った人に酒をご馳走する。この競い合いのやり方は、実に紳士的ではないか。

「揖」とは、両手を前に組み合わせて会釈する、中国式の挨拶です。昔中国で弓の試合をするときは、はじめご主人の招待に応じて、御殿に上がるのが「升」で、御殿から弓道場のある庭に下りて、弓を射ったそうです。だから、「揖譲して升り下り」といったのです。

調べてみますと、「論語」のなかに「射」について述べたところが、四ヶ所あります。上にご紹介したのはそのなかの一つです。他の三つを挙げておきます。

子曰わく、射は皮(まと)を主とせず、力の科(しな)を同じくせざるが為なり。古(いにしえ)の道なり。(八佾第三―16)

これを今の文章になおします。

孔子がいわれた。
「『弓道は、どれだけ的に当てるかだけを競うものではない。射る人の持って生まれた腕の力には強弱があり、それには等級というものがある』という言葉は、古代の聖王の残された教えを示している。」

宮崎市定は、「射」を「狩猟」、「皮」を「毛皮」と解釈して、次のように訳しています。

子曰く、射猟には獲物の大小多寡を争わない。力だめしをするには等級を分けておく。これが昔からの奥ゆかしいしきたりだ。

宮崎によりますと、「射」を「射礼」と解釈するのはおかしいと言うのです。会員の皆さんはどう思われますか。私は、宮崎訳は少し訳し過ぎだと思いますがね。「等級を分けておく」というのは、「ハンディ」をつけることです。いまから二千五百年前に、ゴルフのハンディと同じ考えがあったというのは、面白いではありませんか。

達巷党の人曰わく、大なるかな孔子、博く学びて、名を成す所(べ)きなしと。子、これを聞き、門弟子に謂いて曰わく、吾何をか執(と)らん。御を執らんか、射を執らんか、吾は御を執らん。(子罕第九―2)

「達巷」は地名。但し、いま場所は分かりません。「党」は五百軒の小さな部落。その時代、先生に就いてなにかを習おうとする人は、文・武の道をマスターして、世に出よう(就職しよう)と思っていた。そのことを頭に入れて、この章句を読んでください。
こいれを今の文章にします。

達巷町のある人がいった。
「孔先生は、偉大な方ですね。多方面の学芸に秀でながら、何一つ、これがご専門だとひけらかしもされないし、これが専門だとおっしゃりもされませんからね」と。
孔子は、この噂を聞いて内弟子に、
「はて、私は何を専門にしようかな。御者になろうかな。それとも射手をやろうかな。・・・・いや、私はやっぱり御者になろう」と冗談めかしていった。

孔子はただ堅いだけの先生ではなくて、弟子たちとの会話のなかで、しばしば冗談を言っているさまが、「論語」のあちこちに出てきます。この「射手をやろうか、御者になろうか」というのも、その一つです。

南宮适(なんきゅうかつ)、孔子に問いて曰わく、羿(げい)は射を善くし、奡(ごう)は舟を盪(うご)かす。倶(とも)に、その死を得ず。禹(う)と稷(しょく)とは躬(みずか)ら稼(か)して天下を有(たも)つと。夫子答えず。南宮适出(い)ず。子曰わく、君子なるかな若(かくのごと)き人、徳を尚(たっと)べるかな、若(かくのごと)き人。(憲問第十―6)

この章句にもまた、難しい文字が出てきました。南宮适(かつ)、羿(げい)、奡(ごう)、禹(う)、稷(しょく)は、みな人名です。羿(げい)は武力で夏王朝を奪いましたが、後に臣下のために殺されました。奡(ごう)は、舟を一艘抱えるほどの力持ちでしたが、自分の家来に殺されました。一方、禹も稷も、治水に勤め農業を盛んにして、武力に頼らずに国を治めました。

これをいまの文章にします。

あるとき、南宮适が孔子に尋ねました。
「昔の羿は弓の名人でしたし、奡は大へんな力もちで、ともにその力をもって国を開きましたが、二人とも臣下に殺されて、非業の死を遂げました。ところが、禹と稷は武力はありませんでしたが、農業を盛んにして、天下を統一しました。何故でしょうか。」
孔子はこれに対して、なにも答えなかった。やがて南宮适は部屋から出て行った。その後で、孔子がいった。
「あのような方を、君子と呼ぶのだ。徳を尊ぶ人だな、あの方は。」

以上「射」に関して、「論語」の中に出てくる四つの章句を紹介しました。孔子の「射」についての考えがお分かりでしょう。「射」は武術の一つですから、「命中させる」ことが目的でしょう。しかし孔子にとっては、「命中させて、点数を稼ぐ」よりも、礼儀を正しくして、弓を射ることを楽しむのが大切なのです。孔子は、力よりも礼を重視し、最後に勝つのは「礼だ」といいたかったのです。

孔子の時代の「射」は君子の遊びだったのです。技を競っても、重要なのは技の背後にある礼。「射」は、いまならさしずめ「ゴルフ」でしょうかね。
クラブでもゴルフが盛んです。私のホーム・クラブでは、毎月ゴルフ大会をやっています。どこのクラブでもいちばん盛んな同好会は、ゴルフでしょう。地区大会でも、会員がいちばん楽しみにしているのは、ゴルフ大会かも知れません。私は、ゴルフをやりませんから知りませんが、グリーンの中で衆人環視のなかにクラブを振るのは、やはり「君子の業」だと思います。ロータリアンの皆さんも、孔子が「射(しゃ)」についていったように、「君子は争うところなし」の境地で、ゴルフを楽しんでいることでしょう。(Q)

近頃入会する会員の方はどうか知りませんが、私がロータリー・クラブに入れて頂いたころ、例会に出るとどちらを向いても、でんと構えて威厳のありそうな会員ばかりでした。近頃例会に出席して思いますのは、昔のあの雰囲気が薄れたなということです。これは、私がクラブで最年長の会員になったからだという訳でもないようですけれども、古い会員の方はどうお感じでしょうか。クラブはなにも格式ばるのがいいとは思いませんし、ロータリーはもともと零細企業主の集まりなのですから、そんな格式ばったことなどあるはずはありません。しかしながら例会に出ると、なにか襟をただし背筋を伸ばさなくてはいけないような雰囲気がありました。それは堅苦しいものではなくて、爽快さのようなものが感じられました。そのなにかが、「これがロータリーなのかな」と思わせましたし、私のように毎日診療だけに明け暮れて、広いお付き合いのないものにとっては、言葉では言い表せないエートスを得ることができるような気がしました。例会のあの雰囲気を思い出しますと、「論語」のこの文句が頭に浮かびます。

君子は重(おも)からざれば威あらず。学べば固(こ)ならず。忠信を主とし、己(おのれ)に如(し)かざる者を友とするなかれ。過ちては改むるに憚(はば)かることなかれ。(学而第一-8)

いまの文章になおします。

紳士は、どっしりと構えていなければ、威厳がない。学問をすれば、頑固でなくなる。誠実に人とつき合い、約束をやぶるな。おべっかをつかうようなものと、友達になるな。あやまちをおかしたら、躊躇することなく改めよ。

この文は、「君子は重からざれば威あらず」と「学べば固ならず」「忠信を主とし・・・」「過ちては改むるにはばかることなかれ」という、関係のない四つの文章からできています。孔子の言ったことをここに集めたのだろうという意見が強いようです。私は、孔子の意見をあちこちから集めたのではなく、ある日孔子を囲んで何人かの弟子たちが先生の話を聞いていた。一人が「先生、君子とはどんな人をいうのですか」と聞いた。別の弟子が、「どのような人間と交わったらいいのでしょうか」また別の弟子が「先生、君子だって間違いは犯すでしょう」と言う。弟子たちの自由な質問に答えたのが、この文章と考えたほうがにぎやかでいいとは思いませんか。

君子は重からざれば厳あらず」は、これも解釈がいろいろあります。いちばん簡単なのは「人に馬鹿にされるから、おっちょこちょいな態度はいけない」です。江戸時代に「国家にとって重大な行事のとき以外は、威厳を誇示するようなことはしない」という解釈がありますが、ロータリーにはこれがピッタリではないですか。「例会では、SAAが威厳をもって会の進行をつかさどるが、会員相互は殊更に堅苦しくはしない」。これが例会の基本的なルールです。

学べば固ならず」は、私の好きな言葉です。これはこのまま「学問すれば頑固でなくなる」と訳しましょう。学問とは、なにも机の前に坐わって本を読むことではありません。生活即学問と考えればいいでしょう。「よく学んで、人生体験の豊かな人は、考え方が柔軟だ」とでも読めば、より現代風です。ロータリーでは「ロータリーをよく学んだ会員は、ロータリーの規則とか綱領などに柔軟に対応する」といったらどうでしょう。以上二つの文章をあわせますと、「クラブにとって大切なことは、妥協することなく厳しく守るが、それ以外では堅苦しくなく会員同士交流する。ロータリーのことをよく知れば、固さがとれる。」となります。クラブ奉仕の基本でもありますし、ロータリアンの心掛けることではありませんか。

忠信を主とし」は、桑原武夫の「まごころがあって、嘘をつかない」という解釈が分かりやすいですね。「誠心誠意」というのも短くていいですね。ロータリーでいうなら「四つのテスト」です。「四つのテストで友達付き合い」でどうでしょう。それに続く言葉は「己(おのれ)に如(し)かざる者を友とするなかれ」です。自分より劣るものを友達にするなというのですから、これをそのまま読みますと、孔子は冷たい人間だなと思いますよね。この文章はあれこれ調べてみますと、孔子の時代に政治をつかさどった貴族は、能力はおとって媚び諂うものと交わるなという意味のようです。「友とするなかれ」の「」は、友達の意味ではないのではないかと、私は考えます。字引を調べて見ますと、たとえば「直を友とし諒を友とす」というような表現が目に付きます。この場合の「友」は、友達と考えるよりも直を行動の規範とするとでも訳したようが分かりやすいですよね。この考え方を当てはめますと、「友人のつまらぬ考えに同調するな」と訳したらいいのではないでしょうか。自分に及ばない友人がいてもいいではないですか。孔子はそんなに狭量な先生ではなかったのですから、こう解釈しますと、孔子の人柄を誤解しないですみます。

この章句のおわりは、「過ちては改むるに憚(はばか)ることなかれ」です。
これは有名な言葉ですから、これまでにも何回かお聞きになったことがあるでしょう。「間違っていたら素直に認めて訂正すればよい」ですが、なかなかそれができません。ロータリーの年度スケジュールやプロジェクトも、前年度の継続事業ばかりやらないで、どんどん新しいことを計画すべきです。それがうまくいかなかったら、「改むるにはばかることなかれ」です。

明治の経済界で活躍した渋沢栄一、明治鉱業の創業者で明治専門学校(いまの九州工業大学)を国に寄付した安川敬一郎は、どちらも共に「論語」好きでした。渋沢の著書に「論語講義」(講談社文庫・全七巻)や「論語と算盤」があり、安川敬一郎に「撫松余韻」に収録されている「論語漫筆」があります。この章句でもそうですが、「論語」では「君子」という言葉が方々ででてきます。「君子」という言葉は、「論語」の英語訳では「ゼントルマン」です。渋沢は、「君子には、良識ある人と地位の高い人との二種類あって、ここの君子は後者をさしている。徳と位とは一致すべきものではあるが、現実にはなかなかそうはいかない。」といっています。渋沢は「論語」を大へん深く読んでいると思います。安川は、「君子」を「高位大官学識卓越の士、即ち紳士だ」としていますが、現実は「今の時代は、君子という語を高位大官の代名詞に使う訳にはいかない」と嘆いています。

渋沢も安川も、ゼントルマンたちよ威厳を持て、というのです。「ゼントルマン」を「ロータリアン」といいかえてもよいのではないでしょうか。但し、ただ威厳をとるだけでは駄目なので、安川の言葉を借りますと、「社会の上流に位する識見卓越の士が、威儀端然としてそり身になって、社会の俗輩に囲繞せられ、意気揚々として辺幅を修飾する如きは、俗臭紛々として自ずから嫌悪の情催し易く、却って威儀を損なう」ことになります。ちょっと固い話になりましたけれども、安川という人は、日露戦争の後、思いもかけずお金が沢山もうかった。しかし、もうかった金を残して、子孫が贅沢するだけでは駄目だからといって、明治専門学校を創立しました。明治の職業奉仕に徹した人ですね。

「論語」にはいろいろの読み方があるものです。佐藤一斎という人は、今回の標題である「学べば則ち固ならず(学則不固)」は本当は「学」のうえに「不」があって「不学則不固」だったのが、いつのまにか「不」を忘れて、「学べば則ち固ならず」となったのだ、本当は「学ばざれば、則ち固ならず(学問しなければ、学んだことを、堅固に守れない)」だ、といっています。これだと、「不重則不威 不学則不固」となって、中国風に「聯」にするのにぴったりと当てはまるのだといっています。まあ私どもにとっては、はどちらでもあまり関係のないことですが、江戸時代の日本では、儒学の研究は大変盛んで、本場の中国でも驚いたほどです。

江戸時代の儒学者に、伊藤仁斎や荻生徂徠などという有名な学者がいます。徂徠は柳沢吉保の政治顧問でした。赤穂浪士の吉良邸討ち入りの後、仁斎の息子伊藤東涯などは、之を忠義の行為だとほめましたが、徂徠は「義とは己を潔くする道、方は天下の規矩である。私において正しければ法をやぶっても良いとはならの」といって、とうとう赤穂浪士は切腹になりました。

この章句の始めの言葉「どっしり構えていなければ、威厳がない」というのは、重からざれば則ち威あらず」を現代風にした言葉で、これは「論語」には「不重則不威」と書いてあります。荻生徂徠は、「論語」を理解するには、日本流に返り点を打って読んではいけない、中国語で読まなければいけないといって、江戸から長崎まで中国語の勉強にいった人ですが、その徂徠はこの章句を先ほどご紹介しましたように、「重からざれば則ち威せず」と読みました。「重大なことでない限り、威厳をつくろうことはない」と解したのです。ついでですが、台湾出身の米山奨学生金培懿さんは、日本留学中に江戸時代における徂徠などの研究をまとめて「日本儒学研究書目・上下二巻」を上梓しました。日本の学者もやってなかった素晴らしい仕事です。徂徠の読み方はまたそれなりに、なかなか含蓄のあるものですね。私は徂徠の解釈に心引かれました。(Q)

北陸本線の京都発特急サンダーバードに乗ると、二時間半で高岡に着く。高岡駅から富山湾と反対方向に行きますと、一キロばかりのところに、高岡山瑞巌寺があります。瑞巌寺は、加賀藩二代藩主前田利長公の菩提寺です。

四津谷道昭さんはここの住職で、98―99年度地区ガバナーを勤め方です。四津谷さんは、日ごろはむしろ無口で控え目ですが、なにか問題があると時節を通されます。この四津谷さんが、曹洞宗の寺院建築で全国唯一の重要文化財指定を受けると言う大事業を実現したのです。私は、「論語 里仁篇」の「徳孤ならず」の章句を読むと、その風貌とともに、四津谷さんを思わずにはおれません。(そう思っていましたら、四津谷さんのことが、「ロータリーの友」誌の「風紋」欄でとりあげられました。)

瑞龍寺の総門から、白砂の前庭を通って山門をくぐると、正面に鉛瓦二重屋根の仏殿が聳え、典型的な伽藍形式をたもっています。この伽藍全体が国の重要文化財に指定されているのですが、これを四津谷さんは、お一人でおやりになったのです。クラブの親睦旅行で高岡まで出かけるのもいいかも知れませんね。

創建以来加賀藩の手厚い保護を受けた瑞龍寺でしたが、明治維新後の廃仏毀釈や太平洋戦争後の農地改革で、それまでの寺領はほとんど失われ、もともと前田家の菩提寺として長らく保護されていましたので、檀家も少なく、収入の道は途絶えました。

お寺の厳しい財政のもとで、四津家さんは第三十世住職を継ぎました。もともと四津谷さんは理論の人でありますけれども、行動の人でもあります。多くの人にお寺が愛されるためには、参拝する人がお詣りしやすいようにしなければいけないと考えて、トイレつきの駐車場を作ったり、瑞龍寺の住職である四津谷さんご自身が、参拝者の案内に一役買っています。

お寺のお勤めの合間に四津谷さんは、瑞龍寺の復元計画を進めようと考えました。四津谷さんの復元事業に対する熱意に動かされて、寺の檀家も、高岡市民も地元の企業も一生懸命になりました。文化庁が瑞龍寺の復元に本腰を入れたのも、四津谷さんの熱意と、更に寺院建築についての四津谷さんの深い知識とがなかったなら、文化庁も重い腰を挙げなかったでしょう。この寺院建築についての知識というのは、亡くなられた四津谷さんのご父君が「鎌倉時代以後の寺院建築を勉強しておくように」と勧めておられたことを、四津谷さんが忠実に守っておられたことが、大へん役に立ったというわけです。

「論語」のなかに次の章句があります。

徳は孤ならず、必ず鄰(となり)有り。(里仁第四―25)

この章句も、日本では人口に膾炙した言葉です。いまの言葉になおします。
人格の優れている人は、決して孤立することはない。必ず良い理解者や援助する人がでてくる。

この章句は、一般的にはここに書いたように「徳孤ならず、必ず鄰(隣)あり」と読みます。「人格の優れている人には、必ずその人をよく理解している隣人がでてくる」という意味に解釈されるのです。しかしながら「理解ある隣人が出る」というのでは、どうも迫力がありませんね。荻生徂徠はこれを「徳孤ならず、必ず鄰(たすけ)有り」と読んでいます。「鄰」を「たすけ」とよむなど、始めて知りました。諸橋徹次の大漢和辞典によりますと、「鄰」は蔡傳の「鄰、左右輔弼也」を引いて「たすけ」とあります。「たすけ」と読んでいいのですね。「たすけあり」といいますと、「となりあり」より具体的で、より力強いですね。一般にはなかなか馴染まないこも知れませんが、徂徠の読み方に準じて「徳孤ならず、必ずたすけあり」と読むほうが、なんだかピンときませんか。徂徠の注には次のようにあります。「鄰は、『臣なる哉鄰なる哉(書 益稷)』の鄰の如し、必ず助くる有るを謂ふなり。『易』に曰く、『敬義立ちて徳孤ならず(易 文言)』とは、亦助け多きを謂へる者なり。『詩』に謂ふ、『民の彝を秉れる、是の懿徳を好む(詩 大雅 烝民)』と。是れ徳の助多きゆえんなり。」と。
徳のある人には、必ず援助するものが出てくるという言葉にぴったりなのは、四津谷さんをおいて他にはありません。四津谷さんは、お坊さんとしても徳の高い人です。国宝瑞龍寺の再建を完成させたのは、その政治力ではなく、四津谷さんの徳高きパーソナリティです。「徳ある人には、隣人が集まってくる」だけでは、事実をいっていません。やはり徂徠が読んだように「徳あれば、必ずたすけあり」です。人をして「この人をなんとしてでも援助しよう。お金も出そう。とにかく力になりたい」と、そんな気にさせる人が徳のある人です。
そう考えてロータリーを見てください。ポール・ハリスはまさに「徳高き人」ではありませんか。「ロータリー財団の父」といわれるアーチ・クランフ、「米山奨学会」の米山梅吉もそうですね。 

 アーチ・クランフは、第六代目のRI会長を務めた人です。「ロータリーが奉仕活動をするには、基金がなければならない」という考えから、第一次世界大戦の最中、1917年に設立されました。発足当時は26ドル50セントの寄付しかなかったそうですから、随分「たすけ」があったわけですね。

1947年1月27日(昭和22)、ポール・ハリスが亡くなりました。ポール・ハリスの死を悼んで、ロータリー財団に沢山の寄付が寄せられました。財団は、これを受けて「ポール・ハリス記念基金」を設け、その最初のプログラムが1947年に始まった「ロータリー国際親善奨学生」です。

ポール・ハリスと同い年の米山梅吉が亡くなったのは、ポール・ハリス逝去の1年前1946年4月28日(昭和21)です。1952年(昭和23)梅吉のホーム・クラブである東京ロータリー・クラブが、その威徳を偲んで「米山基金」を設立、アジア諸国から留学生を招こうという目的で、2年後の1954年(昭和29)第1回目として、タイからソムチャード君が来日しました。「米山基金」はその後、1960年(昭和35)に「ロータリー米山記念奨学会(THE ROTARY YONEYAMA MEMORIAL FOUNDATION)」と変更されて、今日に到っています。

「ロータリー財団」にしましても、「ポール・ハリス記念基金」も、「米山奨学会」も、財団を企画したアーチ・クランフ、ポール・ハリス、米山梅吉その人が「徳のある人」でなかったら、それがどんなに良いアイデアだったとしても、今日の発展を見ることはできなかったに違いありません。

 「論語」にいう「徳」とは何でしょうね。金谷 治は、「徳」は「得」、身に得られたもののことで、生まれつきの持ち前、その後に獲得した能力など、すべて身についた才能のことだといっています。中国の古典「老子」には、「『徳』の十分備わっている人は、自分の『徳』を自慢することはない。『徳』の十分に備わってない人は、自分の『徳』を失うまいとする。だから『徳』が身につかない」とあります。「徳」は、聞きかじりの知識や、爽やかな弁舌だけではいけないので、大切なのはその人の人柄であって、言葉だけでなく実行が伴ってなければいけません。

「論語」の「陽貨篇」というところに、「道を聴きて塗(みち)に説(と)くは、徳をこれ棄(す)つるなり(人に今聞いたことを、すぐ自分の説のように吹聴するのは、向上心を捨てた人のすることだ)」とか、「憲問篇」に「徳有る者は、必ず言有り、言有る者は、必ずしも徳有らず(徳のある人は、言うことも立派だが、立派なことを言う人が、必ずしも徳があると人とは限らない)」とあります。「徳」ある人は、言葉だけでなく、実行が伴わなければ駄目だ、というのです。

ロータリーには、「社会奉仕に関する1923年の宣言」というのがあります。所謂「社会奉仕に関する23―34条(セントルイス宣言)」です。この第4項に、「ロータリーとは単なる心構えのことをいうのではなく、また、ロータリーの哲学も単に主観的なものであってはならず、それを客観的な行動に表さなければならない」と謳っています。ロータリーと「論語」とを、ゆっくりと味わいながらお読みになって下さい。(Q)

この間、関鯖のことを読んでいましたら、最近鯖がとれなくなったそうですね。もともと一本釣りで、一本釣のさばだけ「関鯖」という名前をつけて売り出すのだそうです。何時だったか同じクラブの藤崎会員から、「これ、釣った」といって、新聞紙につつんだ鯖をもらって、刺身にして食べたら随分旨まかったので、関鯖というのは、みな一本釣りだとばかり思っていました。そうじゃないんですね。近頃は、周防灘から豊予海峡の鯖をはえなわで一網打尽に獲ってしまうので、さっぱり釣れなくなったそうです。鯖を大量に水揚げしたい気持ちは分からぬではありませんが、何故魚がなくなるまで獲るのでしょうかね。

 「論語述而篇」に次の章句があります。

子、 釣(つり)して綱(こう)せず、弋(よく)して宿(しゅく)を射ず。(述而第七―26)

いまの言葉にします。

孔子は、釣りはしたが、はえなわをかけることはなかった。また、鳥をとるのに、飛んでいる鳥を射ることはあったけれども、巣にこもっている鳥を狙うことはしなかった。

「綱」は、「網」の間違いだという説もありますが、どちらにしても話の筋は通ります。要するに、孔子は度を越す殺傷をしなかったということです。猟師ではないのですからそれももっともなのですが、なにごとも度を越すのはいけないという教訓でもあります。

去年の暮れに本屋で、「ほっとする論語 杉谷みどり著」という本を見つけました。そのなかにも、「釣りして網せず」の章句が取り上げられていました。この本は、「論語」のなかのいくつかの章句を取り上げて、それに杉谷みどりさんの短いエッセーを加えたものです。そのうえ、石飛博光さんという書家が各章句を作品に仕立てています。隷書のうまいかたで、私のような素人が見ても、「うまいな」と思います。「論語」を扱った本でこんなのは初めてでしょう。興味ある方は手元において下さい。一冊1,200円。コーヒー二杯分です。本の中の「釣りして綱せず」につけてあるエッセーがいいので、ここに引用しておきます。

 一本の楮の木。樹皮を剥ぎ、煮込んで、冷たい川の水に晒しながら根気よく塵を指で摘み取る。それを叩いて水に溶かし、漉いて出来上がった一枚の和紙。

先人たちは大切に書いた。紙の前に正座して、これから書くことを心に描きながら、静かに墨を磨り筆をおろした。書き損じはふすまの下張りにした。

いつの日からか、人は「もっともっと」と思うようになった。楮は細くて面倒だ。山の大きな木を切ろう。樹皮だけでは少ないから丸ごと刻んで煮てしまえ。ゴミを取るのは手間だから薬品を使って簡単に。そして大量の紙が出来上がった。

薬品を含んだ排水は川に流れて海を汚し、山は気を失って崩れ出した。(杉谷みどり 「ほっとする論語」より)

杉谷さんのおっしゃる通りです。平安時代の藤原公任日記が残ったのも、公任が紙を大切にして、古い公文書を捨てずに、古紙を張り合わせて、その裏に文章を書いたからです。今年に入って、古紙問題がマスコミを騒がせています。

ロータリーが、環境問題を社会奉仕の重要なテーマとしてとりあげたのは、1990―’91年上野正康の年度です。ロータリーが正式に活動方針として取り扱うまで、大体10年間くらいはパイロット・スタデイをやっていますから、RIは1980年代から環境保全に深い関心を持っていたことになります。

その年度のRI会長はP.V.C.コスタさんでしたが、環境問題にはとくに関心をもっており、“The Green Wave”というニュース・レターを発行して、環境問題の重要性を訴えていました。Green Peaceではありません。第2700地区でも上野ガバナーが、地区の社会奉仕委員会に環境保全のためのチームを設け、ガバナー月信に環境問題関連の図書を毎号紹介するなど、新しい波を起こしました。これに刺激されて、各クラブでの社会奉仕委員会でも環境問題をとりあげ、例えば前原RCの「糸島の川に蛍十万匹を飛ばそう」が”Rotary World”に紹介されるなど、活発な活動がみられました。

あれから、おおかた20年になります。環境破壊は益々ひどくなってきて、南極と北極の海氷面積もこれまでの予測より30年早く縮小しており、そのスピードは益々加速されるだろうとのことです。海水の水位が上がり、台風が多くなる、アフリカでは旱魃が続いて環境難民が激増するだろうと予測されるなど、安閑とはしておれないような気がしますね。宇宙物理学者のホーキング教授によりますと、地球と同じくらい文明の発達した惑星は、宇宙に二百万くらいあるそうです。そのなかで地球は特に技術の発達が著しい惑星だそうです。では一体、これからの地球はどうなるのかといいますと、あと100年足らずで消滅するだろうといいます。ホーガン教授の著書は、日本語訳が沢山出版されていますから、興味のある方は読んでください。100年といえば、ロータリーが創立していままでということですね。ロータリーが創立200年を迎えるころ、もう地球はないかも知れませんね。貴方の曾孫の時代はあるでしょうか。

孔子はいまから2,500年まえに、「釣りして綱せず」といって、無駄な破壊を止めようとしているではないですか。地球は後100年しかもたないといわれながらも、なぜ破壊と汚染を続けているのでしょうか。考えようによっては、100年しかもたないから、やけくそになって破壊を続けているのかも知れません。

ロータリー・クラブというのは、本来零細企業のオーナーの集まりです。ところが、組織が大きくなるにつれて、大企業の幹部社員が加わってくるようになり、今では大企業の社員なくして組織を維持することはできなくなりました。ところでどうでしょう。環境汚染などという問題は、大企業と零細企業とでは、考え方や取り組み方に違いがありますよね。職業奉仕はロータリーの基本だなどといいましても、大企業の支店長さんと小売店の社長さんとでは、考え方に大きな開きがあるのは当たり前のことで、それを一緒くたにして、職業奉仕に徹せよなどといいましても、戸惑うだけか、真面目に考えてはいないかということになります。

ところが、数年前から企業の社会的責任(CSR)ということが、企業でいわれるようになりました。企業と環境問題などはまさにその中での重要な課題です。まだ企業の社会的責任遂行如何が、投資を左右するまでには到っていませんこれども、企業が巨大化しグローバルになってくればくるほど、社会的責任を果たすことが難しくなってきます。最近の地球温暖化防止とそれに対する各企業の態度をご覧になれば、其のことはよくお分かりになるはずです。

現代の企業で特に目立つことは、企業の経営形態が変わり、企業のオーナーと経営の専門家とが、はっきり別れたことでしょうか。企業の所有と経営の分離でしょう。そして経営者である社長の権力が増大したことです。そこでロータリーの職業奉仕が生きてくるのです。といいますのは、企業の社会的責任などといいましても、企業そのものが社会的責任など取れるわけはありません。では一体責任をとらなければいけないのは誰かといいますと、その企業の経営責任者であるトップ以外にはないのです。企業が巨大化するほどその経営トップの責任は重く、その人の企業倫理観が問われることになるのです。言い換えますと彼が経営者としていかなる職業奉仕観を持っているかということです。

21世紀は、これまで以上に職業奉仕が問われる時代なのです。「釣りして綱せず」を職業奉仕の言葉として、もう一度ゆっくりと噛みしめてください。(Q)

今回のテーマは、そのものずばり「温故知新」です。パソコンでも「おんこちしん」と打てば、そのまま「温故知新」と出てきます。それほど日本では人口に膾炙した言葉です。これも「論語」からきた言葉です。どんなに活字嫌いの方でも、何回かは聞いたことがあると思います。中学校の体育館などには、この字を書いた扁額が懸かっていますね。

ロータリーではなにごとかあると、「原点にかえれ」といいます。「かえれ」とは「還れ」か「帰れ」か「返れ」か「替えれ」か、どれか分からないので「かえれ」と仮名で書きます。「原点」とは、そこから物事が出発した基本となるところをいいますから、ロータリーの原点とは、ポール・ハリスが「シカゴに居を構えて、淋しくて淋しくて仕様がなかった」ことと、「収入を上げるには、弁護士で食っていけるためには、同業者じゃあなく、異業種の人間が集まって商売を融通しあうことだ」と考えたことです。「いやそうではない。ロータリーの原点とは奉仕の理想だ」という考えもありますけれども、それはロータリー神話ができあがってからのことでしょう。ロータリー綱領の変遷を見てみても、1906年に制定されたさ最初の綱領の第一には、「クラブ会員事業の利益の増大」と言うのが挙げてありますからね。その後綱領の中で言葉の変遷はいろいろありますが、ロータリーの綱領から事業の利益拡大を意味する言葉が消えて、「奉仕の理想」で統一されたのは、1935年に制定された綱領からです。考えて見ますと、このときにロータリーの衰退が始まったのかも知れません。

「温故知新」の本文を書きます。

(ふる)きを温(あたた)めて新しきを知る、以って師と為(な)るべし。(為政-11)

これを今の言葉に直します。

過去の歴史と現代とをともに知る人にして、はじめて教師としての資格がある。

この章句は、前半分ばかりが四字熟語になって人口に膾炙していますけれども、全文を読みますと「以って師と為るべし」という後半が大切なのです。人の先生となることの出来る条件は、歴史認識が過去現在のいずれにも偏ってはいけないというのです。

この章句には、いくつかの読み方があります。「温」を「たずねて」と読むのも、そのひとつです。貝塚教授は、これは朱子の読み方だがあまりにも意訳過ぎるといっていますが、わたしもそう思いますね。荻生徂徠は「コヲオンシテシンヲシル」と、漢字の音2をそのまま読んでいますが、むしろこっちのほうが、すっきりとしています。

皆さんは、西洋料理でシチューを作るときのことを思い浮かべてください。シチューを作るのには、時間がかかります。肉をゆっくりと、時間をかけて煮なければいけません。それを作った翌日、温めなおして食べますと、作ったときよりももっと美味しくなっています。古い歴史を学ぶのも同じです。シチューをゆっくりと温めなおすように、過去の歴史をゆっくりと眺め考え直して、過去から現代に到る過ぎ去った道筋を深く考える、そこで私たちははじめて、過去の歴史と伝統から生まれた現代の意味を知ることが出来るのです。昨日のシチューより今日温めなおしたシチューのほうがより美味しいように、私たちは過去の歴史に照らし合わせることによって、やっと現代の本当の意味をより深く知ることが出来るでしょう。人の師となる人物は、そのような深い歴史認識の出来る人でなくてはならないと、孔子はいうのです。

王充という人は、「古きを知って今を知らざるを、『陸沈』といい、今を知って古を知らざるを『盲瞽』という」といっています。『陸沈』とは、陸のうえで溺れ死にすること、『盲瞽』とは盲人のこと。歴史を知って現実を知らないのは、陸の上で溺死するような愚かな人間、現実だけ見て歴史を知らないのは、偏見にして公正を欠く人だという意味です。ロータリーでは、徒に復古主義を唱えたり、唯ひたすら教条主義に陥って、『陸沈』や『盲瞽』にならないように、自由な心を持たなければいけません。

明治鉱業、明治専門学校を創立、明治専門学校(現 九州工業大学)を国に寄付した安川敬一郎は、もともと学者として身を立てようとした人です。「論語」の講義を続けて、後に「論語漫筆」を著わした方です。この本の中で安川敬一郎は「論語」のなかのこの章句について、次のように書いています。

学問の用は故きを尋釈研究して、更に自分の考を以って前人の未だ云わざる新しき事を悟り知るにある。則ち古への政治民情風俗習慣等の異なる所以を考え究めて、それを今日の国情に適応する様に、活用の道を悟り知らねばならぬ。

 「もって師と為るべし」は省いて、「温故知新」についての敬一郎の考えを述べたものです。敬一郎がこれまで学んだ古い徳川時代の学問は、「ただ既成の社会道徳をいかにして守るかというのが、その目的であった。しかしながらこれからの学問は、ただ道徳規範を学ぶだけではいけない。科学技術の学を興して、殖産に励み、世界に伍して日本の繁栄を期すべきである」というのです。彼のこの考えが、後に明治専門学校の創立へと繋がっていくのです。なんと気宇壮大ではありませんか。今度旧戸畑区役所跡に移転する戸畑区図書館に「安川・松本家コーナー」が新設されるそうです。わがクラブもこのコーナーになにかお役に立ちたいですね。

序ながら、諸橋轍次の「温故知新」についての解釈を紹介しておきましょう。

何事にあれ、過去をたどりそれを十分に消化して、それから、未来に対する新しい思考、方法を見つけるべきだ。現在は過去なくしては存在しない。しかし、過去だけにとらわれては新しい世界は展けない。過去を無視し去って、ただ新しきにつくのもまた、失敗を招くものである。

ロータリーではよく、「原点にかえれ」という言葉が出てきます。最近のロータリーは、財団で寄付ばかり集めて、効果のはっきりしない奉仕活動ばかりやっている。奉仕団体になってしまった。ロータリーは職業奉仕を理念とした団体ではないか。単なる奉仕団体ではないはずだ。もっと原点にかえって、職業奉仕に徹底せよ。最近のロータリーに関する解釈は間違っている。19**年の論文にはこう書いてある。規定審議会に提案される条項もロータリーの理念にそぐわないものが多いなど、いろんな議論が出てきます。

なるほどなと肯けることもありますけれども、皆さんはどう思いになりますか。私ども古いロータリアンが、これこそロータリーと思い込んでいることは、神話化されたロータリー物語ではないでしょうか。ロータリーも創立以来100年たちました。創立当時のこと、その後の試行錯誤の時代、ロータリーの栄光と創造の時代、第二次世界大戦中の苦難、さらに戦後の世界的発展を経て、現在があるのです。これからのロータリーを担う若い世代にとって、創立の時代というのは、おそらく想像もつかないに違いありません。私がかねてから、ロータリーに神話が必要だというのは、そのためです。

ヨーロッパにも中国にも、韓国にも、そして勿論日本にも、立派な神話があります。それと同じように、ロータリーも100年経ちますと、「ロータリー神話」が必要なのです。ロータリアンは「ロータリー神話」を読んで、ロータリーのこころをしっかりと身につけてください。但し、若いロータリアンよ、それだけではいけません。いまのロータリーも学んで下さい。でないと、日本の歴史を知るのに、「古事記」と「日本書紀」とを読んで、中世も江戸時代も、現代も知らないで、これが日本の歴史だと思い込んでいるのと一緒で、誤解もはなはだしいものになります。ロータリーだって一緒です。創立したときのロータリーだけしか知らない会員がいたら、その人はいい会員といえるでしょうかね。近頃「最近のロータリーは解釈が間違っている。ロータリーの理事会は、一体なにを考えているのか」というような議論を聞くことがあります。そういう議論は、一見正論のようには聞こえますけれども、本当にそうでしょうかね。ゆっくり考えてください。

序に、次の章句を揚げておきます。

子曰わく、学びて思わざれば則ち罔(くら)く、思いて学ばざれば則ち殆(あや)うし。

(為政第二―15)

いまの日本語にします。

ものを習うばかりで、自ら考えないと、ちゃんとした考えがまとまらない。自分で考えるだけで、教えを乞い、正しい勉強をしないと、大きな誤りをおかす。

「温故知新」とおなじ為政篇のなかにある、孔子の言葉です。(Q)

ロータリアンは、実業人にせよ専門の職業人にせよ、皆さんそれぞれの職業でひとかどのお仕事をなさっている方ばかりです。年齢は30歳台から上、人生のライフ・サイクルでいいますと、成人期以後社会的に活躍なさっている方場仮です。もっともこの頃は寿命が延びて、90歳をすぎても若い人に負けずに活躍なさっている怪物もいらっしゃいます。もっとも、長生きした人は昔から私どもが考えて衣類亜用に多かったようです。元禄時代にお寺の過去帳を繰って調べた人の記録では、60歳まで生きた人はその後もずいぶん長生きで、80歳などというのもそんなに珍しくはありませんね。皆さんご存知の新井白石のお父さんも80過ぎまで長生きした人ですが、息子の白石に、「80過ぎて、人前にしゃしゃり出てお喋りするほど、みにくいものはないない」といっていたそうです。 私も80過ぎですが、考えさせられます。

私たちは、生まれて子供時代を過ごし、青年期をへて、大人になります。そして年をとり、やがて生を終えます。生まれてから死ぬまで、それが私たちの生涯です。人生といってもよいでしょう。私たちの一生は勿論ずっと続いているのですが、これを幾つかの段階、時期にわけて把えてみますと、自分の人生が分かりやすくなります。

例えばレビンという人は、人生を17歳までの児童青年期、一家を構えるまでの成人期、年齢は40歳くらいまで、40歳から65歳までの中年期、65歳以後の老年期の四段階に分けています。いまから二十数年まえ、レビンは次のように考えました。

かってのアメリカは、若者の文化が支配していた。ところが1970年代の後半から、中年の問題が浮かび上がってきた。中年の世代は、若者と老人の二つの世代の谷間にあって、社会人として職業や家庭、とりわけ精神生活の面で最も負担がかかる。職場では、自分の仕事を続けて行くことには勿論、後輩たちの仕事にも配慮しなければならない。家庭においては、夫婦関係、子供の教育、住宅、老親の介護が絶えず負担になる。ところが中年には、若者や老人と違って周囲の同情は少ない、と。

レビンは中年の問題に注目して、之をプライム・エイジと呼びました。日本で熟年という言葉がゆきわたりました。高齢化社会が問題になってきたのもそのころですね。中年の人々は、やがて老いていきます。それまでの心理学は、子供から大人になるまでの心身の発達と、心身の働きが次第に衰えていく老化(衰退)とを研究対象にしてきましたけれども、子供時代から青年期をへて、中年から老年へと、発達から衰退への人生をいかに(よく)生きるかをテーマに、考え直さなくてはならなくなったのです。それがライフ・サイクル論です。私たちの人生は、「発達」だけでは解決できません。果物は、実がなって大きくなって熟して落ちますが、人間は大人になって熟した後も、生きなければなりません。

会員の皆さんは、ほとんどが中年ではないでしょうか。以上のことを頭に入れていただいて、「論語 為政篇」の「吾れ十有五にして」を読んでください。本文はこうです。

 子曰わく、吾十有五にして学に志し、三十にして立ち、四十にして惑わず、五十にして天命を知る。六十にして耳従う、七十にして心の欲する所に従いて矩を踰えず。(為政第二―4)

いまの言葉になおします。

 私は、十五歳で学問の道に入ろうと決心し、三十歳になってその道で独立した。やがて四十歳になると、学問についての迷いはなくなった。私が、学問の道を進むことこそ、自分の天命であると覚ったのは、五十歳のときである。六十歳になると、人の言葉を素直に聞くことができるようになり、七十歳では、自分の思うままに行動しても、これは行過ぎたということがなくなった。

どうでしょう。いまから二千五百年まえ、孔子はすでに人間のライフ・サイクルに言及しているではありませんか。孔子は四十歳まで、なにを惑っていたのでしょうか。なにに迷って、五十歳まで天命に気付かなかったのでしょうか。

これは大変有名な文章ですから、皆さんもすでにご存知のことでしょう。この文章には、二つの読み方があります。一つは、ライフ・サイクルの人生の規範としての読み方です。十五歳を「志学」、三十歳を「而立」、四十歳を「不惑」、五十歳を「知命」、六十歳を「耳順」というのは、この読み方によるものです。孔子は孤児でしたから、学問をはじめるのが遅れました。そのころの貴族(?)の子弟は、8歳から読み書きの道に入りましたから、それにくらべると、孔子が学問に志したのは遅い訳です。もっとも、早くから読み書きは習っていたけれども、学問をしようと志を立てたのが十五歳だという解釈もあります。この読み方はこれで、私たちの人生を考えるうえで役に立ちます。

もう一つは、孔子が晩年になって、自分の来し方を振り返っての感慨だという読み方です。孔子が「吾れ十有五にして・・・・・・」といったのは、諸国を放浪の後、六十九歳で故郷の魯国に帰ってきて、教育に打ち込むようになってからのことです。ですからこの文章も「・・・自分は三十歳で学者として世の中に認められた。自分の学問こそ祖国である魯の国を救うものだと確信したけれども、その信念はついに実現できなかった。自分の理想を実現できず、祖国を脱して流浪の旅にでた。この苦労もわが天命だと五十才で覚った。

諸国を放浪した私は、やがて六十歳になったが、誰の意見でも素直に聞き入れられる度量を身につけた。やがて七十歳をすぎると、自分の思うままに行動しても、行過ぎてあとで後悔することがなくなった」と読みますと、人生の規範として読むよりも、孔子がもっと私たちの身近に迫ってきて、人生について考えさせてくれるのではないでしょうか。

孔子は五十六歳で母国魯を去り、六十九歳まで十四年間諸国を放浪して、大へん苦労しましたけれども、結局はどの国からも入れられず、失意のうちに帰国したのです。その間に、からだも衰えました。帰国してから七十四歳で亡くなるまでの五年間に、愛する子供や弟子を次々に失いました。その失意の孔子にとって、これはなんと力強い述懐ではありませんか。

ロータリーは過去百年間、いつも若々しい活力のあるサービスの団体として発展してきました。たえず若い会員により増強されていますけれども、それでもクラブの平均年齢は高くなっていきます。活発なサービスとともに、ライフ・サイクルについてゆっくり考える。それもロータリー・クラブだと思うのです。

最後に、ルソー「人間不平等起源論」のなかの言葉を紹介しておきます。

 十歳では菓子に、二十歳では恋人に、三十歳では快楽に、四十歳では野心に、五十歳では貪欲に動かされる。人間はいつになったら叡智のみを追うようになるのであろうか。

六十歳以後はありませんけれども、身にしみますね。(Q)

先ず、「論語」の章句を書きます。

 子曰わく、人の己れを知らざるを患(うれ)えず、人を知らざるを患う。(学而第一―16)

これは「学而篇」の16番目に出てくる言葉です。何番目に出てくるかなどはどうでもよいことですが、もし「論語」の本でも開いてみようかという方がいらっしゃったら,その章の何番目に出てくるかということがすぐに分かるように、番号を書いておきます。

この言葉は、殊更に現代文に直さなくても、このままで意味はお分かりでしょうが、一応いまの文章にしておきます。

 先生がいわれた。

「他人が自分を認めないからといって、くよくよすることはない。自分が他人のことを知らないのが問題だ」

この章句は、二つの言葉即ち「人の己を知らざるを患えず」と「人を知らざるを患えよ」との二つの文章からなっていますけれども、二つは一緒にしておきませんと、別々に読みますと意味が変わってきます。本来は、孔子の弟子は殆どの人が、学問をして認められ、立身出世をしようと思っているのですから、そういう弟子たちに、焦らないでゆっくりと学問をしていれば、必ず認められるぞと、孔子が弟子たちに教え諭している言葉なのですが、後の文章である「人の知らざるを患う」だけですと、「人のことを知らないのが問題だ。

ゆっくり学ぶよりも、情報収集が必要だ」ということにもなります。

これでは、孔子の心には通じません。孔子は別のところで、「今の弟子達は、就職のことばかり考えて、本当の学問をやろうというものが少ないな」と嘆いていますが、孔子という人は、事業量を貰ってビジネス・スクールを経営しながらも、目指すところは学問だったのです。そのことがよく表れている文章ですね。

「学而篇」のいちばん最初の章句は「人知らずして愠(いか)らず、亦君子ならずや」で終わります。この二つの章句を併せて読みますと、その意味がいっそうよく分かります。並べてみましょう。

人の己を知らざるを患えず、人を知らざるを患う。人知らずして愠らず、亦君子ならずや。

ゆっくりと味わって下さい。

ロータリーでも同じことで、クラブで自分の存在理由を誇示することなどはおろかなことです。クラブで、他の会員について知らないことのほうが問題ですね。折角高い会費を払っているのですから、できるだけ知り合いを広めて下さい。あなたの心を豊かにするでしょうし、それによってあなたの事業も拡大するかもしれません。

今回は、出光佐三さんのことを書きます。

出光佐三は、子供時代随分神経質な子供だったらしい。とくに過保護でもなかったらしいから、とにかく敏感な子で、なにか欲求不満があると、無意識のうちに病気に逃げ込んで、フラストレーションを解消させていたようです。丁度ロータリーがシカゴにできた1905年(明治38年)、佐三は神戸高等商業学校(現在の神戸大学)に進学しました。神戸高

商ではとくに目立った学生ではありませんでしたけれども、昔父親から、「男とうまれたからにゃ、独立して自分ちゅうもんを立て通さにゃいかん。それには商人がいちばんじゃ」といわれた言葉が心に残っていて、佐三の行動を支配していたようです。

沢山いる高商の学生のなかから、特に目立っている訳でもない佐三に目をかけたのが、日田重太郎でした。こういう出会いは、後からはいろいろ理由がつけられるでしょうが、当の佐三にも思い当たるものはなく、佐三と日田とを結びつけるエピソードがあった訳でもありません。全く天命だとしか言いようがありませんが、多くの学生の中で佐三になにか光るものがあて、それを日田は的確に把えていたに違いありません。

日田は、淡路島の旧家の出で、そのころ既に三十歳の半ばを過ぎてはいましたが、特に何の仕事につくでもなく、茶道や骨董を楽しむという優雅な生活を送っていました。たまたま日田の妹の夫が、神戸高尚の近くに病院を開業していて、学生好きだったものですから、高尚の学生たちが、その家に沢山出入りしていました。佐三もその学生のなかの一人だったのです。

日田はある日、佐三に息子の中学進学のための家庭教師になってくれるように頼みました。それを引き受けた佐三の指導の仕方は徹底していて、受験勉強でどんな難問にぶっつかっても、途中で投げ出すことは許さず、ときには日田が佐三に、もうそのくらいでやめて欲しいと頼むほどでした。

やがて高商を卒業した佐三は、神戸にある酒井商会に就職しました。

酒井紹介は、店員も四、五人の、小麦粉と器械油とを扱う小さな商店で、官立の高等商業学校を卒業した人材が、とても就職するところではありません。いまでもそうでしょう。一流の国立大学を卒業して、個人商店に就職するなど、とても考えられないことでしょう。

同窓生のなかには、「学校の面目にもかかわる」といって、佐三を非難するものさえありました。話はかわりますが、新宿中村屋の創業者である相馬愛蔵が東京専門学校(いまの早稲田大学)を卒業してパン屋を始めたとき、同窓生の名がすたるといって、随分非難されたことがあります。それほど当時の高等専門学校を卒業した人は、社会的にも高く評価されていたのです。

酒井商会に就職した佐三は、とにかくよく働いて、大きな取引にも成功しました。佐三は、両親や兄弟を養うために早く独立したいと思い悩んでいましたけれども、なにしろ資金の目途がたちません。

そんなある日、明治四十四年春のことです。佐三を散歩に誘った日田が、佐三の独立資金として八千円提供しようといったのです。数日後日田はこのことを佐三の友人を通じて改めて申し入れてきました。佐三は熟考のすえ、日田の好意を受けることにしました。日田は佐三に、「この金は君の心持に上げるのだから、返すには及ばぬ。

むろん利子などいらぬ。事業の報告などは、聞いても分からぬから、いっさい必要ない。ただ一つだけ注文がある。家族みな仲良く、そして自分の初志を貫いてもらいたい。それだけだ。それから、このことは決して他言するな。」といっただけでした。

日田重太郎からの資金を得て、佐三は明治四十四年六月二十日、門司市東本町に出光商会の甲板を掲げ、器械喩の販売を始めました。

出光商会はその後、苦難の道は続きましたけれども、独創的な事業を展開していったことは、ご承知の通りです。日田が、学生時代から佐三のどこを見ていたのか分かりません。佐三が他人の目など気にすることなく、しっかりと自分の選んだ道を進んでいたことが、日田の心の琴線に触れたのでしょう。

渋沢栄一は、「最近大学の卒業生が多くなり、就職難の声が次第にやかましくなって、『人の知らざるを患えず』というのは、孔子時代の消極的処世法である。現代はこのようにしていては、成功もおぼつかない。だからもうすこしあつかましく立ち廻って、積極的に自分を売り込んだがよいという意見もある」といって、自己PRを勧めているようです。

ロータリーは会員の相互理解を大切にする組織です。他の会員を知る事も大事だし、自分を知って貰うことも大事だと思います。しかし、殊更に自分を売りこむこともありますまい。(Q)

はやいもので、七月に発足した中島年度も十二月で前半が過ぎて、折り返し点にやってきました。ガバナー公式訪問も終わって、次年度へ向かっての助走が始まります。人生にはいろいろとあるもので、平成20年は、アメリカ発の金融不安で終わろうとしていますけれども、冷静に自分のライフ・サイクルを考えると、これもあなたの生活を何処かで奥深く豊かにしているかも分かりません。このまえライフ・サイクルのことに触れましたので、序でといっては悪いのですが、高齢会員にかかわりのあることを書きます。題して「色難し」とします。

「論語為政篇」に次の章句があります。

子夏、孝を問う。子曰わく、色難し。事あれば,弟子その労に服す。酒色あれば、先生に饌(せん)す。曹(すなわ)ちこれを以って孝と為せるか。(為政第二―8)

これをいまの言葉になおします。

 ある時、子夏(しか)という孔子の弟子が、「先生、孝行とは一体なんですか」と孔子に聞きました。孔子はこの質問に、次のように答えました。「父母には、その顔色から両親の心のなかを読みとり、それにもとずいて仕えることだが、これがなかなか難しい。例をあげてみよう。祇園祭で山笠を出したとしよう。若い連中が力を出し合って、山を組み立てる。終わって慰労の打ち上げが始まると、先ず町内の長老に一杯注いで、ご馳走を差し上げる。若い連中がやったと同じことを父母にしたからといって、それを孝行といえるだろうか」

いまから二千五百年まえ、孔子が生きた時代の社会生活の基本は「孝」です。それについて、孔子の考えを述べた言葉です。子夏は、孔門十哲の一人といわれた人で、魏の国の文公という王様の先生になりました。人を評価するのには、学歴なんか無視してよいというのが、子夏の考えです。

色難し」は、子夏から孝とはなにかと聞かれて、孔子が答えた言葉です。ここでは上のように訳してみましたが、どうでしょうか。大体の意味はお分かりだと思います。孔子は、仕えることは大切だが、それには心が伴っていなければいけない、「孝」には形式も大切だが、「心が伴うこと」が最も大切であるというのです。孔子のこの考えは、「論語」のあちこちに出てきます。孔子は礼の先生で、礼の形式についてやかましくいいましたけれども、形式よりもその背後にある精神を重視し、「かたち」と「こころ」のどちらを選ぶかといえば、それは「こころ」だとはっきり答えています。

お祭りの後などに、町内の長老さんに一杯差し上げるのと、父母になにかを上げるのとは、上げるものの心の構え方は違うのだ、その違いをはっきりと認識して、さらに形や表情に表さなければいけない。思うだけでは駄目で、外からみても分かるようにやれというのです。このあたりは、孔子の現実主義者であるところが、よく出ています。ロータリーでは、職業奉仕は哲学だけれども、頭の中で思うだけでは駄目だ、行動しなければいけないといいますね。孔子の教えも同じで、行動を大切にします。

「色難し」とは、なかなかしゃれた表現ではありませんか。中国語では「色難」の二字です。こういう表現は、日本語ではできませんね。日本語にすると、先程私が書いたような冗長な文章になるのです。漢文が平成のいまも生きている理由は、こんあところにあるのではないでしょうか。

ロータリーでは洋の東西を問わず、高齢会員の批判がささやかれ、印刷物の投書欄にもみられます。私はクラブの最長老会員ですから、このことについて、書いてみます。さきに書きました祇園山笠の打ち上げの場面は、本文は「事あれば、弟子その労に服す。酒食あれば、先生に餞す」です。文中の「弟子」は「弟子」ではなく「ていし」と読んでください。若者とか若い衆のことです。ロータリーなら「若い会員」と読んでもいいでしょう。「先生」はいまの先生でなく、早く生まれた人、先輩、年配の人のことです。ロータリーではさしずめ「高齢会員」です。さきの章句の後の部分をロータリー風に読んでみますと、「奉仕活動には、若い会員を中心に全会員が参加する。それが終わって慰労会が開かれると、先ず先輩会員に料理をついであげる」となるでしょう。

ロータリーの魅力の一つは、会員の間に、年齢、社会的地位、財産などで差別がないことです。しかしながらだからといって、年齢を無視するというのではありません。先輩会員にはそれなりに敬意を表します。しかしながら高齢会員に対しては、「文句ばかりいって、なにもしない」、それが面白くないから退会するというのが、欧米でも決してすくなくないようです。1998―99年度RI会長だったJ.レイシーさんも、先輩会員があまりうるさいので、ロータリーをいちど退会、その後友人に誘われて再入会して、今度は熱心なロータリアンになったといっていました。

十年ほどまえ、行橋ミヤコロータリー・クラブがスポンサーになって、「スーパー・ロータリアンズ・サミット」という集まりを開いたことがあります。七十歳以上の高齢会員が一堂に会して、ロータリーや人生についておおいに語ってもらおうというのが、会の目的でした。高齢会員の方々の日ごろ聞かれないような活発なご意見が続出して、大へん盛会ではありましたけれども、残念なことに会は三回で中止になりました。会が長く続かなかった原因を考えてみますと、ホスト・クラブに対して集まった高齢会員の報い方がすこし足りなかったこともその一つではなかったかと思っています。

孔子は「論語」のなかで「孝」を説いていますけれども、「孝」といいますのは、なにも子供が親に尽くすだけのものではありません。親も「孝」を実行する子供に対して「応える」ことが大切です。行動で応えることができなくても、「色(しき)」であらわさなければいけないのです。それがなかなか難しいのでしょう。「色難し」です。私は、「孝」はレシプロカル(相互的)なものと思いますが、どうでしょう。

ロータリー・クラブの運営にも、「色難し」の思いが必要なのかもしれません。(Q)

明けましておめでとうございます。本年もどうぞ宜しく。御用始の日に、大石屋に成金饅頭を買いに行きましたら、今年は注文が殺到してとても裁ききれないといっていました。ワールドワイドのパニックで、金と名のつくものには、人気が集まるのでしょう。さて、相変わらずの「論語」に、あと半年お付き合いください。

「その9」の題は「固(コ)ならず」でしたが、今回は「器(キ)ならず」です。どちらも「君子は」に続いた言葉ですが、「君子」は「紳士」でも「ロータリアン」でも宜しい。孔子がロータリアンのありようについて述べた言葉だと思ってください。「器」とは入れ物のことです。「器ならず」とは「器じゃない」ということですが、ここでは現代風に「器じゃ駄目だ」と読んで頂きたい。「ロータリアンよ、器じゃ駄目だ」とはどんなことでしょうか。この小文を読んで下さい。

倉敷の大原美術館をご存知ない方は、いらっしゃらないでしょう。いまでこそ、年間二百万人近い観光客で賑わっていますけれども、美術館が開館した昭和六年ころは訪れる人もなくて、大原孫三郎は自宅の窓から、川向こうにある美術館を毎日眺めながら「みんなに絵の勉強をさせてやろうと思うたのに、今日も誰も来んなあ」といって、入場者のないことを嘆いていたそうです。

大原美術館を創った大原孫三郎は、明治十三年(1880)いまの倉敷市に、土地の素封家の長男として生まれました。十五歳で上京、東京専門学校(今の早稲田大学)に入りました。もともと学問のために上京したのではなく、いうなれば世間を知り交友を広めるのが目的だったものですから、大学は中途退学、東京で遊蕩三昧にふけりました。遊ぶのもよく遊びましたが、東京のスラム街に足を運んだり、足尾銅山の鉱毒問題に関心を持って、友人と二人で足尾まで出かけて行ったりしました。わずか一年足らずの東京生活でしたが、なんとこの間に孫三郎は一万五千円の借金を作ったそうです。そのころ総理大臣の年俸が一万円だったそうですから、之がいかに大きな借金だったかお分かりでしょう。しかもわずか十五歳の少年がですよ。これにはさすがに孫三郎の父親も激怒しました。孫三郎は上京後一年足らずで、倉敷に呼び戻されました。

もともと孫三郎上京の目的の一つは、秘匿友達をえることでしたが、短い在京でしたから東京では余り深い交流はできませんでした。しかしながら、余り深い付き合いもなかった森三郎という友人から、二宮尊徳の「報徳記」送ってきました。親友でもない森が、帰省した自分にこれほどまで気をつけていてくれたのかと、そのことが嬉しく、「報徳記」を熟読しました。孫三郎は後に商業学校で教えていますが、このとき尊徳の「報徳記」と福沢諭吉の「学問のすすめ」とを教材に使っています。

倉敷に帰ってからの孫三郎は、親戚の会社の債務整理をしたり、岡山県下の小作地を回ったりして毎日を過ごしていましたが、そんなある日、当時岡山孤児院長をしていた石井十次に会い、生涯にわたる大きな影響を受けることになりました。石井は、宮崎の出身でプロテスタントの牧師になった。一時岡山医学校(現岡山大学医学部)で学んだが,後に全国的規模の孤児救済事業に専念、孫三郎は一時石井が院長をしている岡山孤児院の基本金管理者を引き受けるなど、十次にとって生涯の物心両面にわたっての支援者となりました。

明治35年、孫三郎は倉敷紡績に入社、四年後の明治39年父幸四郎の後を継いで社長に就任しました。大原孫三郎のことをお話していますと、鐘紡の武藤山治のことを思い出さずにはおれません。武藤は孫三郎より13歳年上の19863年(慶応3年)生まれ、中上川彦次郎のすすめで三井に入社、鐘紡に移り、自ら職工といっしょに油にまみれて働き、鐘紡の実質上の創業者といわれた人です。武藤が徹底して進めたのは「温情主義経営」でした。武藤の「温情主義経営」については、私の「物語・職業奉仕」に詳しく書いてありますから、お読みください。孫三郎は武藤のやり方に批判的で、二人は深く交わることはありませんでしたけれども、経営者としての進み方を見ますと、全く相似たものがあります。

明治35年、孫三郎が倉敷紡績に入社してすぐに手をつけたのは、労働環境の改善でした。このころ、紡績工場の労働環境はひどいもので、女工たちは12時間労働を強いられ、大部屋で万年床に寝起きしていました。みなさんは「女工哀史」という本をご存知ですか。この本が細井和喜蔵によって改造社から出版されたのが大正15年。それより20年前に、孫三郎は「少人数のものが居心地よく睦まじく、家族的に寝起きできる」生活環境をつくりたいと考えたのです。そのとき作った「分散式寄宿舎」が、いま岡山の「チボリ公園」になっているところです。小学校教育を受けていない女子工員のために、教育施設をつくりました。寄宿舎には、診療所、病室も併設したのです。

武藤山治、大原孫三郎のいずれも労働者の生活環境の改善ということを、経営の第一に考えました。これは当時としてはとても考えられないことです。同じことは、いまの西日本工業倶楽部をつくった松本敬一郎にもいえますね。敬一郎が当時炭鉱の経営を引き受けて先ず最初に手をつけたのは、納屋制度の廃止です。これは敬一郎の命懸けの仕事でした。三人の仕事を調べますと、明治企業人の心意気が感じられます。私はこれこそロータリーでいう「職業奉仕」だと思います。何年か前私は、「ロータリーの外からロータリーを見る」という話をしたことがありますけれども、これもロータリーの職業奉仕は、なにもロータリーの言葉で話さなければならないような難しいものではないということを、いいたかったからです。

孫三郎は大正7年、「大原社会問題研究所」をつくりました。「救貧は防貧に如かず」というのが孫三郎の考えで、貧乏を防ぐ方法を研究するのには、政府に頼るより民間の研究所のほうがよいと考えたからです。孫三郎のこの考えは、技術の研究は政府に頼るべきではない、民間に委ねるべきだという安川敬一郎の思想に通じるものがあります。

やがて孫三郎は、倉紡の従業員を人間的に遇するには、労働環境の整備を先ずやるべきだとの考えから、社会問題研究所のなかに、生理学研究室、心理学研究四津、栄養研究室からなる「倉敷労働科学研究所」を設けました。それに付属して病院も作ったのです。是に先駆けて、孫三郎は自分の宅地、田畑をもとに「大原農業研究所」を開いています。「大原農業研究所」は現在「岡山大学農業生物研究所」、「大原社会問題研究所」は「法政大学大原社会問題研究所」、「倉敷労働科学研究所」は「労働科学研究所」として現在に到っています。労働科学研究所の付属病院は、現在の倉敷中央病院です。

孫三郎の最後の仕事は、大原美術館の設立でした。眉宇術間については、改めてゆっくりお話しましょう。孫三郎のすごいところは、これらの事業のほとんどを、私財を投じてやったことです。どの研究機関も利益は上がらないのですから、設立以後何回か経済的危機に見舞われたことがあります。その都度、孫三郎の援助によって切り抜けることができました。

今回の章句に移りましょう。

君子は器ならず。(為政第二―12)

いまの言葉になおしますと、「紳士は一つの器であってはいけない」です。「紳士」を「ロータリアン」と読み替えましょう。器とはある特定の一つの用途にだけ使う道具のことです。「ロータリアンよ、ただ一つの器だけになるな」というのです。器も必要ですけれども、それ以上のものになれというのです。日本語では、多くの人がいろいろ意訳しています。「諸君は機械になってもらっては困る」「立派な人間は、けっして単なる専門家ではいけない」など、これを見ますと、なんとなしに意味が分かるような気がします。渋沢栄一は、ずばりと「君子は器物のごときものではない。器物を使う人である」と解釈しています。序ながら、一つの英訳本では「A gentleman does not behave as an implement.」とあります。これを日本語にすると「器として行動しない」 ですから、むしろ英訳文のほうが分かりやすいですね。  

20万トンのタンカーは、重油を運ぶのには役に立つけれども、タンカーで柳川の川下りはできない。川下りのドンコ舟で、原油は運べない。君子は、20万トンの原油も運べるし、川下りもできる人でもなくてはいけない、というのです。ロータリーのガバナーも、“does not behave as an implement”の人でなくてはいけないということでしょう。(Q)

私の家の二・三軒さきに、徳泉寺という真言宗のお寺があります。毎年節分には、そこに詣って豆を拾います。ご院家さんの説教を聴いた後、「立春大吉」と書いた色紙を頂きます。昔は、クラブに厄年の会員がいたら、厄除けのお守りを貰ってきて、お祝いをしたものですが、最近はそんな集まりも少なくなりましたね。寒い日が続きますが、春はもうそこまで来ています。

春立つや障子へだてしうけこたえ  万太郎

あるクラブを訪問したとき、そこの若い会員の方が、「ロータリー・クラブは、会費が高いですね。どうにかなりませんか。」といいました。私、「それは、いくらでも安くする方法はありますよ」。若い会員、「どんな方法がありますか?」。私、「例会場は、公民館を借りる。昼食は、インスタント・ラーメン。週報は、パソコンで打って、会報委員がコピーして配る。事務局を止める。これだと経費節減で、会費も随分やすくなりますよ」。若い会員「いや。それは駄目です。やっぱり、会場はホテル。料理は美味しい西洋料理。会報作りのような面倒なことは、専属の事務職員がいなくてはね。」私、「だったら、会費は高くなりますね。デラックスな会場で、しばしリッチな雰囲気に浸り、うまいものを食べる。面倒なクラブの仕事は、人任せ。それじゃあ、その分だけ懐を痛めなければね」。

ということになりましたが、ラーメンはいやでムニエルのほうがいいというのなら、会費が高くなるのはやむを得ますまい。しかし、ロータリーの会費が高いなと思うのは、この若い会員だけではありませんで、私も会費がもっと安くならないものかと思う一人です。ただし、会費をもっとうんと安くしたのがいいか、もっと高いほうがいいのか、これにはいろいろと議論の余地があって、安いほうがいいとは一概にいえません。

また、同じクラブのNさんが、「ロータリーの会費は、高い。高い。」といいます。「高いといったって、月割りにしたら、2万円くらいじゃない。月に4回食事付だから、それくらいはかかるだろう。」と、私。「2万円ということはない。その3、4倍はかかる。」「そりゃー、他になんかやったんだろう。」「この間、韓国の姉妹クラブにいったら、その旅費を取られた。親睦ゴルフ会もある。夜間例会の後、飲みに行った。」「それは、自分が楽しんだのだから、お金はいるさ。」

遊びにはお金がかかります。私はロータリーは遊びだと思っています。遊びにしては、ロータリーはお金のかからないものですね。遊びだから、もっと会費を高くせよという考えもあるのですがね。

「論語 里仁篇」に次の章句があります。

子曰わく、士、道に志(こころざ)して、悪衣悪食を恥ずるものは、未だ与(とも)に議(はか)るに足(た)らざるなり。
                       (里仁第四-9)

章句の意味は難しいものではありませんから、このままでもお分かりでしょうが、一応いまの言葉になおしておきます。

先生がいわれた。

いやしくも一人前の男が、着るものや食い物に見栄を張るようでは、話にならぬ。

どうでしょう。ちょっと云い過ぎですかね。

すこし古い資料ですけれども、文化人類学者の綾部恒雄という方が、アメリカでロータリー・クラブのことを調べています。それによりますと、入会金が22ドル、年会費50ドルだそうです。随分昔のことだろうと思いましたら、1970年頃のことで、同じ頃の私たちのクラブの入会金は二万円、年会費が七万二千円でした。第2700地区59クラブのうち、60パーセントは1969年から1980年の間に創立したのだそうですから、この金額は、似たようなものでしょうか。当時、1ドルが幾らくらいしたでしょうか。250円くらいかなと思って調べてもらいましたら、1ドル316円だったそうです。その頃ポール・ハリス・フェローになった先輩会員が、「俺たちは、いまのポール・ハリス・フェローと格が違う」といって威張るのも、無理ありませんね。それにしても、日本の会費は高いです。

いまは昔と違って、毎日美味しいものをたっぷり食べているのだから、「せめて例会のときくらいは、粗食にしようではないか」という会員がいても、よさそうな気がする。なにもそれで余った会費を社会奉仕に使おうなどと、みみっちく考えなくてもです。

昔は「百万ドルの食事」というのがありました。日ごろの例会よりご馳走が出るのかと思っていましたら、その反対で、粗末な食事をして、余ったお金を財団に寄付しようというのでした。この頃は聞きませんが、今でもやっていますかね。「会員一人1-0ドル寄付」というよりも、「百万ドルの食事」というほうが、同じ寄付集めでもソフトでなんとなく受け入れやすいではありませんか。近頃のロータリーは、なにかにつけて会員のこころを動かす術(すべ)が欠けているようですね。

話は飛びましたけれども、クラブに長くおりますと、何かサービスについて考えようではないかという気持ちになるものです。奉仕活動もその一つです。このサービスにはお金がかかります。「ロータリー財団は資金量が多いからもう集めなくてもいいではないか」という会員の方がありますけれども、お金は多いほど宜しい。クラブにしてもそうです。ですから皆さんもうんとニコボックスして下さい。クラブの活動資金が多ければ多いほど、会員はそれを誇りに思いますし、安心して奉仕プロジエクトを考えることができますからね。

美食をけなしておきながら、食べ物のことをいうのは気が引けますが、「大手饅頭」というのがあります。このあたりでは岡山の大手饅頭が有名ですけれども、新潟県の長岡にも同じ名前の大手饅頭があります。どちらの饅頭も、岡山は岡山城の長岡は長岡城の大手門前に店があったので、大手饅頭と呼ばれるようになったものです。岡山の大手饅頭は、内田百閒の大好物で、昔は木で作った「せいろ」に饅頭が並べてありましたけれども、いまは紙箱に入っているものしかありません。長岡の大手饅頭の宣伝に、「堆朱の菓子器に盛って頂くと、一段と美味」と書いてあります。朱塗の器はありますけれども、堆朱の菓子器はないものですから、先ず堆朱の菓子器を買ってきて、それから大手饅頭を頂こうということになりました。お菓子でもお酒でも、美味しさの半分は器ですからね。なるほど宣伝の文句にあった通り、堆朱の器に淡白な大手饅頭はよく合います。暫し私も長岡の殿様になった気持ちで、酒饅頭を頂きました。

大手饅頭のことを書いたのは、別に饅頭のことを書こうと思ったからではありませんので、堆朱の宣伝のことをいいたかったからです。堆朱は長丘地方の特産品なのですね。私は仙台の堆朱のことは知っていましたが、長岡の特産だとは知りませんでした。仙台と長岡とは近いですから、同じ特産品があってもおかしくはありません。お菓子を買おうと思って、つい菓子器まで買ってしまう。人によっては、堆朱の銘々皿と茶托も一緒に注文するかも知れません。テレビの騒音と騒動だけのコマーシャルに辟易しているものにとっては、なかなか魅力的な宣伝です。

ロータリーの広報にせよ、情報伝達にせよ、こうありたいものです。伝えたいものは何か、何を伝えなければいけないか、どう伝えるのがいちばん効果的か、伝えてマイナス効果はないかなど、十分に考えなければいけませんね。伝え方も一つの文化です。それを考えながらやらないと、正確に伝えたつもりでも、間違って伝わっていることがあります。

饅頭のことを書きながら、また脱線してしまいました。

孔子は「食い物の見栄を張るようでは、話にならぬ」とはいっていますけれども、「論語」の中には孔子の食の好みも出てきます。

子曰わく、君子は食飽かんことを求むるなく、居安からんことを求むるなく、事に敏にして言に慎み、有道に就きて正す。学を好むと謂うべきなり。(学而第一―14)

 食(いい)は精(しらげ)を厭わず、膾(なます)は細きを厭わず。食の饐(い)して餲(あい)せると、魚の餒(あざ)れて肉の負(やぶ)れたるは食らわず。色の悪しきは食わず。嗅いの悪しきは食わず。飪(じん)を失えるは食わず。時ならざるは食わず。割目(きりめ)正しからざれば食わず。その醤(しょう)を得ざれば食わず。肉は多しと雖も、食の気に勝たしめず。唯酒は量なく、乱に及ばず。沽酒(こしゅ)と市脯(しほ)は食らわず。薑(をはじかみ)捨てずして食らう、多くは食らわず。(郷党第十―8)

孔子の食生活が目の前に浮かんでくるようです。は白米。饐して餲すはご飯がすえて味がかわること、餒れはくさった、醤を得ずはだし汁がないこと。沽酒は自家製の酒。市脯は市販の酒のつまみ。

はしょうが。

孔子は、腹八分目。白米が好き。なますは細かく刻んだものをこのむ。すえた飯や、魚の腐ったのは、食べなかった。煮加減がわるいものや、季節はずれのものは、食べない。包丁目がきちんとしていなければ、食べない。だし汁がないと、たべない。肉はいくら沢山あっても、飯の量を超して食べることはない。酒量は決まってないが、乱れるまで飲まない。自家製の酒いがいは、市販の酒肴は決して摂らない。つまみの生姜は食べたが、少しだけだ。

これが、孔子の食生活です。賞味期限は、ちゃんと守られていますね。(Q)

このあいだ、クリールというアメリカの東洋学者が書いた、孔子の伝記を読んでいましたら、ポール・ハリスと孔子とが重なってくるのです。いままで孔子の伝記を読んでもこんなことを考えたことはなかったのですがね。クリールはシカゴ大学の教授だつたそうですから、なにか引っかかるものがあったのかも知れません。

孔子は放浪の旅を続けたとのことですし、ハリスも皆さんご存知のように、放浪の果てにシカゴに住みつきました。孔子は、仁と恕とを説き、ハリスは職業奉仕と寛容とのクラブを創立しました。「論語でロータリー」というのを書いたのも、両者になにか共通点があるのを、無意識に感じ取ったからかも知れません。

たまたま二週間ばかり前、私の地域のIM(Intercity Meeting)がありました。この「論語でロータリー」というシリーズもそうですが、そのIMでも多分強く反対する会員の方がいらっしゃるだろうという内容を、いくつか話しました。今のところまだ反論は頂いてはいませんけれども、どうもロータリーでは「ロータリー原理主義」のようなものがあって、ドグマチズムこそロータリーであって、議論の余地はないというようなところがありますね。ポール・ハリスは「教条主義ロータリーは駄目だ」といっているのですから、ロータリーの在りようも、もっと自由に検討していいのだと思います。それにしても、ハリスという人は面白い人ですね。

A会員 ポール・ハリスは、どうしてシカゴなどで弁護士を始めたのでしょうね。

B会員 私も、そのことを疑問に思っています。今のシカゴは、ミュージカルのシカゴじゃあないけれど、大都会です。だけど、一九○○年台初めのシカゴといえば、貧困とギャングの町。ヨーロッパから沢山の移民が入ってきて、ワーキング・プアーが生まれたところです。なにしろ、ジエーン・アダムスが世界で最初のセツルメント『ハル・ハウス』を作ったのが、シカゴですからね。まさかハリスが、後のシカゴの繁栄を予見したから、ここで開業したのでもありますまい。

A ハリスという人は、分からないところが多いですね。お父さんが

事業に失敗して、派手好みのお母さんと別居、弟はお父さんと一緒に暮らしますが、ハリスだけニューイングランドにいるお祖父さんに育てられる。しかも、そのお祖父さんが大変厳しい人で、ニューイングランド気質そのもの。お祖母さんは、それに反して小言など一言もいう人ではなかった。お祖父さんは、息子を好きなようにさせて失敗しているものですから、孫のハリスに同じ失敗を繰り返させまいと思って、大変厳しく育てた。

B ウオリングフォードでの生活は、ハリスにとって楽しくはなかったでしょう。だから大学に入って家を離れてからは、ろくに勉強していませんね。ハリスが弁護士になるための勉強を真剣に始めたのは、お祖父さんとお祖母さんとが亡くなった後ですよ。

A ハリスは大學を卒業して、アメリカ国内を旅行してまわりますね。この途中シカゴを訪ねて、ここで弁護士をやるんだと決心したということになっています。お金がないものですから、古机などを集めてきて、とにかく弁護士事務所の体裁だけは整いました。あの頃アメリカ合衆国の商法改正があって、商取引などに、弁護士の介入が必要になりました。そのことがあったから、ポールもどうにか弁護士で食っていけるようになったのです。商法改正がなかったら、夜逃げでもしていたかも分かりませんね。

B ハリスは、都会で友達もなく寂しいのと、何とか依頼人が増えて欲しいという思いで、人を集めたいと思った。これがロータリーの創立に結びついたということになっています。それは事実でしょうね。ハリスが後年日本を訪問したとき、日本のロータリアンがハリスに、『ロータリーをお創りになった動機はなんですか』と尋ねています。ハリスは『寂しかったから』といったそうです。本当に寂しかったのでしょうね。

A 孤独な都会生活のなかで、友達を集めたいと思って、それをハリスは実践に移した。写真を見ると、ハリスは痩せ型で一見シャイな感じです。そんな行動性などなさそうですがね。

B ハリスは、分裂型の気質ではないでしょうか。こうだと思い込んだら、案外実行力がある。ハリスは、世界大会の途中などに突然姿を消していなくなったことがあるそうです。こんなところは、やはり分裂型かな。いずれにしても、ヒステリー気質や偏執気質の傾向がなかったから幸いでした。そういう傾向があったり、親分になりたい目立ちたがり屋だったら、ロータリーは出来なかったでしょうし、できても長続きしなかったに違いありません。ハリスは会長もあまりやりたくなかった。自己顕示性はなかったのです。

A 話は変わりますが、ロータリーの綱領にも随分変遷がありますね。よく、ロータリーの原点に帰ろうといいますけれども、どこまで帰ればいいものか。

B いちばんの原点といえば、商売でお互いに助け合って儲けようというのでしょう。いろんな倫理訓や奉仕の哲学などは、組織が整備されるにつれて、出来上がったものでしょう。ロータリーについて書いたものを読んでみますと、時代によって随分違ってきています。手続要覧だってそうでしょう。それらは全て、時代の要請に沿って書かれたもので、その内容は、その時代思潮の表れでもあるのですね。だから、『これはこう書いてあるけれども、昔はこうだった。だから今のこの考えは間違っている』と言う論調が時々見られますが、あれは間違いですね。もっとその時代とロータリーの関り方とをみなければいけないと思います。

A こうやって話していると、ロータリーのことを知ろうと思っても、ただ本を読むだけでは駄目だ、いろんな話を聞きながら、読んだことについて深く考えなければいけませんね。

B 全く同感です。それと同じことを三千年まえ、孔子が『学びて思わざれば則ち罔(くら)し』と、いっていますよね。ロータリーも、印刷物を読んだり、会員の話を聞いたり、自分で考えたり、そうしながら時間が経つと、やっと楽しむことが出来るというものです。ただ漫然と例会に出て、昼飯を食べているだけでは、高い会費が勿体ないというものでしょう。

「論語 為政編」に次の章句があります。

子曰わく、学びて思わざれば則ち罔(くら)し。思いて学ばざれば則ち殆(あや)うし。(為政第二―15)

いまの言葉になおします。

教わったり、本を読んだりするだけで、自分では考えることがないと、習ったことの本当の意味は分からない。逆に、頭の中で考えるだけで、人の話を聞いたり、本を読んだりしないと、独りよがりの間違いを犯す。

なんでも鵜呑みにしてはいけない、情報は正しく受け入れて、独りよがりにならないようにと、いうアドバイスです。ロータリーも創立から百年経ちますと、会員は百年間に溜まった膨大な情報に振り回されます。多くの情報が整理されて、ロータリーとは何か、創立者はこんな人だ、ロータリーを支えた人たち、発展の歴史はこうだ、などのテーマで纏められたものを、私たちは受け入れているのです。これは、「ロータリー神話」といってもいいかも知れません。組織ができて百年も経ちますと、創立神話が必要になってくるのです。

但し、創立神話は神話として大切にしなければなりませんけれども、神話はあくまで神話なのです。それを事実と間違えてはいけません。例えていいますと、日本書紀という本があります。日本の歴史を調べようと思って、日本書紀を読んだ人が、これが日本の歴史だと思い込んだとします。それがとんでもない間違いだったことは、皆さんご承知の通りです。ロータリーでも同じことがいえると思いますね。

このあいだの地区協議会では、WCS委員会の見事なDVDを拝見しました。聞きますと、委員長の行橋みやこクラブの田中会員が、ほとんどお一人で、編集から録音・ナレーションまでなさったそうです。松本ガバナーのフィリッピン訪問など、WCSの活動状況が実によく収録されていました。そのWCS委員会で、昔こんなことがありました。R財団には、マッチング・グランド(同額補助金)というのがあります。WCSのために出来たといっても過言ではありません。ある年のロータリー研究会で、2700地区の同額補助の申請が極めて少ないがどうしたのかと聞かれました。地区に帰って委員会に聞いてみますと、日本からの同額補助申請は遠慮してくれとRIから指示されたというのです。R財団にそんなことをいったのかと聞きますと、いってないというのです。なお調べてみますと、同額補助は途上国向けに申請するのはいいが、先進国に使うのは遠慮してもらいたいとのことでした。同額補助金を先進国では使ってくれるなというのが、いつの間にか「日本からの申請は駄目だ」と言うことになったのです。地区の思い込みが間違いのもとでした。これも、思い込んで学ばなかった(調べなかった)ために起こった間違いだったのです。「思いて学ばざれば則ちあやうし」の一例です。クラブや地区委員会では、起こり得る間違いでしょう。(Q)

いつだったかの地区協議会で、「ロータリーには、四つの奉仕部門があるが、職業奉仕を除いたがいいと思う」と発言しましたら、かなり大勢の方が賛成でした。職業奉仕を、社会奉仕、国際奉仕、クラブ奉仕と一緒に並べて、四大奉仕と呼ぶことに抵抗を感じている会員も多いということですね。欧米では「四」と言う数字が好きです。「四大奉仕」「四つのテスト」「ロータリー綱領四ヶ条」みな「四」です。なにも四つでなくてもいいのですけれどもね。ロータリーも三大奉仕でよかったのですが、四つにしたばかりに、四大奉仕といって、「職業奉仕」を入れなければ格好がつかなくなったわけです。ロータリーは「職業奉仕」の団体ですから、これはむしろ別格にして、会員がどんな奉仕活動を考える場合も、常に「職業奉仕」を念頭に置くべきです。四大奉仕などというところに並べるものですから、職業奉仕委員会でもなにか活動しなくてはいけないような気がして、やれ職業指導とか、優良従業員の表彰などという考えが浮かんでくるのです。

社会奉仕でも、国際奉仕でも、クラブ奉仕でも、本当はそれぞれ奉仕の基本にちゃんとした考えといいますか、基本となる哲学といってもいいかもしれないものがあって、それが「職業奉仕」なのですけれども、それに基づいて奉仕活動をやっているのですが、なにしろやることがどんどん拡大して広がっていくものですから、基本となる考えは少々おろそかになっても、奉仕活動さえ間違いなく実施されていさえすれば、それで問題は起こりません。

ところが、「職業奉仕」といいますのは、ロータリーという組織の、依って立つ基本理念なのです。例えば、日本の国は、天皇を「象徴」という曖昧なことばでごまかしてはいますけれども、正しくは「立憲君主国」で「民主主義」を国是としているというべきです。会社に社是があるのと同じです。それと同じように、「職業奉仕」というのは、ロータリーがよって立つ基本理念なのですから、「職業奉仕」を他の三つの奉仕と並べるのは、はじめから無理な話なのですね。私が、「職業奉仕はいらない」といいましたのも、他の三つの奉仕部門と並列するのは止めてしまえという意味で申しあげたので、なにも「職業奉仕が不要だ」とうことではありません。私の考えに賛成者が多かったのは、四つの奉仕部門を並列で論じるのに反対だと考える会員が、多かったからに他なりません。

ロータリーのPR用パンフレットには、いまから十数年前までは、「ロータリーは職業奉仕を理念とする団体である」と書いてありました。ところが1999年、時のRI会長C.ラビッツアさんのとき「ロータリーは国際奉仕の団体である」と変わりました。「これで、ロータリーは滅びた」という会員がいるくらい、この地区でも問題になりました。ところがラビッツアRI会長が書いたものをよく読んでみますと、職業奉仕を決して無視してはいません。よいロータリアンを保つ為には、ロータリーの会員が減少してもやむを得ないとまでいっているのです「よいロータリアン」とは、「職業奉仕」を自らの生活信条としている会員という意味です。ラビッツアといえばRI理事のとき、日本のロータリーが、セントルイス宣言を存続させようとするのを側面から援助した人です。物事はある一面だけを見て判断してはいけませんね。

「職業奉仕」を四大奉仕の一つなどとするものですから、理屈をこねるだけでなく、何か行動を起こせということになります。だから、実際に奉仕活動のプロジェクトとして、優良社員の表彰だとか青少年の職業相談をやらなくてはいけない、ということになるのです。決議23―34条には、職業奉仕はロータリーの哲学ではあるけれども、理屈だけでは駄目だ、行動しなければいけないと書いてあるものですから、青少年のために職業相談をするのが行動だ、と短絡します。するとまたやかましい会員がいて、「永年勤続表彰や職業相談は、社会奉仕だ。職業奉仕ではない。」といい出します。厳密にはそうでしょうし、そのような議論をするのも、ロータリーの楽しみの一つではありますけれども、あまりやかましくいわないで、いいことはおやりになるのがいいと思います。「職業奉仕」とは、職場例会が職業奉仕委員会の計画だなどと、一々職業奉仕委員会が、持ち出すものではなく、常に会員のこころのなかにあるものですから、殊更になんの行事をやらなくても、それでいいではありませんか。

よく、「ロータリーの原点 ― 職業奉仕」などという文を見かけることがありますけれども、ロータリーの原点は「クラブ会員の利益の増大」で、「職業奉仕」というのは、会員が考えに考えて到達した究極の思想と言ってもよいものです。しかしよく考えてみますと、会員の事業の安定なくして、「職業奉仕」もなにもありません。

もう十年以上まえになりましょうか。「職業奉仕は、クラブの責任である」といわれて、一騒動起こったことがあります。これも職業奉仕についての理解やPRをクラブの責任で進めて下さいということで、至極当然のことですが、職業奉仕は個人の問題で、クラブに責任を持てとは何事かという議論になったのでした。

「論語 里仁篇」に次の章句があります。

子曰わく、参(しん)よ、吾が道は一(いつ)以てこれを貫く。曾子曰わく、唯(い)。子出ず。門人問いて曰わく、何の謂(いい)ぞや。曽子曰わく。夫子の道は忠恕のみ。(里仁第四―15)

孔子と孔子の弟子曽参、曽参と門人との問答です。先ず、いまの言葉に直しましょう。

ある時孔子が、曽参はじめ門人たちのいる部屋で、こういった。

「参よ、私の道はただ一つのことで貫かれている。」

曽参が、うやうやしく答えた。

「おっしゃる通りでございます。」

孔子は、満足げに頷いた。やがて孔子は部屋を出て行った。部屋にいた弟子たちは、二人の短い問答を聞いて、何のことか分からない。ある門人が、曽参に尋ねた。

「大先生がおっしゃったのは、どういう意味なのですか。」

それに対して、曽参は次のように答えた。

「先生の道は、忠恕、つまり『まごころ』と『おもいやり』とで貫かれているということだよ。」

「忠」は「おのれのまごころ」「恕」は「他人に対するおもいいやり」です。孔子は、人を見て法を説けという言葉をそのまま行った人で、「論語」を読んでみますと、同じ質問をしているのに、違う弟子に全く反対と思われるような答えをしていることがありますから、戸惑う弟子もあったはずですね。曽参は孔子の高弟で、孝経を書いたといわれている人ですから、孔子のいうことは、ツーカーで伝わった人ひとです。その弟子と孔子との短い問答が、他の門人たちに通じなかったのです。

「一」とは「忠恕」です。「まごころ」と「おもいやり」です。ロータリーでは,よく「寛容」といいます。そして、この間も職業奉仕カウンセラーの佃さんが、「ロータリーは寛容のこころ。即ち『恕』だといっておられましたが、その「恕」です。「自分はこれまでいろんなことを、やったり、いったりしてきたけれども、一貫しているのは唯一つ、『恕』であるぞ。」というのが、孔子のいいたかったことです。曾参は孔子お気に入りのでしですから、孔子のことは、チンといえばカンと応えるくらいよく分かります。それとこんな問答になりました。ロータリー・クラブにも、ロータリーのことならなんでもというベテラン会員がいるでしょう。新会員は、ただベテラン会員の話を黙って聞いているだけでなく、分からないことは、積極的にどんどん聞いてください。

会員A「ロータリーの道は、ただ一つで貫かれている。」

会員B「その通りだ。」

新会員「『ただ一つの道』とは、一体何ですか?」

会員A「職業奉仕の道だ。」

と、こういう問答だと、簡潔にして明快ではないですか。

但し一言付け加えておきますけれども、「一以って貫く」というのは、「原理主義」ではありません。現実の変化を見ようとはしないで、古い考えに固執すると、イスラムの原理主義になります。にほんのロータリーにも、原理主義めいた考えがないとはいえません。孔子の「一以って貫く」というのは、きわめて柔軟な行動原理なのです。

ポール・ハリスも「教条主義は駄目だ」といっているではありまあせんか。(Q)

最近のクラブには、「ロタキチ」といわれる会員がいなくなりましたね。何処のクラブでもそうではないでしょうか。「ロタキチ」とはロータリー気違いのことです。ロータリーに熱心で、その熱心さがときに度を越している。陰では、「あの人は、ロータリーに洗脳されてしまっているんじゃないか」といわれている会員です。幾分揶揄気味に使われてはいますけれども、ロータリーを支えているのは、この方々ではないかと思います。

なんの集まりでもそうですが、熱心な人が二割、不熱心で無関心な人が二割、あとの六割は、熱心でもなく不熱心でもない、いわれるままに時に熱心になり、時には無関心です。それでいいと思います。ロータリーも同じです。これが、全員熱心だったら、クラブはパンクするでしょうし、全員不熱心なら成り立ちません。

クラブの楽しみ様も様々ですね。折角高い会費を払って入っているのですから、かにか楽しみの一つはありませんとね。何十年間も百パーセント出席などという会員も沢山いらっしゃいますけれども、それが楽しみなのでしょうから、傍からみるほど出席が苦痛ではないのでしょう。私なぞは、出席100パーセントが続きますと、なんだか休まなくてはいけないような気になって、つい例会を欠席します。別に悪気があって、休むわけではありません。

日本のロータリーは出席率がいいのだそうです。どこのクラブに行ったときでしたか、「××について、どう思いますか」と聞かれました。「××って、なんのことですか」と聞き返しますと、例会場の受付で、名前だけ書いて帰ることだそうです。「だったら、ビジター・フィーがはいって、クラブは潤うではありませんか」といいますと、ビジター・フィーは払わない、会員によっては、車に乗っていて、運転手さんが代わりに署名しにやって来るのだそうです。こうなりますと、出席率などという数字そのものも、当てにならないということになりますね。

雍也篇に次のような章句があります。

子曰わく、これを知る者はこれを好む者に如(し)かず、これを好む者はこれを楽しむ者に如(し)かず。(雍也第六―20)

読んでその通りの文章。今更いまの言葉になおすこともありませんが、桑原武夫の解釈はなかなかすっきりしていて、好きです。ここでその解釈を説明しておきましょう。

「知る」「好む」「楽しむ」というのは、対象に対する主体の関わり方だというのです。「知る」は、客体の認識の程度、「好む」は客体に対する関心の深さ、そして「楽しむ」は、客体と一体化してはじめて達成できます。いきなり客体と一体化して、楽しむ境地にはなれません。やはり物事を先ず知って、好きになり、やがて楽しむ境地に到るというのが、普通の道でしょう

これはなにも学問だけに限ることはありません。ロータリーだってそうです。人の心のうちは分かりませんから、見たままを申します。私の周りを見回しましても、ロータリーを知っていると自負している人には事欠きません。ロータリーを知ることにおいて、この地区ではなんといっても先ず第一に、福岡東クラブの松田尊文さんを挙げなければなりません。松田さんが1995-’96年度地区ガバナーだったことは、すでにご存知の通りです。歴代ガバナーのなかでも、松田さんだけはご存知ない方は、いらっしゃらないでしょう。

松田さんは、ロータリーについての知識が豊富なものですから、この間も、ロータリーの話を始めると、時間の観念がなくなって、私がもうそのあたりで話を止めて下さいとお願いしても、終わりません。次から次へと、ロータリーに関する情報が頭の中に湧いてくるのです。しかも、その情報たるや、ロータリーのガイド・ブックに書いてあるような、会員なら誰でも知っているような単純なものではありません。古い歴史的な事柄から、最新の情報までちゃんと頭の中にいれておられるようです。私などは日本語に翻訳された情報をよむだけですけれども、松田さんは恐らくRIで発行された資料を、原文で読んでおられるにちがいありません。それも私どもと違って、広く全ての情報に通じておられますから、読み方が深いのです。近頃は諮問委員会でも余り発言されませんけれども、松田さんが坐っておられるだけで、情報に関しては松田さんがいらっしゃるから大丈夫だ、という安心感があります。

久留米中央クラブの川村謙二さんは、ガバナー・ノミニーの指名を受けますと、「これを読め」といって、「ガバナーとガバナー夫人の心得」というパンフレットを渡して下さいます。あの歌舞伎役者が大目見得をきったときのような、ギョロリとした大きな目で睨み付けるようにして本を渡されるのですから、そのインパクトたるや絶大です。

ロータリーを「知る」人は、総じてロータリーを「好む」人でもあります。八幡南クラブの永田卓也さんは、ロータリー全般に渉って明快な永田理論をお持ちです。永田さんの考えは、独断でなく、平易で実際的で、極めて常識的、ポール・ハリスが嫌う教条主義的なところが全くありません。忙しい方で、仕事の合間のロータリーですけれども、それが本当のロータリーと思います。いささか褒め過ぎの感が無いではありませんが、永田さんのロータリー話を聞きますと、水のような感じがします。「淡きこと水の如し」とか、「知者は水を好み、仁者は山を好む」という言葉があります。永田さんはまだ仁者の域には達してはいませんけれど、長身痩躯で話すロータリー談は、人の心を引きつけますね。これもロータリーを知る一つの型といってよいでしょう。

ロータリーが「好き」で、よく「知って」いるのは、なんといっても福岡城西クラブの塩谷雅人さんです。塩谷さんは体調をくずされて、いまは会合にもあまり出てこられませんが、ロータリー好きで知識も豊富、奉仕の実践家でもあります。松本ガバナーの年度には、ご高齢にもかかわらず地区副幹事をなさっておられます。R財団や、米山奨学会、交換学生などは、若者たちを何年にも渉って世話しなければならないので、長期のプログラムが必要です。ロータリーの役職は、一年交代ということになってはいますけれども、ロータリーについての広範な知識と周到な準備、さらにはプロジエクトの耐えざるフォローが要求されます。十分な実績を挙げるためには、委員の方にはご迷惑だとは思いますが、長期留任もやむを得ないでしょう。

私はしばらく、地区RYLA委員会に所属していました。この委員会は、ロータリーが「好き」ではないと、できませんね。RYLAでは随分勉強させて貰いました。委員を代表して豊前西クラブの織田一嘉さんと小倉南クラブの松嶋和久さんの二人を挙げます。織田さんは、この地区のRYLAの生みの親である新家忠雄PGから直接指導を受けた方で、今はもう地区委員はおやりになってはいませんけれども、委員に負けず活躍なさっています。松嶋さんは、見るからに活動的な会員。あれだけ公私とも忙しいのに、よくRYLAのことがやれるなと思います。仕事に忙しい人ほどロータリーに熱心だとよくいわれますが、松嶋さんはまさにその典型ですね。

ロータリーを「知る者」や「好む者」は沢山いらっしゃいますけれども、ロータリーを「楽しむ者」となると、ご本人はどうお考えか

知りませんが、なんといいましても福岡南クラブの大屋綺麗之助さんでしょう。ロータリーのことを知っているかというと、どうもそうだとはいえますまい。ではロータリーを好むかといいますと、どうでしょか。好きで好きでたまらないとはいえますまい。ロータリーの「知識度」と「愛好度」では評価は低いかも知れませんが、「楽しみ度」はどうかといいますなら、大屋さんでしょう。私の見るところ、大屋さんはもともと、あまり熱心なロータリアンではなかったと思います。恐らくガバナー・ノミニーに指名されてから、急にロータリーの知識を吸収されたと思います。大屋年度のPETSで、ガバナー・エレクト講演のテーマは、三隅不二夫のグループ・ダイナミックスについてでしたが、これには集まった会長エレクトも戸惑ったのではないでしょうか。大家さんご自身は、ロータリー・クラブの組織論を展開したつもりだったのでしょうが、聞く人は驚いたに違いありません。ガバナーを終えてからの大屋さんは、ロータリーの会合にまめに出席されます。会社の役職を退かれて余裕が出来たからでもありましょうが、その様子を見ておりますと、「楽しむ者」という以外に書きようがありません。

同じロータリーについて、「知る者」、「好む者」、そして「楽しむ者」と違いができるのは、夫々にロータリーと関る人のパーソナリティによるのですし、その人の生き方― way of life ―の問題でもあります。パーソナリティは、日本語では人格とか性格とか訳されていますが、どうもぴったりしません。私は、そのままパーソナリティと言う言葉を使っています。ロータリーを知る、好むにせよ、楽しむにせよ、どれが良いとか駄目だとか、どれが立派だとか価値が高いとかの差はないので、何処が違うかといいますと、ロータリーを受け入れる、その受け入れ方が違うというだけのことです。(Q)

この間、亡くなったある先輩についての本を作ろうと思って、ある出版社の編集担当者に会いました。その人が初対面のはじめから、「このころは活字離れがひどいですからね。ちょっと厚い本だと、もう最初から読まなくて、本を棚の上にしまってしまうのですよ。」といいます。本を読む人が少ないということは、知っていました。何年か前ロータリーのことを書いて、会員に差し上げたときも、百人に一人くらいは読んでくださるかなと思いながらお配りしました。百人に一人といえば1パーセントです。実際には読んでくださる方は、もっと少ないに違いありません。だから初対面の出版社が、「活字離れですよ」というのも無理はないのです。出版社がそういうものですから、この先輩についての本は、絵本風につくって、ページを薄くすることにしたらどうだろうといいますと、それがよかろうということになりました。

この論語シリーズも、どうせ読む人などいないだろうが、クラブのホーム・ページを毎月更新したいから、月に一回なにか原稿を書けといわれて、平成19年の10月から始めたものです。もし、読んでくださる会員がいらっしゃったら、それこそお礼になにかご馳走でもしたいくらいです。翌平成20年いっぱいで止めようと思っていましたけれども、ロータリー年度では12月というのは中途半端な月ですから、6月まで続けることにしたのです。それでホーム・ページのほうは埋まったのですが、その分だけ、私は誰も読まない原稿を打たねばならなかったわけです。

何回か書いてみて、文章が少し長すぎたかな、もう少し短くしたほうが、読む人は多くなるのではなかろうかとも思いました。長すぎたので、読む方が少なかったという理屈は、成り立ちます。昔N新聞に週一回、二年間ばかりエッセーを書いたことがありますが、そのとき担当記者のKさんから、「原稿は800字以内に書いてくださいよ。どんなに名文でも、それ以上長いと読む人はいませんから」といわれたことがあります。もう随分前のことですが、いまはその頃よりも、もっと活字離れがひどくなっているに違いありません。

読む人がいないと思いながら書き続けるというのも、これまた苦労です。もう10年以上前、ガバナーを仰せつかったとき、月信をどんな風に作るかということになりました。その頃の月信は分厚いもので、二、三十ページくらいあったのではないでしょうか。「月信を読む会員などいない」と言うのが通説になっていましたから、私は「月信を止めるか、希望者だけに配ったら」といいましたら、「駄目だ」というので、「じゃあ、出来るだけ内容を減らそう」と、頁数を思い切り減らして8ページにしました。そのため、内容を随分きりつめました。頁には空欄を作らないようにして、レイアウトをあれこれ考えました。

頁数を減らしたことは、Mパスト・ガバナーに「頁数を減らすことはない。月信代が高くついたって、必要なものはいるのだ。」といわれました。Oさんからは、「だいぶ、予算のことを考えてのことだな」といわれましたけれども、私はなにも予算の削減を考えて頁数を減らしたたわけでもなく、ただ原稿を沢山書くのと、記事の割り振りを考えるのとが、面倒くさかっただけのことです。福岡市内のあるクラブから、「頁の途中から新しい記事が始まっているので読みにくい」というクレームがつきましたけれども、一頁に一つの記事(主に文章ですが)だけしか掲載されていないというのも、変化に乏しくて味気ないものですし、余白が勿体無いので、このクレームは受け入れませんでした。最近は、予算削減とやらで、月信は8頁になってしまったようですね。

「論語でロータリー」を書いたからといって、ロータリアンよ道徳的になるために「論語」を学べといっているのではありません。ロータリーは遊びですから、「原点に返れ」とか「ロータリーの基本は職業奉仕だ」などと、声を大きくして叫ぶこともありません。論語とロータリーを対比させて議論するのも、ロータリーに入会していることの、楽しみの一つだからです。「論語を材料に議論」するのも、「亦々一楽」ではありませんか。

この間どこかの地区で、職業奉仕についての研究会があったときに、テキストに佐藤千寿さんと深川純一さんの「双鯉雁信帖」を使ったそうです。記録を読んでみますと、出席者のなかでこの本を読んでいた人は少なかったようですね。内容は、手紙文を編集したもので、とても分かりやすい文章なのですが、それでも読んだ会員は少なかったのです。

話は飛びますが、文芸春秋を創った小説家の菊池寛に、「短編の極北」というエッセーがあります。大正八年に書いたのですから、いまから90年前です。そのなかで菊池は、世の中がだんだん繁忙になり、ゆっくり小説を読む余裕のある人が少なくなった。その結果、読むのに五日も十日も罹るような長編小説は廃れて、短編が流行りだす。これも止むを得ないことだ、と書いています。活字離れは、すでに大正の中頃からあったのですね。

今回は最終回ですから、「論語 」最終の「堯曰(ギョウエツ)篇 第二十」の最後の章句を紹介します。

子曰わく、命を知らざれば、以って君子と為すことなきなり。礼を知らざれば、以って立つことなきなり。言を知らざれば、以って人を知ることなきなり。(堯白第二十―3 )

「論語」のテキストのなかには、この章句の欠けているものがあるそうですが、全編の最後の締めくくりの文章としても、なかなか含蓄のある言葉なので、書いておきます。いまの言葉になおして見ます。

先生がいわれた。「人間は、宇宙のなかの極めて小さい存在に過ぎない。先ずそれを知ることが、紳士になる第一歩だ。生きていくには、社会の規則をちゃんと守らなければいけない。相手の言葉を正しく理解し、自分の考えをちゃんと伝えられなければ、紳士として生きて行けない。

「論語」の「君子」は、英語の本では“gentleman”です。ここではそれを「紳士」としました。「ロータリアン」としてもいいでしょう。ロータリアンは、ただ自分の力量だけを認めるのではなく、宇宙の中の自分というような、いわば宗教的な思いをもつことも、紳士になるための条件だと思います。もっとも、これは私の考えで、「論語」は宗教を真向こうから肯定はしていませんけれど。人間が、「宇宙無限の中の我」だとか「死後の世界はどうなるか」というような宗教的な疑問を持つようになったのは、紀元前八百年頃だそうです。ドイツの哲学者ヤスパースは、紀元前八百年から紀元前二百年頃を「枢軸時代」と呼んでいます。地球の上に突然といってもいいように、宗教や哲学が生まれた時代です。釈迦、孔子、ツアラストラ、イザヤ、ソクラテス、プラトン、アリストテレスなど、皆この時代に生きた人たちです。現代は、いうなれば「数字時代」ですが、「論語」は「(天)命を知らなければ、君子ではない」と教えてくれます。

福沢諭吉は「文明論の概略」のなかで「文明とは、人の身を安楽にして心を高尚にするをいう」といっています。どうもいま私たちは、「身の安楽」ばかり追っていて、「心の高尚」のほうは、忘れているような気がします。「心の高尚」こそは、ロータリーが例会の出席とともに目指している「もの」ではないかと思います。

そんなことを考えながら、このシリーズを続けました。これまで長い間、戸畑東RCのホーム・ページにアクセス頂いた方々に感謝します。(Q)

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