物語 職業奉仕

1904年、米国のセントルイスで第17回万国博覧会が開催されました。米国で万国博覧会が開かれたのは、ニューヨーク、フィラデルフィヤ、シカゴについでこれが四回目です。

セントルイス万博を機に開催された世界学術会議に、マックス・ウエーバーはドイツを代表する社会学者として出席しました。ウエーバーの代表作『プロテスタンテイズムの倫理と資本主義の精神』は、その翌年の1905年に発表されるのですが、彼はその第一章を書くのを一時中断して、アメリカに向かって出発したのです。

この万博には、2000万人の人が訪れたといわれ、街はホテルの建設ラッシュで沸き立ちました。アイスクリーム・コーンやホットドッグ、アイス・テイーがはじめて売り出されて大好評を博したのも、この万博です。序でですが、セントルイス万博では第二回オリンピックが同時開催されました。当時のオリンピックはのんびりしたもので、13ケ国から681人が参加したのですが、なにしろヨーロッパから新大陸までは、大西洋を船で渡らなければいけないものですから、アメリカ以外ヨーロッパからの参加者はほとんどありません。水球の競技場は、前日まで放牧場の池で、牛が水飲場にしていたそうで、そこで試合をした選手たちは帰国後寄生虫病にかかって、多くの選手が亡くなったという悲惨な記事や、マラソン選手が競技の途中疲れて車に乗せてもらい、疲れが回復したので再び走り出してトップでゴールインしたというような、のどかな記録が残っています。

マックス・ウェーバーの訪米は、アメリカにおける彼のピューリタン研究にとって、またとないよい機会となりました。彼は出発前に、アメリカのプロテスタントについての資料をできるだけたくさん集めるよう、友人に依頼していました。彼は、船がニューヨークの港に着くと、いちばんさきにタラップを降り、大きな期待に胸を膨らませて、マンハッタンのホテルに入りました。彼の夫人も,同行の学者たちも、ほとんどの人が、ニューヨークの交通ラッシュや道路に立ち込める馬糞の臭い、高層のホテル、エレベーター内の閉塞感、高層ホテルの窓から見下ろした、体が引き込まれるような景色から受ける恐怖感など、どれ一つとしてヨーロッパでは経験することはなかった不快感に、極度の拒絶反応を示したのでした。しかしながら、マックスだけは他の人たちと違って、新大陸の躍動感溢れる人々の営みに強くひきつけられたのです。彼は、ブルックリン橋の上からラッシュ時の交通渋滞を眺めながら、夫人に「ごらん、近代的世界とはこんなものなんだよ」と、近い将来のヨーロッパを予見しながらいったのです。

ウエーバーは、ニューヨークからシカゴを経てセントルイスへ向かいました。シカゴは1830年代の初めまでは、人口200人にも満たないミシガン湖のほとりの寒村が、わずか20年くらいの間に、セントルイスをしのぐ大都市に発展したのには、いろいろな理由があるでしょうが、大陸横断鉄道が完成したことや、ミシガン湖の航行の要衝だったこと、さらには都市や港湾設備が急速に完備されたことなどによります。また、その当時開発された電動式エレベーターが、高層建築に積極的に取り入れられたことが、大商業都市としてのシカゴの発展に大いに寄与したと思われます。

シカゴの街は、中心部が高層化することによって垂直方向に伸びましたが、それと同時に水平的にも拡大していきました。水平的拡大とは、労働者層の住居が、都市周辺に急速に拡大していったことを指します。道路の整備も整っていない地域に、衛生設備の不十分な一戸建住宅が立ち並んで、そこに東部のアメリカ人をはじめ、アイルランド、ドイツ、イタリア、メキシコなどからの移民が押し寄せてきました。貧困と劣悪なしかも過密な人口を擁する地域が、やがて禁酒法の時代には組織化されたアウトロー集団の巣窟となるのです。アル・カポネの本拠地であるシセロもこのような労働者層が暮らす郊外にありました。

マックスは、シカゴでは女性の社会事業家ジエーン・アダムスに会いました。彼女は、熱心なプロテスタントで、十数年前からシカゴのスラム街にセツルメント『ハル・ハウス』を設立して、全国の生活困窮者を対象とした救援活動を進めていたのですが、これがセツルメント活動の始まりです。福岡在住の会員の中には、九大医学部が中心となって活動していた九大セツルメントを、ご記憶の方がいらっしゃるかも知れません。

セツルメント活動は一つの例ですが、このほかにも女性や少年労働者の保護、全国にわたる消費者運動、禁酒運動など、社会の現状を改革しようとする市民運動のなかで、中産層の女性が果たした役割は、大へん重要なものでした。一九世紀のおわりから20世紀にかけてさかんになった社会改革の運動には、中産階級や専門職は勿論、一部の企業家やときには都市の下層階級、農民、労働組合も参加することがありました。誕生したばかりのロータリーが、社会活動に熱心に取り組むようになったのも、そうした時代背景に大きく影響をうけているのです。

1904四年といえば、ロータリー創立の一年前のことです。シカゴのどこかの街角で、ポール・ハリスとマックス・ウエーバーがすれ違ったなどということが、或いはあったとしても、ちっともおかしくはありません。そのころのシカゴの街は、アダムス女史がセツルメント活動を始めなければならないほど、生活困窮者の多い都市でした。四人の友人たちとロータリー・クラブを創立したポール・ハリスが、創立直後から社会奉仕活動を思いついたのも、シカゴがこのような状況にあったからです。

鈴木大拙が釈宗演のすすめで渡米して、シカゴ郊外にポール・ケーラスを訪ね、彼の中国古典の英訳を援けながら、オープン・コート社で雑誌編集の仕事をしたのもこの頃です。大拙は、1897年から1908年までアメリカに滞在、この時の機縁でアメリカ人女性ビアトリス・アースキン・レーン嬢と結婚することになるのです。

ウエーバーたちがシカゴに滞在中も、ストライキ中のイタリア人と黒人との間で銃撃戦が行われ、十数人の死者が出たり、鉄道にダイナマイトが仕掛けられたり、市電の脱線、電車内での殺人などが頻発し、シカゴは恐るべき無法の街という以外のなにものでもありませんでした。

シカゴといえば、アル・カポネです。カポネといえば、随分昔の人間のように思われますが、太平洋戦争が終わって、1947年にフロリダの彼の別荘で亡くなったというのですから、私たちと同時代に生きた悪漢だったのですね。てっきり電気椅子の上で死んだとばかり思っていたので、これには驚きました。『暗黒街の帝王』といわれたアル・カポネは、一八九九年ニューヨークのブルックリンで生まれたのですから、ロータリーが創立したときは、まだ五つの子供です。中学生のころから、もっとも中学に通ったかどうかはわかりませんが、ギャングの仲間入りして、ジョニー・トリノの子分になりました。ジョニーはやがてシカゴに移ります。勿論カポネも一緒にです。その後、1920年悪名高き禁酒法が施行され、刺客に襲われ重傷を負って引退したトリノの後を受け継いでボスにのし上がり、やがてカポネ活躍の時代が来るのです。カポネの暗躍も、19世紀末からのアメリカの急速な工業化、都市化が進行する中で起こった、現実社会の色々な矛盾のなかの一つだったのでしょう。

先にマックスが、ホテルの窓からニューヨークの交通ラッシュに驚いたと書きましたが、読者は自動車のラッシュと思われたのではないでしょうか。アメリカにおける自動車の普及はまだすこし後のことで、このときの交通ラッシュは、道路に馬糞の臭いが立ち込めたとあるように馬車ラッシュで、まだ馬車が主な交通機関だったのです。因みに、ニューヨークという名前の由来は、英蘭戦争で英国がオランダを破り、1664年ニューアムステルダムを奪取、時のイギリス国王チャールス二世の弟、ヨーク公の領主植民地の一部となったため、ニューヨークと命名されたのです。先に述べたシカゴと違って、ニューヨークは周りが水に囲まれており街の中央部に未開発の土地がたくさん残っていましたので、ここに大規模の公園を作ることになりました。これが現在のセントラル・パークです。
アメリカの工業化が進んだのは1860年頃からで、それから40年間に、合衆国の工業投資額は十二倍に、工業生産額は6倍に増え、世界第一の工業国となりました。また、1869年大陸横断鉄道が完成して以後、アメリカでは急速に都市化が進んで、1860年には全人口の20パーセントに過ぎなかった都市人口は、40年後の1900年には40パーセントまで上昇しました。

この頃の生産工場の様子を、アプトン・シンクレアが小説『ジャングル』の中に実にビビッドに書いています。猿谷要の著作から引用しておきます。

「ヨーロッパで拒否されたソーセージは、はるばる本国に帰ってくるが、これはカビ臭く、白けている。これを硼砂とグリセリンに漬け、漏斗機に投げこみ、国内消費用として再生する。工員達が歩き回ったり、つばきをしたりして無数の結核菌がばら撒かれている塵埃とおが屑にまみれた床上に落ちる肉もある。倉庫に高く積まれた肉があり、その上には天井から雨もりの雫が落ちてくるし、何千という鼠が肉の上をかけ廻っている。倉庫の中は暗くてよく見えないが、肉の上を手でなぜれば、乾いた鼠の糞がごろごろしているのがわかる。鼠は厄介なもので、缶詰業者は毒入りのパンを倉庫内に置き、鼠を殺すが、こうなると、鼠とパンと肉とが一緒になって漏斗機に入る。これはお伽話でも冗談でもない。肉はデャベルで荷車に積まれるが、積荷をする男は、鼠が目に入っても、これを取り除く労をとろうとはしない。毒で殺された鼠一匹などは物の数にも入らないほど、いろいろなものがソーセージの中に入ってくるのだ。」

時の大統領セオドア・ローズベルトが、朝食の時間に丁度この文章を読んでいたのですが、やにわに食卓のうえにのっていたソーセージを窓の外に放り投げたそうです。彼はその後すぐにシンクレアに調査を命じて、その年のうちに議会で純正食品法と牛肉検査法とを成立させたということです。この物語は、ハロルド・トーマスも彼の著書『ロータリー・モザイク』のなかに引用していますから、合衆国の資本主義発達期における象徴的な話として、オーストラリアでも人口に膾炙していたのでしょう。
アメリカの工業化、そして大量生産・大量消費の時代に入っていく1860年から1900年の間に、産業労働者の数は四倍になりました。そして、工業化が進むなかで、エヂソンやフォードなど、多くのヒーローたちが生まれたのです。

トーマス・エヂソンは、1847年に生まれて1931年84才で亡くなりました。ポール・ハリスや米山梅吉より21才年上ということになりますが、みな同時代に生きた人たちです。ペリー提督が日本に来航したのが嘉永六年、1853年ですから、彼等の活躍したのがいつ頃のどんな時代だったかを想像してみてください。

エヂソンは、都市生活者をターゲットとして、消費者のニーズに応える日常生活用品をつぎつぎと開発していきました。そのエヂソンの工場で働きながら、夜はガソリン自動車の研究に打ち込んでいたのが、若き日のヘンリー・フォードです。エヂソンとフォード、それに自動車のタイア製作を始めたファイアストンの3人の友情は、生涯変わることがありませんでした。

ヘンリー・フォードは、1863年生まれで1947年に亡くなりました。亡くなったのは、アル・カポネと同じ年です。フォードは、デトロイトにあるエヂソンの工場で働きながら、独力でガソリン・エンジンを考案、それが1908年のT型フォードの製作に繋がったのです。アメリカ大陸というとてつもなく広大な国では、交通手段は私たちが考える以上に重要な問題でした。有効な交通手段を持たなければ、全く孤立した生活を送らなければなりません。マックスがニューヨークのホテルの窓から見下ろした馬車の列も、当時のアメリカでは、一部特権階級だけのもので、大多数の農民は、家畜の馬を牧畜の対象とはしていたものの、交通機関として利用するなどということは、考えてもいませんでした。西部劇でおなじみのカウボーイが馬を乗り回すなど、実際にはなかったのでしょう。フォードが自動車を考案したのも、交通機関がないため孤立状態を強いられていることを身に染みて感じたのが、その動機だといわれています。

エヂソンが白熱灯を生産に移したとき、これを早速利用して、ニューヨークに世界最初の電気照明による画期的な大劇場を作ったのが、ルイス・コンフォート・テイファニーです。いま、ニューヨーク五番街のテイファニー本店は、日本からの観光客で溢れていますが、そのテイファニーの店を開いた人です。ルイス・テイファニーは、1848年生まれですから、エヂソンより一つ年下です。エヂソンの逝去より二年後の1933年に亡くなりました。テイファニーの先祖はイギリスの出身で、1660年アメリカに渡ってきました。もともと織物業を営んでいたのですが、アメリカに入植後、1830年代の終わり頃から宝石業界に入り、ヨーロッパでダイアモンドの取引で大儲けをし、マリー・アントワネット所有の宝石を購入してナポレオン三世に売りつけ、ナポレオンが失脚すると、売りつけた宝石を買い戻して、ピューリッツア賞で有名なピュリッツアのジョセフ夫人に売るなど、驚くべき情報収集と行動力とで、巨大な資産を作りました。ルイス・テイファニーは、はじめ画家としての修行を積んだのですが、後にアメリカの美術工芸運動に加わり、インテリアやブチックの世界に新風を巻き起こしました。イファニーの着想がどんなものだったかといいますと、例えばロングアイランドに作った彼の自宅は、屋根を銅板で葺き、ステンドグラスや色タイル、ガラスをふんだんに使ったアールヌーボー式の建物で、部屋が84室、25のバスルームがあったそうで、この建物一つを見ても、彼の美意識がどんなものであったか想像つくでしょう。

急速に都市化が進むにつれて、都市と農村との生活様式の差異や、富裕層と貧困層の生活格差の拡大など、アメリカ社会の矛盾を内に秘めながら、やがて大量生産大量消費の時代へとすすんでいくのです。そして、それを支えたのが、ヘンリー・フォードであり、トーマス・エヂソンであり、ルイス・テイファニーなのです。

シカゴからセントルイスを訪ね、セントルイスで学術講演をおえたあと、マックス・ウエーバー夫妻はアメリカ原住民の専住地を訪ねました。そこでは、インデイアンの住いのあいだに石油採掘のためのボーリング機械が据えられて、古くからある集落のあいだに新しい都市が生まれようとしています。マックスは、新大陸のなかで発展しつつある資本主義文化に押しつぶされていくネイテイブ・アメリカンの姿を、まざまざと見たのでした。

マックスはオクラホマから、ヴァージニアに住む母方の親戚を訪ねました。そこでたまたまバプテストの洗礼式に立ち会ったのですが、それが彼の宗教社会学研究に大きな影響を与えることになりました。洗礼式で、近くの町で銀行を開こうとしている一人の男性に会ったのです。彼がいいますには、「銀行を開くので、大きな信用がほしい。バプテスト教団に加入するためには、営業を含めた倫理的生活態度が厳しく調査される。教団に加入することが、職業上の信用を得ることと不可分の関係にある」とのことです。マックスは後に「信仰篤きクリスチャンは、有能なビジネスマン、それも資本主義的観点から見て有能なビジネスマンである」と書いています。バプテスト教団に所属することによって、その銀行家の心のなかに育つ倫理的な働きを、マックスは後に『エートス』と呼びました。ポール・ハリスがロータリーの職業奉仕に求めたものも、アメリカ精神の基礎にあるこのピューリタン『エートス』に他なりません。

マックス・ウエーバー夫妻は、四ケ月にわたる大陸の旅行で、アメリカの長所も短所も見尽くし、彼の研究のための豊富な資料を手に入れて、その年の末ハイデルベルグに帰ってきました。

(菅正明)

ポール・ハリスは、その自伝『My Road To Rotary ( ロータリーへの道)の副題に、『 The Story of A Boy, A Vermont Community, and Rotary ( 一人の少年とバーモントの町とロータリーの物語)と書いています。ハリスがこの本で先ず書きたかったのは、かれの少年時代と彼が祖父母のもとで育ったバーモントの町のことです。ハリスにとって、バーモントの町なくしてロータリーはなかったのです。ニューイングランドのこの町のことは、いずれ後ほどお話しますが、十七世紀の初頭、イギリスの宗教弾圧から逃れて、メイフラワー号に乗ってアメリカ大陸に新しい世界を求めたピューリタンたちの敬虔なこころが、ハリスの幼児体験の中になかったら、ロータリー・クラブは創立したとしても、職業奉仕という理念は生まれなかったかも知れません。

第一話のなかで、マックス・ウエーバーがバージニアでバプテストの洗礼に立ち会ったことを書きました。ここでマックスは、敬虔な信者であることが、営業上の信用と一致するものであることを知って、帰国後フランクフルトの新聞に「・・・・確証されたクリスチャンは、有能なビジネスマン、それも資本主義的な観点から見て有能なビジネスマンである」と書いています。マックスは、ニューイングランドの敬虔なプロテスタントの行動が、企業の発展と決して矛盾するものではないということを、大陸への旅行で強く実感したのですが、その厳しいプロテスタントの禁欲的生活態度こそがポール・ハリスが少年時代に育ったニューイングランドの精神的風土でもあったのです。

ボストンから南の方角に車で1時間ほど行きますと、人口5万人ほどの町プリマスに着きます。プリマスは、アメリカのホームタウンとよばれています。17世紀の初め、イギリスでの宗教弾圧を逃れ、信仰の自由を求めた一団が、イギリスのプリマスからメイフラワー号に乗ってアメリカ大陸を目指しました。アメリカの東海岸で、入江があって港にもってこいのところは、『マス』いう名がついています。プリマスがそうですし、ボストンからやはり一時間くらいのところにあるポーツマス、そうです、日露戦争の講和会議が開かれたポーツマスも、古くから良港として知られています。 

1620年12月22日、メイフラワー号に乗ったピューリタンたちが、66日間の航海の後、やっとたどり着いた新大陸に第一歩を刻し、上陸した場所をプリマスと名付けました。

ポール・ハリスが育ったニューイングランドの宗教や生活を考えるには、どうしても宗教国家アメリカの、建国の歴史を無視することはできません。勿論、メイフラワーの物語は、時代が下るにつれて、多くのフィクションで飾られています。しかしながら、そのような物語を語り継いで、感謝祭を国家行事として現代に定着させたアメリカ文化の背後に、ニューイングランドの市民のなかに歴史とともに培われた良識があるように思われるのです。

ニューイングランドのピューリタン的性格といえば、信仰、忍耐、勤勉、個人と社会の自由などが、特徴としてあげられています。それはまたアメリカ人の特性だというイメージがいつの間にかできあがっています。ポール・ハリスが創ったロータリーの、職業奉仕の原型もまたその中にあると思うのです。私たちもここで、ピューリタンたちの歴史を振り返って見ましょう。

16世紀のヨーロッパは、探検の時代でした。16紀の後半、スペインはすでにフロリダ半島に植民地をつくり、17世紀になると西部の町サンタフエに進出します。サンタフエは、現在でも西部の古都として、街のあちこちにスペイン様式のレンガ造りの建築物が多く残されており、同時にアメリカン・ネイテイヴズの生活様式もいまに伝えられていて、スペインとネイテイヴ・アメリカンの二つの異文化が融合した特異な雰囲気を醸しだしています。

一方イギリスは、みなさんご存知のキャプテン・ドレイクなど、十六世紀の終わりから何回かにわたって新大陸に向かって探検隊を送り、1584年に派遣された探検隊が現在のヴァージニアに上陸、時のイギリスの処女王エリザベスに因んでヴァージニアと命名しました。その後17世紀に入って1607年、ヴァージニアを入植地の拠点として、ジエームズタウンを建設しました。江戸幕府が開かれたのが1603年ですから、日本で幕府が開府したころ、アメリカ大陸ではヨーロッパからの移民が苦労しながらその生活の基礎作りをしていたということです。

ジエームズタウンの建設は、悪疫と飢餓に加えて原住民たちの脅威にさらされて、最初の入植者百人のうち、1年後の生存者は3分の1になるというように、大へん悲惨なものでした。しかしながら、その後も入植を続け、入植者の苦闘と努力の結果、10年後にはタバコ、トウモロコシ、ピーナッツ、ココアなど多くの農産物が収穫できるようになり、収穫量も年々増加して、その輸出額は急激に上昇し、これが入植者の勤労意欲を高め、さらにイギリスからの移住を増やすことになりました。当時、植民地建設には莫大な費用がかかましたので、その資金は株式会社組織で集められ、株主は移民に要した費用と農産物とを一定の年限にわたって受けとる仕組みになっていました。大陸に移りたいと思う人は植民会社に渡航費を払い、入植後は農産物を会社に提供し、会社はそれを株主に配当するという仕組みです。イギリス国王は、移民のための資金を提供することはなく、会社に特許状を下付して、植民地経営の権限を会社に与え、これを推進したのです。

16世紀から17世紀にかけて、イギリス国教会の聖職者たちの堕落は、目に余るものがありました。ことに16世紀の中ごろからは、宗教改革を目指すプロテスタントに対する迫害が、激しさを増していきました。エリザベス女王の時代になりますと、イギリス国教会のカトリックとプロテスタントとの中道政策がとられましたが、それでも先鋭なピューリタンたちは地下運動を続けながら、やがて一六四二年のピューリタン革命に繋がっていくのです。メイフラワー号のアメリカ大陸到着は、それに先立つこと20年ということですね。

プロテスタントとは、ルターの宗教改革運動を機縁に成立したキリスト教各派の総称です。そのなかで、16世紀から17世紀にかけてイギリス国教会の改革を求めた人々を総称してピューリタン(清教徒)と呼びます。マックス・ウエーバーが近代社会を考えるうえで重要視したのが、プロテスタンテイズムであることは、すでにご承知の通りです。

イギリスのピューリタンは、二つに大別されます。イギリス国教会と厳しく対立している分離派と、国教会の体制のなかにあって宗教改革を実現しようとする非分離派です。メイフラワー号でプリマス植民地にむかった人々は分離派、後で述べるマサチュセッツ湾岸植民地を形成した人々は非分離派です。前者を『ピルグリム』、後者を狭い意味の『ピューリタン』と呼んで区別しています。

イギリス国内で絶えず執拗な迫害の危険にさらされていたピューリタンは、最初からアメリカ大陸を目指した訳ではありません。17世紀のはじめ、彼らは迫害を逃れるため、先ずオランダのアムステルダムに脱出しました。イギリス海岸からオランダまではそれ程遠い距離ではないのです。脱出してオランダに来たものの、そこでの都会の生活には適応できず、オランダで生活を続けると、彼らの子どもが母国語である英語を話せなくなることや、農耕生活を主とする彼らにとって、都市では自分たちに適した職業を選ぶことが難しいなど、言葉の習熟や教育、職業選択についての色々な困難な問題がおこり、再度の移住先としていくつかの目的地が考えられましたが、最終的にはアメリカ大陸への移住が浮かび上がってきたのです。しかしながら、アメリカへの入植には、莫大な資金が入用です。それをどうにかクリアーして乗船できたのが、メイフラワー号です。

メイフラワー号は、イギリスのプリマス港を出帆、1620年12月22日プリマスに上陸しました。私は、プリマスという名前は出港地に因んで付けたものだと思っていましたら、そうではなくて、彼らが上陸したところもプリマスという名前だったそうです。偶然というものがあるものですね。ピューリタンたちの出国に際しては、信仰上の理由から国王の特許状を得ることができませんでした。それで、国王の特許状を持っているヴァジニア植民地に入植することにして母国を出発したのですが、出発がおくれたこともあって、アメリカ大陸に到着してからさらに南下してヴァージニアに向おうにも、それができなかったのです。といいますのは、メイフラワー号がアメリカに到着したときはすでに冬の季節に入っており、入植者たちも長い航海で疲労の極に達していましたので、それ以上の航海を続けることは到底不可能でしたから、やむなくプリマスに上陸して、ここに生活の場を築くことになりました。それがプリマス植民地です。

プリマスに上陸したときから十年後、非分離派のピューリタンたちが、新大陸に、国教会を改革するためのモデル植民地を建設したいという期待をもって、国王の特許状を得たうえで、マサチュセッツ湾岸植民地を開きました。後に、プリマス植民地はマサチュセッツ湾岸植民地に併合されることになります。

プリマスでのピルグリムファーザーズたちの生活がどんなに悲惨なものであったか、彼らのリーダーであったウイリアム・ブラッドフォードの記録を大西直樹の訳で紹介しておきましょう。

「しかし、最も悲惨で嘆かわしかったことは、2、3ヶ月のうちに、一行の半分が死んでいったことである。とくに、1月、2月は冬の最中なので死者が多かった。それは、家もその他の施設も不足しており、またながい航海と不自由な生活環境がもたらした壊血病やその他の病気に感染したためであった。そのため、1、2月には、1日に2、3名の死者が出たほどで、百余名のうち、やっと50名が生き残ったのであった。その上、もっと悲惨なことには、この50名のうち6、7人しか健康ではなかった。」

マサチュセッツ湾岸植民地の設立は1630年ですが、規模においてもプリマスの10倍はあり、確固とした法的基盤も持っていました。宗教的にも、非分離派の立場をとって本国との関係を保ちながら、一方では早くも、1636年に自前の牧師養成学校であるハーバード大学を設立して、聖職者の養成を始めるなど、プロテスタントとしての新国家建設に向けて、一歩一歩着実に前進していったのです。

その後アメリカ大陸は、ヨーロッパ各国の植民地として、夫々の国の制度や生活習慣を取り入れて、新大陸での植民地経営に適応するように形を変えながら、母国とは異なった発展を遂げ、夫々独立した植民地経営を続けましたが、やがてそのなかから1776年7月12日、アメリカ13植民地が独立の日を迎えるのです。

ピューリタンに限らず入植者たちは、生活の安定のために勤勉に働かなくてはなりませんでした。彼らを力ずけながら生活を支えたのが、ピューリタンの牧師たちです。そして、アメリカ建国以後も勤勉はアメリカ人の信条として受け継がれ、『勤勉なヤンキー』というイメージが定着していきました。ベンジャミン・フランクリンは、晩年の著書のなかで、「金持ちになりたいものにとって、アメリカは最高の場所である。とりわけ勤勉な貧乏人が安住できる場所で、アメリカ合衆国ほど下層労働者が衣食住に不自由せず、十分な賃金を貰っている国はない」と書いています。フランクリンは、独立前後の18世紀初頭に活躍した代表的アメリカ人で、アメリカ独立宣言に最初に署名した5人のうちの1人です。

やがて十九世紀にはいりますと、ヨーロッパから大量の移民がアメリカ大陸を目指すようになります。例えば、1860年から40年間に合衆国の人口は、3100万人から7600万人になりましたが、増加した人口のうち1400万人は移民によるもので、しかもそのほとんどが都市に集中しました。彼等が、アメリカの工業化の下支えをすることになり、やがては大量生産大量消費の時代に入っていく訳ですが、そのなかで1880年台になって、都市化にともなう社会のいろいろな矛盾を直視して、その解決を図ろうとする新しい考え方が生まれて、来るべき新時代の準備を始めるのです。このような時代に、ポール・ハリスは大学を終えて、社会に巣立ったのです。

イギリスの思想家カーライルをして『すべてのヤンキーの父』といわせたベンジャミン・フランクリンは、1706年ボストンで生まれました。彼の父ジョサイアはプロテスタントで、16822年に宗教的自由を求めて、イギリスからニューイングランドに移住しました。ベンジャミンは家が貧しかったので、満足に学校に通うこともできませんでしたが、ニューヨーク、フィラデルフィヤを遍歴し、印刷の技術を身につけ、22才でフィラデルフィヤに独立して印刷所を開業しました。やがて新聞を発行したり、毎日の生活信条を刷り込んだカレンダーを発行したりして、大儲けをしました。当時のアメリカにおける新聞の発行部数は膨大なもので、それだけ市民は色々な情報に飢えていたのです。ピューリッツアが新聞の発行で大富豪になったのも頷けます。

フランクリンのカレンダーは、『貧しいリチャードの暦』と称するもので、カレンダーに教訓的な文章やことわざ、年中行事などを刷り込んで売り出したのですが、これが空前のベスト・セラーになったのです。いまでも教訓、格言、年中行事などが印刷してあるカレンダーがたくさん売り出されていますが、もとはといえばベンジャミン・フランクリンの考案によるものです。フランクリンは、それらの文章を通じて、勤勉や節約などの徳目を実行すれば、必ず成功を手に入れることができると訴えました。フランクリンがあげた徳目とは、節制、沈黙、規律、決断、節約、勤勉、誠実、正義、中庸、清潔、冷静、純潔、謙譲の十三項目です。イギリスの産業革命を成功させたのはプロテスタントだといわれています。その時代は、ヴィクトリア文化といわれる時代で、勤勉、禁欲、性的抑制、向上への努力など、社会的責任や厳格な個人道徳が強調された時代です。フランクリンが訴えた十三の徳目もその一つですが、イギリスから逃れて新大陸に生活の場を築いたピューリタンたちの子孫が、彼らの父親たちの、また祖父たちの敬虔な生き様を新しい国造りに生かそうとした意気込みのようなものが、感じられます。

(菅 正 明)

ポール・ハリスの自伝『My Road To Rotary (邦訳題名:ロータリーへの道) 』は、柴田實の名訳で出版されていますから、お読みになった方も多いと思います。この本は、ロータリーを知るための必読の書ですし、柴田實の翻訳もすばらしいものです。ぜひ読んでください。ロータリーに入会したときに、この本を一冊ずつ会員にプレゼントしたらよいと思うのですが、どうでしょうか。

すでに書きましたように、『My Road To Rotary』という題名には、副題に『THE STORY OF A BOY, A VERMONT COMMUNITY, AND ROTARY』とあります。全体を日本語にしますと、『ロータリーへの道―1人の少年と、バーモントの町とロータリーの物語』となります。ハリスは、この本のなかで自分の少年時代と、少年時代を過ごしたバーモントのことを書きたかったのです。そして、その未来にあるのがロータリーなのです。三つ子の魂百までということわざがあります。事実、三才までの幼児体験が、その人の性格形成に大きく影響します。ハリスがロータリーを語る場合も、物語の出発はどうしても三才のとき父に連れられて行った、祖父母の住んでいるウオーリングフォードからでなくてはならなかったのです。

アメリカ東部の、マサチュセッツ、メイン、ニュー・ハンプシャー、コネチカット、ヴアーモント、それにロード・アイランドの6つの州を合わせてニューイングランドと呼びならわされています。この間、たまたまヴァーモント州のコインを手に入れましたが、コインの表にメープル・シロップの採集場が彫ってありました。ニューイングランドの秋の見事な紅葉は、このメープルです。メープルは辞書をひいてみますと、『かえで』となっていますが、日本のかえでと違って、幹がかなり大きくなります。シュガー・メープルとかレッド・メイプルとかいうのだそうです。毎年2月から3月のはじめにかけてが収穫期で、この採集の仕方も、ピルグリムたちがインデイアンから習ったものです。

ハリスもバーモントの祖父母のもとで、メイプル・シロップを採取したり、シロップから砂糖作りをするのが楽しみの一つでした。春の浅いころ、まだ雪の残っている楓の林の中に分け入り、森の小さなけだものたちの足跡を追って廻ることもありました。祖母がソバ粉を使って焼いたパンケーキにメイプル・シロップをつけて食べたことも、ポールにとっては忘れられない思い出の一つでした。

ニューイングランドの自然は、なだらかな丘や小川、牧場や畑、そのなかに点在する、落着いた色の農家や牧草を蓄えるサイロなど、どこを見ても、内陸部の雄大さにくらべて、こじんまりとしています。季節の移り変わりにしても、春夏はみどりの森やのはら、秋は赤、黄褐色など圧倒されるような色鮮やかな紅葉、冬は一面の銀世界と、そのときどきの情景は、訪れる人のこころに強く印象づけられれます。

1871年7月のある夏の夜、ラトランドを出た汽車がようやくウオリングフォードの駅に着いたのは、もう夜中の11時を過ぎていました。真っ暗な駅に降りたのは、ハリス親子の他たれもいません。線路の向こうにぽつんと淡い光の輪がかすんでいました。親子が近づくと、そこに背の高いがっしりとした体格の老人が一人、こちらを向いて立っていました。それが息子と二人の孫を迎えにきた祖父のハワード・ハリスでした。ハリスたちは、お互いに一言の言葉も交わすことなく、黙って寝静まっている暗いウオーリングフォードの通りを、これからハリスが生活することになる家に向かって、祖父は、緊張してしっかりと握り締めているハリスの手を、大きな手で包みこむように握って歩いて行きました。ハリスは、このときのことを、『私が知っているうちで一番大きく、一番しっかりして、一番暖かい手。巨大な親指は、子どもがしがみつくのに格好の把手だった。』と回想しています。3才のハリスにとって、初めて会った祖父は、それほど大きく頼りがいのある巨人に見えたのでしょう。

やがて一軒の家に着きました。戸口には、小柄な黒髪の婦人が灯油のランタンを頭上高く掲げて、夜の闇を気遣はしげにうかがっていました。祖母のパラメラ・ラスチン・ハリスです。

ハリスの記憶のなかにある祖父母のイメージは、初対面のときの印象と、それから一緒に生活した十数年間の思い出とが混ざり合ってできたものです。ハリスにとっては、それほど頼り甲斐のある祖父と、細かいことに気を使ってくれた祖母だったのです。

ハリスの、思い出を読んだり、伝記を調べていて気付くことは、彼の両親についての記載が少ないことです。父親のジョージ・ハワード・ハリスは、1842年生まれで、ハリスはジョージ26才のときの子供です。ハリスの父方の先祖が、イギリスから新大陸にやって来たことに間違いはありませんが、その家名についてハリスの伝記作家ジエイムス・ウオルシュは、次のように推理しています。

「ハリス(Harris)というのは、アングロサクソン系で、『ハリーの息子(Harry’s son)』を意味しており、イングランドでは『ハリソン( Harrison)』スコットランドでは『ハリス( Harris)』となる。スコットランドのアウター・ヘブリス諸島には、ハリスという名前の島があり、この島のハリス・ツイードは、世界的にも有名な織物である。」

祖父のハワード・ハリスは、ポールの表現によると「父方の祖父はちょっと例がないほど長身で、背筋をしゃんと伸ばした、いかめしい人」であり、「質素で、頑固、勤勉、神を畏れ、寡黙で高潔の人」でした。父方の祖母パメラ・ラスチン・ハリスは、ウオーリングフォードで生まれで、生涯その町で過ごしました。ハワードが長身だったのに引きかえ、パメラは小柄で、体重も40キロくらいしかありませんでした。

ポールの母コーネリア・B・ブライアンの先祖は、アイルランドから新大陸を目指して、マサチュセッツに上陸、その子孫は後にニューイングランドに移り、ニュー・ヨーク州の開拓者に名を連ねるようになりました。ポールの母方の祖父ヘンリー・ブライアンは、ポールによると「企業心と進取の気性に富んだ人格者」で、ウイスコンシン州ラシーヌの第二代市長を務めた人です。ヘンリーは、教師だったクラリッサと結婚、8人の子供に恵まれ、その末子がポールの母コーネリアです。

ニューイングランドをこよなく愛した加藤恭子は、ニューイングランド気質を、「労働意欲、伝統の尊重、不寛容、倹約、欲張り、厳しい職業倫理」といっています。ポールの追憶から考えますと、イギリスからニューイングランドを目指したピルグリム・ファーザーズは、きっとハワード・ハリスのような風貌をしていたに違いありません。

ハワードとパメラには1男4女が生まれましたが、2人の娘は夭折、1人は結婚後若くして亡くなり、結局はポールの父ジョージと医師に嫁したメリーだけが残りました。ハワードが、一人息子のジョージを如何に溺愛したか、その理由がお分かりでしょう。過保護がいけないことは、今も昔も同じで、ハワードはジョージに当時としては最高の教育を受けさせ、コーネリアと結婚後独立させはしたものの、ジョージは結局は一度ならず事業に失敗して、ポールを祖父のハワードに委ねることになるのです。母のコーネリアの一族は、事業には熱心なのですが、気位が高いうえに浪費癖が強く、夫ジョージの夢想家気質と相俟って、やがては一家離散ということになってしまい、ブライアン家もハワード・ハリスの経済的援助を受けることになるのです。

ウオーリングフォードの祖父母のもとには、ポールだけが残されて生活するようになりました。十数年にわたるウオーリングフォードでの生活は、ポールの性格形成に大きな影響を及ぼしました。その生活がどのようなものであったか、それを知って頂くためにポールの著書『ロータリーへの道』を是非読んでください。

やがて1887年、ポールはプリンストン大学に入学したのですが、その翌年の一八八八年祖父のハワードが雪掻きのあと罹った肺炎で急逝し、やがて2年後の1890年祖母パメラもこの世を去りました。

祖父母を失ってからのポールは、生活態度も全く変わって、真面目な学生生活を送りました。殊に、亡き祖父がかねてから望んでいた弁護士への道を進むために、それまでとは人が変わったように、学問に打ち込みました。やがてポールはウオーリングフォードからアイオワに移るのですが、アイオワへの途中、彼は昔の友人が新聞記者をしているシカゴに立ち寄りました。これが、彼とシカゴとを結びつける最初の出来事です。

ポールは、アイオワへの途中、大学時代の友人でいまはシカゴで新聞記者をしているロバート・ジョンソンを訪ねました。伝記作者は、このときポールは、将来腰を落ち着ける時期がきたら、シカゴに住居を構えようと心に誓ったと書いていますが、私にはそのときポールが、シカゴからそれほど強いインパクトを受けたとは思われません。その頃のシカゴといえば、すでにジエーン・アダムスがスラムにハル・ハウスを開いて救済活動を始めていたという一ことを見てもお分かりのように、とても成功心に燃えた若者の心を引きつけるような、魅力ある町ではありませんでした。

1891年、23才でポールはアイオワ大学を卒業、法律学の学位をとり、将来法律家として生計を立てる第一歩を踏み出したのです。そのとき、先輩にあたる大学の一人の講師が、「まずは、小さな町に行って、五年くらいそこで気ままに過ごしたらいい。弁護士を開業するのは、それからでの遅くはない」といったのを聞いて、それももっともなことだと思い、それからポールの放浪生活が始まるのですが、なぜ彼がここで放浪生活を始めたのか、そのわけはよく分かりません。彼は五年間の放浪生活のなかで、アメリカ国内はもとより、ヨーロッパにも二回足を運んでいます。しかも、その間の生活は、なんの目的でこんな生活を送らなければならなかったのか、理解できないようなかなり過酷なものでした。ポールは、それまでの経済的にも恵まれず、祖父の死後もそのしがらみを断ち切ることのできなかった、ニューイングランドの生活から、ひと時でも抜け出してみたかったばかりに、大学を卒業すると同時に、放浪の旅に出たのではないかと思います。まだ頑是ない男の子が、無気力な父親と浪費癖のつよい母親のもとを独り離れて、ニューイングランドの厳しい祖父のもとで生活しなければならなかったポールです。かれの高校時代、大学時代は決して勤勉な学生ではありませんでしたが、ポールの父を甘やかして失敗した祖父は、ポールを決して甘やかしはしませんでしたから、ウオーリングフォードの生活は、ポールにとっては決して楽しいものではなかったはずです。ポールが本当に学業に身をいれたのも、祖父のハワードが亡くなってからです。彼は祖父を失ってからはじめて、祖父がポールにかけた期待と愛情の深さとに気付いたのだと思います。

ポールの子供時代から学生時代を追ってみますと、彼の放浪生活はその後の彼の人生にとって、非常に大きな意味をもっていたといわなければなりません。かれの放浪生活がなかったら、ロータリーもなかったといってよいかも知れません。

ポール・ハリスは、どんな性格の青年だったのでしょうか。MMPIという性格診断法があります。ミネソタ大学の心理学と精神医学の専門家によって、1940年につくられたもので、MMPIとはMinnesota Multiphasic Personality Inventory (ミネソタ多面的性格検査)を略したものです。すこし専門的になりますが、この検査の特徴は、私たちの性格(パーソナリテイー)を、心気的(からだのことを過度に気にする)、抑うつ、ヒステリー、異常性格、男性的・女性的傾向、偏執傾向、分裂気質(現在では、分裂病という言葉は使われていません)、強迫傾向、軽躁傾向、の九つの尺度で見ようとすることです。いまから50年ほどまえ、私どももつたない日本語訳をつくって、標準化しようと試みたことがありますが、なかなか面白い診断法です。最近では、標準化された検査用紙が発売されていて、職員の採用や、職場における人間関係の調整などに利用すると、効果を挙げることができます。

弁護士を開業するまでのポール・ハリスの行動を追って、ポールのパーソナリテイーをMMPIで診断すると、ここに挙げた図のようになります 。MMPIでは、その人の性格傾向が、この図のように、プロフィールで表すことができますので、それが一つの魅力です。ポールの性格は、先ず基本的には分裂気質です。それに、強迫的・軽躁的傾向が加わります。強迫的傾向と軽躁的傾向とは、一見矛盾するようですが、私どもの性格には、往々にしてこのように相互に相矛盾する性格傾向があるものです。強迫傾向は、厳しかった祖父ハワードのもとで幼児期から青年期を過ごしたことが、要因となったのだと思います。彼が放浪中も、仕事を几帳面に処理して職場で高く評価されていますが、それも彼のこの性格傾向によるものです。弁護士という職業には、このような強迫的傾向が必要だと思います。

ポールには、意外に自分独自の判断で、独りで行動して他からみると理解に苦しむようなことがあります。5年間の放浪生活もそうですが、ときにはロータリーの世界大会にも出席しなかったことがありますが、それもはっきりした理由があってのことではありません。このようなことは、彼の分裂気質をよく表しています。ポールには、ヒステリー傾向や、精神病質・偏執傾向が見られません。いい換えますと、自己顕示性や人間関係に必ずトラブルを起こし易い性格の持ち主でなかったということです。このことはロータリーにとって大へん幸いなことで、それ故に、彼がつくったロータリーが大きく発展したのです。ポール・ハリスの性格論を論じだすと、それだけで一冊の本になると思いますが、このくらいにして、先に進みましょう。

1896年早春、ポールはシカゴに居を構えました。このとき、何故シカゴを選んだのか分かりません。当時のシカゴの様子を眺めて見ましょう。

19世紀も半ばを過ぎたアメリカは、都市化と工業化が急速に進んで、都市化に内在するいろんな社会問題が、解決されないままに顕在化していきました。それまでのベンジャミン・フランクリンがいった新世界の無限の富と機会は、単なる絵に描いたもちに過ぎなくなり、多くの移民たちには、大都会のスラムのなかで貧困にまみれ、重労働と病魔にさらされるという、悲惨な生活が待ち受けていたのです。1890年代になりますと、都市人口のなかで外国生まれの人口比率は急速に高まり、シカゴでは人口の3分の1が外国生まれだったそうです。

それでも都会は、人々を魅了してやみませんでした。都会には一握りの成功者たちの大邸宅があり、そのなかでの彼らのゴージャスな生活がありました。第一話でちょっと出てきたテイファニーがロングアイランドに建てた自宅は、豪華なアールヌーボー式の建物のなかに、部屋数が84四部屋、25のバスルームがあったそうです。とにかく、アメリカの富の8分の7を国民のわずか1パーセントがもっていたというのですから、驚くほかはありません。

19世紀の終わりになりますと、急速な工業化に伴う事件が次々に起こってきます。シカゴでも1877年の鉄道労働者のストライキや、ヘイマーケット事件といわれるマコーミック農業機械工場のストライキなど、いずれも軍隊や警官隊の出動によって、ストは鎮圧されましたけれども、群集と警官隊の双方に爆弾やピストルによる多数の死傷者がでるなどの事件が多発して、社会不安が重なっていました。それに加えて、19世紀後半にアメリカをおそった天候不順は、多くの貧しい農業労働者の都市への流入を促したのです。

チャールス・ダーウインの進化論による『適者生存』説が、社会に流布されたのもこの頃です。貧しいスコットランドの移民から身を起こして、自分の力で巨万の富を築いたカーネギーなどが主張したものですが、富こそがその人の能力の有無を証明するもので、富者こそ適者である。貧者は、無能力な敗者にすぎない。彼らがもし能力を持っていたら、貧者のままであるはずがないというのです。貧者は、生存競争に敗れたのだから、救済する必要はない。貧者を救済することは、恐竜を救済するのと同じように無駄なことだというのが、社会進化論者の主張です。

これに対する反対の立場として、工業化・都市化によって生まれた色々な社会的矛盾とその結果としての貧困・疾病などは、社会的責任において癒されなければならないという意見がありました。

ポール・ハリスがシカゴに移って2年後の1888年、ヨーロッパから帰国したジェーン・アダムスが、ステーブンソンによって『比類なき暴力と汚物の堆積。喧騒と無法と醜悪と悪臭の闖入者。田舎者丸出しのぶざまで間抜けな大男。子沢山の無頼漢』と表現したシカゴ入りして、やがて第一話でお話したセツルメント『ハル・ハウス』をつくることになるのです。『ハル・ハウス』は、後にシカゴにおける労働運動の中心になります。ポール・ハリスは、そんなシカゴの街の片隅にあるビルの七階に、粗末な机と椅子を持ち込んで、弁護士事務所を開業したのですが、当時のシカゴには2,000人をこえる弁護士がおり、ポールの事務所も決して楽なものではありませんでした。ポールは1905年、ロータリー・クラブを創立しますが、そのころのシカゴの状況は、ざっとこんなものでした。

アーサー・フレデリック・シェルドンも、ジェーン・アダムスやポール・ハリスと同時代にシカゴで生きた人です。彼が社会進化論と反対の立場にあった人であることは、1921年エジンバラで開催された国際大会での講演『ロータリー哲学』のなかに明らかです。いささか翻訳が難解ですが、ここに引用しておきましょう。

「誤った考え方、すなはち、適者生存の法則とは最も強者で、最も自利中心者生存の法則であるとの、全く偽りの信念に基いて、一所懸命に励んだために、年百万という人たちが、「先取り合戦」( The Game of Grab ) に熱中し、自分達は『分捕りは善なり』と考えるが故に「取得」しようとしたのであるが、とどのつまり、この方法をとったために到るところで問題が起こっているのである。」

シェルドンは1908年、シェルドン科学的販売専門学校 ( Sheldon School for Scientific Salesmanship ) の経営者の資格でカナダ・ロータリー・クラブに入会しました。彼は大学卒業後、一度はカナダで就職したのですが、やがて独立して書籍販売業を始めます。そのころのシカゴの様子は、すでにお話した通りで、そのなかで商売しながら生きていくのが、どんなに大変なことであったか、想像に難くありません。『 He profits most who serves best. 』という言葉も、彼が散髪しているときにふと思いついたということです。この言葉は、「最も多く奉仕するものは、最も多く報われる」とか「奉仕に徹するものに最大の功徳あり」と訳されていますが、20世紀はじめのシカゴで、シェルドンが思いついたのは「奉仕に徹すると、いちばん儲かる」と翻訳するのが、そのときのシェルドンの気持ちと、いちばんぴったりしているのではないでしょうか。

其の後ロータリーでは、『ロータリー綱領』の他、1915年サンフランシスコ国際大会で採択された、十一ヶ条よりなる『ロータリー職業訓』、1955年シカゴ国際大会でロータリーの公式標語として採用された『四つのテスト』などにより、職業奉仕というロータリーの基本理念の形が整えられていったのです。但し、1987年のRI理事会で採択された『職業奉仕に関する声明』のなかには、『職業奉仕は、ロータリー・クラブとクラブ会員両方の責務である。 ( Vocational service is both the responsibility of a Rotary Club and of its members. ) 』と明言されています。この理解し難く、職業奉仕についての誤った解釈は、RIの公式見解として、修正されないまま現在に至っています。

私は、シェルドンが19世紀の終わりから20世紀のはじめにかけてのあの混乱したシカゴで、『金儲けにはサービスだ』と思いついて、早速それを実行に移したことは、素晴らしいと思います。ここで申し上げておきますが、シェルドンの金儲けといいますのは、暴利をむさぼるという意味ではなく、適正な値段で売ると売り上げもよくなるという意味です。サービスの内容は、時代とともに変わっていきますが、金儲けのほうは変わりありません。この単純なことが、職業奉仕というロータリーのエートスとして育った背景に、ハリスが育ったニューイングランドの宗教的風土があるのです。話はとびますが、鈴木大拙は「霊性は民族が或る程度の文化段階に進まぬと覚醒せられぬ」といっています。それと同じように、ロータリーが創立して、職業奉仕という考えが育つて形をなすまでには、それなりの時間とクラブの歴史が必要だったのです。

(菅 正 明)

ポール・ハリスは、アイオワ大学の法律学部に入学したものの、祖母を失ってからは、これまでにないほど困窮の毎日を送らなければなりませんでした。将来の生活の目途も立たないまま、アイオワリバーで魚釣りをしたり、野原を一日中あてどもなく歩いたり、無為に一日一日を過ごしていきましたけれども、それでも彼はどこへ行くのにも、本を手放したことはありませんでした。

大学に入ったとき、ポールは一人の友人と親しくなりました。彼は、ウイル・マリンという名前で、自分のうちが書店を経営していましたので、イギリス文学に詳しく、ポールもその影響を受けて、デイキンズ、サッカレーなどビクトリア王朝の文学を読みあさりましたが、特に、ビクトリア時代のイギリスの社会状態を見事に描いたデイキンズに強く影響され、ときには其の作品を声を出して朗読したこともありました。

ポールは後年、大西洋を往復する貨物船に家畜の飼育係として乗り組んで、二回イギリスを訪れています。当時貨物船の家畜飼育係というのは、これより低い仕事はないといわれるほど、精神的にも肉体的にも苛酷な労働を求められました。とにかくひどい仕事の毎日で、札つきの荒くれ男どもの、家畜のほうがまだましなといってもよいような船上での生活でしたが、それを無事こなして、二回目に渡航したときには、飼育係主任で採用されて、待遇もずっとよくなっていたというのですから、ポールは、単なる法律書生でなく、実生活においても可なりな行動力を持った男だと分かります。

二回目にイギリスを訪れたとき、ポールは友人と二人で、ロンドンに下宿して、議事堂、バッキンガム宮殿、トラファルガル広場、ウエストミンスター寺院、ロンドン塔などを見学、また、ロンドンの裏町やスラム街まで足を伸ばして、デイケンズが描いたロンドンの街の様子をつぶさに見学したのです。彼のこの二回にわたるイギリスへの渡航体験は、ただ単に見聞を広めたというだけではなく、いやむしろ彼のその後の人生観に大きく影響したといってもよいでしょう。ポールは、三十年たって、「この経験がなかったら、人間ここまで落ち込むことがあるなんて、信じなかったであろう」と追憶しています。ポールが、シカゴで法律事務所を開業するまで、それからまだ五年余の歳月を要します。

ポールが愛読したチャールズ・デイケンズは、1812年生まれ、父親はイギリスの下級官吏でした。この父親というのが、中野好夫によりますと、好人物ではあるが呑気な男で、とりわけ金銭にだらしなく、妙に気位だけは高かい男だったそうです。ですから、収入もそれほど少なかった訳ではありませんが、貧乏暮らしで絶えず借金に苦しんでいました。結局デイキンズが12才のとき、借金で首がまわらなくなって、ロンドンにある拘置所に収容されることになりました。当時は妻子も一緒に拘置所内で生活できたそうで、このことは、デイキンズの自伝的小説であるデイビッド・コッパフィールドにも書いてあります。

デイビッド・コッパフィールドといいますと、私にも思い出があります。私は中学を卒業して、昭和18年に旧制の高等学校に入学しました。そのころは丁度太平洋戦争の真っ最中で、英語は敵国の言葉だから勉強するなということで、高等学校の入学試験に英語はありませんでした。たまに英語の参考書でも開いていようものなら、何でお前は英語の勉強などするのかといわれますし、英語の教師でさえ、「いま頃、英語に興味を持つなんて、君も変わっているな」といわれる時代でした。

私は、高等学校では理科乙類といって、これからドイツ語の勉強を始めることになる科に入学したのですが、その講義の第一週の最初の授業が英語の時間で、その第一番目にデビット・コッパフィールドの購読が当ったのです。その時は、テキストの1ページくらいをどうにか訳して、無事に英語の時間を終えたのですが、とにかくそれまでは受験英語しか知らなくて、せいぜいSketch BookかEthics for Young Peopleくらいしか読んだことがないものにとって、19世紀のイギリス文学など、とても手の付くものではありません。何でこんな英語を読まなければいけないのかと思ったものです。中野好夫も二都物語の解説に、高等学校でデイキンズの二都物語を教えられ、よくもまあこんなものを教科書にして英語を教えたもので、これでは苦労ばかり多くて、役に立つ英語など上達すべくもない、と書いていますが、全くその通りだと思います。今年高校に入った孫にこの話をして、デイキンズのものは何か翻訳したのでも読んだことがあるか、と聞きましたら、「クリスマス・キャロルを英文で読んだ」といいました。時代が違ったといいますか、私にはなんの言葉もありませんでした。

デイキンズは、家庭がこんな状態でしたから、ろくに学校にも行かないまま、十五才で法律事務所の小僧にやられます。別に法律家を志した訳ではありません。ここで、すこしでも給料が上がるようにと、速記の勉強を始めたのですが、それが認められて、新聞記者から文筆への道へと進み、エリザベス時代の代表的作家になるのです。

デイケンズは、デビッド・コッパフィールドのなかで、主人公のデビッドに『私は、何をするにも、すべて全身全霊をこめてやってきた。事の大小にかかわらず、私は常に徹底的に真剣だった』といわせています。デビッドのこの楽天的努力主義は、デイケンズ自身の人生哲学でしょうし、産業革命の後世界に広がって行くイギリスという国の社会思潮でもあったのでしょう。

ポールは何故デイキンズに惹かれたのでしょうか。当時のイギリス文学に特徴的だった物語の面白さに惹かれたことは勿論ですが、彼とデイキンズとの成育史の類似性にあるのではないでしょうか。ポールの父ジョージのお人好しで経済観念のなさ、母のそれに輪をかけたような浪費癖、その結果としての生活の困窮、デイキンズは満足に学業を続けることができませんでしたが、ポールは学業を続けるために、両親と離れてニューイングランドの祖父のもとで生活しなければなりませんでした。ポールは、たとえデイキンズの少年時代を知らなかったにしても、その代表作であるデビッド・コッパフィールドを読んで、そのなかのデビッドに自分の子供時代を投影して、共感を覚えたに違いありません。

国際ロータリー2001~02年度会長リチャード・D・キングは、その年度のRI会長テーマを、『人類が私たちの仕事 ( MANKIND IS OUR BUISNESS )』としました。クリスマス・キャロルをお読みになった方は、このテーマをご覧になって、「あつ、デイキンズだな」とお気付きになったことでしょう。キング会長も「ビクトリア時代の文学に通じているロータリアンなら、このテーマがチャールズ・デイキンズの人気物語『クリスマス・キャロル』から引用したものだとお気付きでしょう」といっています。彼は、カリフォルニア大学バークレー校出身、カリフォルニア州、ユタ州、連邦裁判所、最高裁判所の弁護士活動有資格者です。会長テーマを、ポール・ハリスが愛読した作品から引用するなどというのは、さすがにアメリカの知識階級出だなと感心させられます。

会長テーマの説明に入ります前に、キング会長のRIテーマについてのメッセージを、ここに要約しておきます。

「共に奉仕する同僚の皆さんこのテーマを掲げて、私は二つの誓約を果たすようにお願いします。その第一は、貧困、疾病、など人類を苦しめている諸問題に実行可能な解決策を提供することです。もし人類が私たちの仕事だとすれば、私たちの製品は奉仕です。そして会員は私たちの最も貴重な資産です。強力な会員組織を持たなければ、全世界のわたしたちの製品に対する需要に応ずることはできません。

第二の誓約は、才能や技術に恵まれ、その能力を社会の為に役立ちたいと思っている人々に手を差し伸べ、これを取り込むことです。

ロータリアンたるもの、マーレイと同じように、人道的な働きをせず生涯を送ったことを、後悔することのないよう、努力しようではありませんか。」

キング会長のメッセージの内容は、会員増強が前面に出すぎて、折角のデイケンズの名台詞も色あせて見えますけれども、それはさておき、マーレイの幽霊が「人類が私の仕事だったんだ。 ( Mankind was my business. ) 」と過去形で語ったことに、大きな意味があるのです。職業奉仕にしましても、私たちが死んだ後で「ああ、あの時もっと気をつけて、職業奉仕に気を配っておけばよかった」というのでは遅いのです。あなたの生きているうちに、ロータリアンとして悔いのないロータリアン・ライフを送っておこう。あの世に行ってからでは、どんなに後悔してももう遅い。それがデイキンズのいいたかったことです。キング会長もそれをいつているのですが、テーマを『 MANKIND IS OUR BUSINESS 』と現在形にしたことであなたがマーレイの轍を踏まないようにと訴えているのです。

デイキンズが、クリスマスをテーマにして書いた作品は五つあります。その第一作がこの『クリスマス・キャロル』です。本来少年少女向けの小説なのですが、悪徳高利貸のスクルージがマーレイの幽霊に会い、前非を悔いて心温かい老人に変わるという教訓的な内容で、いまでも大人にもよく読まれます。以下、その粗筋を書いておきましょう。なお、原文の引用は、全て村岡花子の訳によるものです。

「或るクリスマス・イブの、時間はもう午後三時を過ぎようとしている。ロンドンの街は、クリスマス・イブの準備で混雑しているが、高利貸しのスクルージだけは、街の喧騒とは関係なく、ストーブもろくに入ってない、凍えるような事務所で、一人金の計算をしていた。霧が窓や鍵穴から流れ込んで、冷え切った部屋の中を、いっそう寒々とする。そこへスクルージの甥や、社会奉仕団体から寄付募集の紳士が訪ねてくるが、クリスマスなどなにがめでたいのかといって、みな追い返してしまう。

仕事を終えたスクルージは、途中の酒場で安酒を一杯引っかけて自分の家に帰ってくる。家といっても、七年前に死んだマーレイの部屋に転がり込んだまま、そこで生活しているのだ。」

部屋に帰ったスクルージは、二重錠をおろして、寝巻きに着替え、スリッパを履いて、ナイトキャップをかぶり、点いているかどうかわからないように弱い暖炉の火に手をかざして、じっとしていますが、そこへジエイコフ・マーレイの幽霊が出てくるのです。この幽霊の表現が実に見事なもので、その様子が、むかし私が会ったことのある幽霊と、全く同じなのです。幽霊といいますのは、東洋も西洋も、昔もいまも変わりません。恐らくデイキンズも、本当に幽霊と会ったことがあるに違いありません。マーレイの幽霊は、腰に重い鎖を巻きつけています。

これからスクルージとマーレイの問答が始まります。其の中で、キング会長がテーマに選んだ『人類が私たちの仕事』の原文が出てきます。この部分は、すこし詳しく引用しておきます。

「熱心に力を尽くしているキリスト教的精神の持ち主であるならば、さまざまな有益なことをするためには、人間の生命は余りにも短かすぎると感じる。そうは思わないか。亦、一人の人間が失った機会はいかほど後悔しても、取り返しはつかぬということを、お前は知らずにいるのだ。私もそうだった。おお!私がそうだった。」

「だが、ゼイコフ、お前さんは仕事上手だったじゃないか」スクルージは答えます。

「仕事だって!」幽霊は叫びました。「人類の問題が私の仕事だったんだ。社会のためになることが仕事のはずだったんだ。慈善、あわれみ、寛容、慈悲、これがみな私の仕事のはずだった。私がやってた商売なんかは、こういう仕事の大海のなかのわずか一滴の水にも足りないものだったんだ!」

幽霊は、鎖を重たげに持ち上げながら続けます。

「めぐりゆく一年のなかで、今この季節に私は一番苦しむのだ。なぜ私は、気の毒な人たちをかまわずに、通りすぎたのだろう?東の国の博士たちをみすぼらしいあばら家へ導いていった、あのありがたい星をなぜ見上げなかったのだろう?その星に導かれて訪ねてやるべき、貧しい家もあったろうに!」

スクルージは幽霊がこの調子でとめどもなく話し続けるのを聞いて非常に驚き、がたがた震えだしました。

「私のいうことを聞きなさい!」と幽霊が叫びます。

幽霊には、あの世へ帰らなくてはならない門限がありますから、気が気ではありません。俺を余りいじめるなというスクルージに、幽霊は続けます。

「こうして坐っているのだって、生易しいことじゃありはしない。私が今夜ここへ来たのは、お前さんには、まだ私のような運命から逃れるチャンスと希望があると云うことを知らせるためなのだ。自分の力で自由になるチャンスと希望だよ、エブニゼル」

「お前さんのところへ三人の幽霊が来ることになっている」と幽霊は話を続けます。スクルージは、おびえた声で聞きます。

「それが今の話のチャンスと希望なのかね?」

「そうだ」

話おわると、幽霊はスクルージから離れてあとすざりします。そのたびに、窓が少しづつ開きます。幽霊が近ずくと窓はすっかり開け放たれ、空中から悲しみと後悔の入り乱れた声、なんともいいようのない情けない声が聞こえてきます。一瞬、マーレイの幽霊はその悲しみの歌に自分の声を合わせながら、真っ暗な闇のなかへ飛び去っていきました。

スクルージが窓から外を見ますと、空中には幽霊がいっぱいで、マーレイと同じような鎖を腰につけてさまよっています。なかには、スクルージが知っていた幽霊もいます。白いチョッキを着て、踵に馬鹿でかい鉄の金庫をつけた年寄りの幽霊は、スクルージが生前親しくしていた友人でしたが、昔子供連れのある哀れな婦人を助けてやらなかったことを、空中をさまよいながら、ひどく嘆き悲しんでいました。すべての幽霊たちの悲しみは、人間の世の中の不幸に助力したいと願っているのにもかかわらず、永久にその力を失ってしまっていることです。

やがて、マーレイの幽霊がいったように、スクルージのところに三人の幽霊が次々に訪れます。第一の幽霊は、過去のクリスマスの幽霊です。幽霊はスクルージに、かれの子供時代の姿を見せます。スクルージは、今の今まで全く忘れ果てていた、遠い昔のいじらしい自分の姿を眺めて泣き出します。やがて幽霊はスクルージの丁稚奉公時代の姿を映し、最後に貪欲で落ち着きのない目付き、あくせくと金勘定ばかりしている姿を、スクルージに見せるのです。

第二の幽霊は、「わしは、現在のクリスマスの幽霊だ」と名のります。幽霊は、スクルージに現在の姿を見せ、スクルージ自身がいった言葉を聞かせます。

「・・・・・・あんな役立たずの子どもなど、死んだほうがましだ。余計な人口が減るのだからね」スクルージは、自分のいった言葉を聞いて、うなだれて後悔の念でいっぱいになります。

「神の眼には、この貧しい男の子供何百万人より、お前のような人間こそ生きていく値打ちもなければ、生かしておくにふさわしくもないのだぞ」と幽霊にいわれて、スクルージはうなだれるばかりでした。

やがて、最後の幽霊がきます。未来のクリスマスの幽霊です。スクルージは、これまでに見た幻影に、反省の色濃く改心を訴えますが、幽霊はなかなか容赦してくれません。幽霊はスクルージを薄暗い部屋につれていきます。片隅の寝台の上に、布団も毛布も着ているものまで全部はぎとられた男の死体が横たわっています。顔は壁のほうを向いているので、誰だかはっきりと分かりません。部屋には、死体を見取っている人など一人もなく、泣いてくれるものもいません。スクルージは幽霊に、あれは誰の死体かときくのですが、幽霊はただ指差すのみで、答えてはくれません。

消える時間が近づいた幽霊は、スクルージをかれの事務所につれていきますが、そこではスクルージの知らない人間が椅子に坐って仕事をしています。いったい自分がいないのはどうしてだろうかとスクルージは考えながら、幽霊のあとに付いていきます。幽霊は、ある墓場にスクルージを導いて、ある一つの墓を指差しています。スクルージが何を話しかけても、ただ指で墓をさして黙って立っているだけです。スクルージが、幽霊の指の方向をたどっていき、そこにある荒れ果てた墓石を見ますと、そこには『エブニゼル・スクルージ』と彫ってあるではありませんか。スクルージは地面に膝をついて叫びました。「ではあの寝台に横たわっていたあの男は、私なのですか?幽霊さま!ああ、いやだ!いやだ!」。スクルージは、幽霊の衣の裾をしっかりと握り締めて、まだ続けます。

「私のいうことをお聞き下さい。私は、いままでの私とはちがいます。このようにお近付きにしていただかなかったら、ああなったにちがいないでしょう。けれどもあんな人間にはもう決してなりません。私に少しも望みがないのなら、どうしてこんなものを私におみせになるのですか?」

幽霊は、スクルージの手を振りほどいてきえていきます。スクルージは、自分のところに三人の幽霊を寄越してくれたマーレイに感謝しつつ、過去と現在と未来に生きることを誓うのでした。

すこし長くなりましたが、以上がクリスマス・キャロルの物語です。ロータリアンのあなたなら、心に響くなにものかが、必ずあった筈です。それが職業奉仕の心といってもいいのではないでしょうか。

(菅 正 明)

19世紀のドイツは、鉄血宰相ビスマルクの活躍した時代です。オットー・フォン・ビスマルクは、ナポレオンがワーテルローの戦いに敗れて、セントヘレナ島に流された1815年に生まれました。プロイセンのユンカー(土地貴族)の出で、オーストリア、ロシア、フランスの大使を務め、大いに外交的手腕を発揮した政治家です。その頃のドイツは、38の王侯国に分かれていました。ドイツと日本は大体同じくらいの広さです。徳川時代の大名の数は三百諸侯といいますから、一つの王侯国は徳川大名の10倍くらいの大きさだったということができましょう。そのなかの最大の王国であったプロシャの総理大臣になったのが、ビスマルクです。

ヨーロッパでは、4世紀から5世紀にかけて民族の大移動がおこり、5世紀末に成立したフランク王国がローマ・カトリックを導入して勢力を拡大、後にカロリング朝のカール大帝がローマ教皇から西ローマ帝国皇帝に任ぜられて、西ヨーロッパ世界ができあがりました。やがて九世紀になりますと、カロリング王朝が三つに分裂し、そのなかの一つである東フランク王国が現在のドイツ連邦の母体になったのです。

16世紀になって、宗教改革に端を発した30年戦争は、デンマーク、スウェーデン、フランス、スペインを巻き込んだ最後の宗教戦争となりましたが、戦乱があまり長く続くものですからみな草臥れてしまって、それぞれの国が自由に自分の信仰をもつことにして、平和条約が結ばれました。やっと戦争は終わったものの、その主戦場がドイツ領内だったので、戦後の荒廃は激しく、ドイツの復興には長い時間がかかりました。そのような状況のもとにあるプロイセンで頭角を現したのがビスマルクです。

なにしろビスマルクは、「問題は、言論と多数決で解決するものではありません。それを決定するには、鉄と血があるのみです」と演説するくらいの人です。軍備拡張に専念し、参謀総長モルトケの天才的ともいうべき戦略とともに、それまでは負けてばかりいたオーストラリアやフランスとの戦争に勝利をおさめて、ドイツ統一を実現、ウイルヘルム一世が帝位について、ドイツ帝国が誕生したのです。明治政府がこのころのドイツ帝国に惹かれたのも無理ありませんね。但し、ドイツ帝国成立の式典が行われたのは1871年のことですから、帝国の発足としては、日本のほうが先輩になる訳です。

マックス・ウエーバーはドイツの社会科学者ですが、何故ここでウエーバーのお話をしなければならないかといいますと、ロータリーの職業奉仕は、プロテスタンテイズムの職業観が分かっていなければ、理解出来ないと思うからです。ロータリーの創立は一九○五年、その同じ年にマック・スエーバーの代表的な著作『プロテスタンテイズムの倫理と資本主義の精神』が『アルヒーフ』に掲載されました。この論文でウエーバーが訴えたことは、西欧における資本主義の発達には、その発達を担う人間を内面から支える精神的エネルギーが必要だということです。そしてその精神的エネルギーを発動させる力(これをウエーバーはエートスと呼んでいます)になったのが、プロテスタンテイズムの倫理観だということです。

一方、ポール・ハリスがロータリー・クラブを創ったとき、はじめは職業奉仕というような考えは全くなかったのですが、やがて職業倫理を守らなければ事業の発展はありえないということに気が付きました。それが綱領のなかに明記されたのは一九一八年ですが、もともと禁欲的職業倫理を守れというのは、ハリスが育ったニューイングランドのピューリタンの職業観そのものだったのです。マックス・ウエーバーも『プロテスタンテイズムの倫理と資本主義の精神』を完成するにあたっては、ニューイングランドへの旅行体験が大きな役割を果たした訳で、ロータリーの職業奉仕とマックス・ウエーバーとは切っても切れない関係にあるのです。

ここですこし横道にそれますが、宗教改革についてお話しておきましょう。1517年ドイツのアウグステイヌス修道会僧マルテイン・ルターが、カトリック教会で売り出した冤罪符に疑問を抱いて、質問状を教会の扉に張りだしました。もともとはラテン語で手書きの文書だったのですが、これが大きな反響を呼び、ドイツ語に翻訳されて広まり、人々の共感を呼ぶことになり、やがて宗教改革の導火線になったのです。もともとこの冤罪符というのは、中世末から近世にかけてローマ・カトリック教会から発行され、信者がこれを購入すれば自分の犯した罪が許されるというもので、聖職者はこれによって大きな利益を得ました。たまたまローマのサン・ピエトロ大聖堂を建設するための資金集めに、冤罪符が売り出され、それにルッターが疑問を投げかけたという訳です。冤罪符の販売に活躍したのはテッチエルというライプチッヒの修道士だったのですが、相手の身分や収入、罪の深さによって値段を決め、「金が箱の中でチャリンと鳴れば、魂は天国へゆける」と弁舌さわやかに売りさばいたのです。ルターならずとも疑問に思うのはあたりまえです。

マルテイン・ルターは、1483年鉱夫の長男として生まれ、エルフトで大学生活を終えた後、そこにあるアウグステイヌス会の修道院で修道士としての生活を送りました。活版印刷を創りだしたグーテンベルグもエルフト大学に学んだという説があります。グーテンベルグの発明がなかったら、宗教改革は随分遅れたであろうといわれています。ルターの最晩年、若き宗教改革者ピエル・カルバンはシュトラスブルグにやってきました。マックス・ウエーバーも大学生活を送るためそのシュトラスブルグに住むことになるのですが、何か見えない糸に操られているような気がしないでもありません。このあいだグーテンベルグという銘柄のワインにお目にかかりましたけれども、これはあまり美味しいものではありませんでした。

カルバンはフランスの宗教改革者で、ルターよりも厳しい考えをもった人です。改革運動で取締りが厳しくなると、スイスに逃れて活動しました。正しい信仰は聖書だけにもとずくものであるという聖書中心主義を唱え、職業を神聖なものと考え、倹約、質素、勤労を重視せよと説きました。プロテスタントの禁欲主義を唱えたのは、カルバンに始まるといってよいでしょう。

ルターは、聖書をドイツ語に翻訳するという大事業をした人ですが、ルターが使ったドイツ語のBerufには、職業という意味と同時に神から与えられた使命という意味がふくまれています。この翻訳にあたっては、職業は神から与えられたものだというルター自身の職業観が強く影響していると思われます。これからやがてカルバンの職業観、即ちプロテスタントが遂行する世俗的業務即ち職業は、神の召命に応えるべき義務であるという『天職理念』として、受け継がれていくのです。こうして私たちの職業は天職だという思想が生まれたのです。そして、天職を全うするために、自分の精神的・肉体的エネルギーの全てを捧げて、いいかえますと、他のことについては全て禁欲してひたすら努力する。これがプロテスタントの禁欲です。私たちが普通禁欲といいますと、酒もタバコもすべての欲望を断ってしまうという、否定的な面ばかりしか頭に浮かんできませんけれども、キリスト教の場合は、神の意思を実現するために他の欲望を我慢するのですから、禁欲についての受け止め方が随分違います。

「自分の職業に専念することが職業奉仕ではない」とよくいわれますけれども、私はそれでもよいと思っています。何故なら、ロータリーの職業観はプロテスタントのそれによって成り立っているのですから、職業に専念することによって神のみこころに沿い社会の役に立つことと、職業によって儲けるという、職業の宗教的意味と世俗的意味の両方が、職業に専念することによって、同時に満たされるからです。ロータリーの綱領はまさにこのことをいっているのではないでしょうか。職業は金を儲けるためにすること、奉仕は儲けた金を使うことという発想は、ロータリーでは成り立たないのです。ただし、ロータリーは宗教でも倫理団体でもありませんから、プロテスタンテイズムが持っている職業観を全ての会員が持てとはいいませんけれども、ロータリアンは少なくともこのような考えが、職業奉仕の背景にあるということを忘れないでください。

マックス・ウエーバーは1864年、ベルリン市庁に勤める有能な法律家マクシミリアン・ウイルヘルム・ウエーバーを父とし、プロテスタントだった母ヘレーネとのあいだの長男として生まれました。母方の祖父は、妻の持参金で豪邸を建て学問と著述に専念した有力者でしたが、かなりエキセントリックな男だったようです。父親のマックスは、後に政治家となり、ビスマルクの同調者としての政治生活を送りますが、俗物的なブルジュアの典型的な人物だったようで、そのため妻ヘレーネの信仰心は日常生活のなかで満たされることがなく、両親の家庭内での確執が、マックスの性格形成や学者としての研究方向に影響したといわれています。

マックス・ウエーバーは、ベルリン大学で助教授論文としてローマ農業史論を書いたことから、学者の道に進むことになります。1904年8月、フライブルグ大学教授の職にあったマックスは、第一話にありましたように、ハーバード大学の招待を受けて妻のマリアンヌとともに、セントルイス万国博覧会を機に開催されることになった、世界学術会議出席のため、渡米することになります。マックスの代表的論文『プロテスタンテイズムの倫理と資本主義の精神』は、すでに第一章は渡米前に完成しており『アルヒーフ』に掲載されますが、それが含まれている第一巻ができあがり、その大改定が行われて出版されるのは、彼が急性肺炎で世を去る1920年のことです。

マックスの時代をもっと分かりやすく日本人に当てはめていいますと、彼は森鴎外より二つ年下です。鴎外はいまでいう極めつけのマザコンで、幼児教育を徹底的に受けた秀才ですから、1882年20才ですでに東大医学部を卒業して陸軍省に入り、1884年ドイツに留学、ライプチッヒ、ベルリンを訪れています。鴎外がドイツを訪れたころ、マックスのほうはまだ大学生で、ベルリン大学で講義を受けていました。

マックス・ウエーバーが『プロテスタンテイズムの倫理と資本主義の精神』を出版するのは1905年のことですが、エンゲルスがマルクスの『資本論第一巻』を出版したのは、それより十年前の一八九五年です。カールマルクスは1818年、ドイツ ライン州トリール市の裕福な弁護士の家にうまれ、ボン、ベルリン大学に学び、ベルリン大学の教授を目指したのですが、果たせませんでした。ウエーバーもハイデルベルグついでベルリン大学に学んで、後にベルリン大学の助教授を勤めています。二人のベルリン大学での生活には50年くらいの開きはありますけれども、ウエーバーが学生生活を送っていたころ、マルクスはロンドンで悲惨ともいってよいような家庭を持ちながら、資本論の執筆に没頭していたのです。そんなマルクスを支えながらマルクスとともに『共産党宣言』を執筆し、マルクスの没後『資本論第二巻、第三巻』を出版したエンゲルスは、マルクスと同じドイツはライン州の生まれですが、中学中退の後丁稚奉公をし、ベルリンで志願兵として勤務の傍ら、ベルリン大学の講義を聴講していました。後にパリに亡命中のマルクスと出会い、終生かわらぬ二人の関係が生まれるのです。

産業革命の後、目覚しい経済発展を遂げつつあるイギリスで『資本論』が書かれ、統一ドイツ帝国が誕生、ドイツ資本主義発展の過程で宗教社会学が完成されるとは、二十一世紀の現在から振りかえってみて、大変興味あることではありませんか。

マックスの語学的才能は、素晴らしいものでした。一九○五年、ロシア革命がおきますと、三ヶ月でロシア語をマスターして複数の現地の新聞に毎日眼を通して、政情の分析を行ったそうです。これをみて思いだしますのは、河上肇の自叙伝のなかに、彼が京都大学教授だったころ、三週間でロシア語の原典を読むことが出来るようになったと書いてありました。才能のある人は違いますね。

アメリカでのマックスの経験は、『プロテスタンテイズムの倫理と資本主義の精神』の完成に大きく影響したと思います。この論文の邦訳は昭和13年( 1938 ) 、梶山力によって行われましたが、その後何度か改定され、現在は一九八九年に大塚久雄の翻訳で、岩波文庫として出版されています。なにしろ難解な内容ですから、私のような門外漢にはとても理解できません。幸い、文庫版に詳細な訳者解説が付いておりまして、これが素人にとって大へん役に立ちます。 また、岩波新書に『大塚久雄著・社会科学における人間』という本がありますが、これが大塚史学を理解するためには内容豊かな手引書になりますから、興味のある方は是非読んでください。ポール・ハリスは、「ロータリーは宗教でもなければ、宗教に代わるなにものでもない。それはただ古くからある道徳観を実践しようちするものだ」といっています。ポールがいう『古くからある道徳観』といいますのは、とりもなおさずニューイングランドにおける市民生活、すなわちピューリタンの生活のなかで守り継がれてきたものに他なりません。それを社会科学のなかに体系づけたのが、マックス・ウエーバーの宗教社会学だといってもよいでしょう。因みに、日本のロータリーでマックス・ウエーバーを取り上げたのは、東東京ロータリー・クラブの佐藤千寿パスト・ガバナーです。大塚久雄は、1907年生まれ、東京大学を卒業後、長く東大経済学部の教授をされた方ですから、佐藤パスト・ガバナーも学生時代その講義をお聴きになったのではないでしょうか。以下の話は、大塚久雄、佐藤千寿お二人の受け売りだと思ってください。

16世紀のヨーロッパでは宗教改革の結果、カトリック教会から離れてプロテスタントの流れがおこりました。プロテスタンテイズムの指導者たちは、例えばルッターは鉱夫の息子ですし、パニヤンは鋳掛屋、カルバンは田舎の職人の息子、メイフラワー号に乗って新大陸を目指した人々の多くもそうですが、当時の中小の生産者階層出身の人が多かったのです。彼らは、それまでのあくどい商人や高利貸に対して、強い批判を持っていて、ある時期には、買占めや暴利をむさぼったとか、高利貸をやったとかの疑いをもたれると、教会から締め出すこともありました。

ウエーバーによりますと、これらの中小の生産者層に属する人たちは、次のように考えました。隣人たちが必要としていたり、手に入れたいと思っているような物を作って市場に出します。その際、掛け値をいったり値切ったりして儲ける、そういうやりかたは一切しないで、『十円のものは十円のものと交換』、つまり適正な正常価額で提供するというやりかたで市場に出すのです。そして、適正な儲けを手に入れるのですが、このようにして商売で儲けを手に入れるのは、貪欲の罪どころではなく、倫理的にはよい行いではないか、いや、もっといえば、神の聖意にかなう隣人愛の実践ではないかと考えるのです。そう彼らは問いつつ、さらに「もし自分たちの造っているものが、本当に隣人たちが必要とし、手に入れたいと思っているものであれば、必ず市場でどんどん売れるに違いない。そうすると、当然儲かる。そうだとするとその儲けは、且つての商人たちが得た、投機的な暴利や高利貸などとは全く違って、隣人愛を実践したことの現れになり、聖意に適うものである」と考えました。

その場合、彼らのその営みー生産―が、隣人たちが必要としているものを供給しているかどうか、即ち隣人愛の実践になっているかどうかは、市場に出した商品が売れて、儲けがあったかどうかによってはじめて分かることです。儲けがあることが、隣人愛を実践したことの判断の基準になってきます。もしそうであるなら、人はそういうかたちで働き、金儲けに努めなめればなりません。そうすることは、まさしく彼らにとって倫理的な義務だと考えたのです。隣人愛の実践として、私たちは日常の仕事に励まなければならない、いい換えますと金儲けのためでなく、仕事そのもののために励まなくてはいけない、そして、その結果として儲かる。全く合理的な考えというべきではないでしょうか。

プロテスタンテイズムの信徒たちは、隣人愛の実践を続けることによって、神の栄光を増すのみでなく、自分達自身も神に救われることを証したいという情熱をもって、生産に励んだのです。自分達は、さまざまな商品を造って、市場に供給している百姓や職人だ。だから自分達にとっては、隣人たちが本当に必要とし、手に入れたいと思っているものを、できるだけよく作り、できるだけ安い値段で供給することが、先ずやらなければならないことなのだと、彼らはこう考えたのです。

イギリスやアメリカで、掛け値や値切ることをやめ、定価販売を広めていったのは、プロテスタントたちだったのですが、定価販売をした背景には、このような考えがあったからです。このようなプロテスタンテイズムの倫理観は、できるだけ安く仕入れて高く売る式の古い商業観を排除して、正常価額での売買を原則とする市場メカニズムをつくりあげ、合理的な原価計算のうえにたつ近代産業経営の基盤となりました。

プロテスタンテイズムのこうした合理的な考え方は、プロテスタントの教会が、信者の数や寄付金の多寡を数字で表す傾向にも現れています。ロータリーも同じですね。会員増強、R財団寄付の比較など、私どもはいささか数字にこだわり過ぎはしないかと思いますが、これもプロテスタンテイズムの影響でしょう。

ところで、自分の肉体的、精神的エネルギーをつぎ込んで職業を続けた結果、利益が増えます。儲けて財産が増えるということです。ウエーバーは、利潤が多くなって金持ちになってくると、その内面では信仰がいままでの力を失いはじめるといいます。すなわち、儲けて財産がふえますと、神の召命への確信を得たいという宗教的情熱がかげを潜めて、利潤追求への情熱だけが強くなってくる、そしてやがては後者が優位になって、ついにはイギリスの産業革命をおこすようになったと、ウエーバーは考えます。

ではその儲けた財産について、プロテスタントはどう考えたかといいますと、これは後でお話する石門心学でも同じように考えるのですが、儲けた財産は自分の物ではあるけれども、天職によって与えられた神よりの預かりもであるというのです。ですから、その一部は隣人のため、社会のために役立てなければならないと考えます。利益に応じて自分の財産の一部を、社会のためや公共事業に寄付するというのは、その表れといってもよいでしょう。ロータリーの寄付も、これと同じ考えです。ですから、財団の寄付にしましても、会員夫々の考えで金額を決めるべきで、一人頭幾ら寄付するという最近のやり方は、納得できません。

こうして『資本主義の精神』が生まれてくるのですが、『資本主義の精神』には、二つの中心点があります。一つは仕事(天職)への専念、もう一つは利潤の獲得です。この二つがいつまでもバランスを保っているといいのですが、現実にはなかなかそうはいかないものです。新約聖書の中に『神と富とに兼ね仕うることをえず』というイエスの言葉があるそうです。現実には、一方の点からもう一方の点へとシフトして行き、金儲けと隣人愛とは次第に乖離する方向へと進むのです。

産業革命の後、資本主義の社会が確立、かっての資本主義を推し進めた『資本主義の精神』は、もはや足場を失ってしまい、世俗の職業は神から与えられた使命だとして固く守られてきたプロテスタンテイズムの倫理観も宙に浮いてしまいます。

以上が、マッムス・ウエーバーの考えですが、彼はここでこの世界の将来について、次のように予言をしています。

「将来この資本主義という鉄の檻の中に住むものは誰なのか、そして、この巨大な発展が終わるとき、まったく新しい予言者たちが現われるのか、あるいはかっての思想や理想の力強い復活が起こるのか、それともーそのどちらでもなくてー一種の異常な尊大さで粉飾された機械的化石と化することになるのか、まだ誰にも分からない。それはそれとして、こうした文化発展の最後に現れる『末人たち』にとっては、次の言葉が真理となるのではなかろうか。『精神のない専門人、心情のない享楽人。この無のものは、人間性のかって達したことのない段階にまですでに登りつめた。』と自惚れるだろう。」

『精神のない専門人、心情のない享楽人。この無のもの( Nichts ) は、自分自身が、歴史上かって人類が到達したこともないような人間性の最高の段階にまですでに登りつめた、とうぬぼれるようになる』と、マックスはこのように見通しているのです。

大塚久雄はマックス・ウエーバーのこの言葉を解説して、『精神の無い専門人』とは、それぞれ専門化された特殊な分野の仕事に専念し、その分野では最高の知識と経験とを持っているのですが、その仕事が社会全体との関わりのなかで、また、人類の運命にとって、どのような意味をもつか、などについては全く知らないし、また知ろうともしない人たちのことであり、また、『心情のない享楽人』とは、さまざまな形の感覚的な刺激をやたらに追い求めるけれども、それが真の楽しさ、真の美しさとして、彼らの内面にまで終に到達することがない。そういう感受性を、どこかに置き忘れてきたような人たちのことだ、といっています。資本主義の文化は、経済的矛盾の問題だけでなく、精神的貧困の問題まで重く抱え込むことになるというのが、マックス・ウエーバーの結論です。二十世紀が抱えこんだこの問題を解決していこうというのが、ロータリーではなかったのでしょうか。

(菅 正 明)

関が原の合戦が終わって、徳川幕府が開府したのが1604年、その3年後にイギリスがアメリカ大陸にヴアージニア植民地を開き、ジエームスタウンを建設しました。それから170年経って1776年アメリカ独立宣言、日本では、ちょうど田沼意次が権勢を振るった時代で、平賀源内がエレキテルで江戸っ子をあっといわせたのもこのころです。戦国時代から徳川幕府が鎖国政策をとるまでのあいだ、日本と外国との交流は、今日私たちが想像する以上に盛んでした。鎖国後も、幕府の正規の交流や各藩の密貿易などで、海外との交流は絶えることなく、海外貿易は勿論のこと、オランダ語や中国語からの翻訳を通して、ヨーロッパの文化は数多く伝えられていました。ですから、例えば1823年にシーボルトが来日したときは、彼が驚いたほど全国にその学問を吸収しようとする若者が輩出したのです。

ヨーロッパの天文や地理、医学など自然科学関係の知識が入ってくれば、当然人間のものの考え方も変わってくる訳ですから、それがやがて、明治維新を契機として、急速な日本の近代化が始まるのです。

前回お話したマックス・ウエーバーは、「日本人が資本主義の精神をみずから作り出すことはできなかったとしても、比較的容易に資本主義を外からの完成品としてうけとることができた」といっています。ウエーバーがいう資本主義の精神は、日本には生まれなかったかも知れませんが、プロテスタンテイズムが固く守ってきた禁欲と勤労とを主体とした職業倫理は、日本では芽生えることはかったのでしょうか、この疑問に応えてくれたのが、鈴木正三(すずき しょうさん)です。NHKのテレビ・ドラマで『天花』というのをやっていました。現代の家族が抱えるいろんな問題をとりあげてそれを解決していく、私は最近のNHK朝のドラマでは傑作だと思っているのですが、それに鈴木昭三(しょうぞう)という、自分が住職である禅宗のお寺を女房が経営する保育園の借金で潰したという、面白い坊さんがでてきます。作者は恐らく鈴木正三をイメージして、この人物を描いたに違いありません。鈴木正三は、徳川時代のはじめにあって、勤労と禁欲の意味、商取引における利潤の意味などを、はっきりと彼の信者に伝えて、当時の藩幕体制のもとで、商人や職人の職業の価値とその行動倫理を明確にしましたが、このことは現代から振り返ってみますと、世界史的にも大へん意義あることです。鈴木正三については、東海銀行取締役、拓殖大学教授を歴任した神谷満雄と仏教学者中村元お二方の詳細な研究があります。この話もお二人の著書を中心に進めていくことにします。

鈴木正三は1579年(天正7)、三河国加茂郡足助(あすけ)庄則定、現在の愛知県足助町に一五七九年に生まれました。鈴木家は、もと紀伊熊野の出身で姓を穂積といいましたが、後に松平に仕えて鈴木と名乗り、正三は鈴木忠兵衛重次の長男として生まれました。母は、今川家の家臣の出だそうですから、純然たる武士の家系です。

足助町には、正三にかかわる史跡があり、足助資料館にある鈴木正三研究会からは、毎年鈴木正三研究収録が発行されていますから、興味をおもちの方は是非ご覧ください。

正三は、関が原の役に、二十三才で本田佐渡守の配下として、徳川秀忠の軍に従って出陣しました。秀忠軍は、中仙道を進んで、途中真田昌幸・幸村父子の守る上田城を攻めあぐねたため、関が原の合戦には間に合いませんでした。もし秀忠が、関が原の合戦に間に合っていたら、その後の徳川幕府の藩幕体制も随分変わっていたでしょうし、正三も出家することなく武士として一生を終えたかも知れません。それはさておき、その後正三は、大阪冬の陣、夏の陣にも出陣して武功を立てています。秀忠は正三と同じ年齢でしたから、後年正三が出家するときも、あれは隠居したのだといって、正三に対しては、当時としては以外と思われるような寛大な扱いをしています。また、正三もそれに応じて、生涯徳川家に対する忠誠心を失いませんでした。

関が原合戦の後、天下の政権は実質的に家康のものとなり、徳川幕藩体制ができあがっていくのですが、この頃から榊原康政や大久保忠隣のような武功派が影を潜め、家康の側近として、本多正信父子のような行政手腕のある実務家、いわゆる『吏僚派』が重用されるようになるのです。鋭敏な頭脳の持ち主である正三は、そのことを見通していたのではないかと思います。徳川幕府草創期の家康家臣団の動きについては、後年新井白石や室鳩巣などの記録がありますけれども、当時の旗本武士団のなかに、正三のように自由な精神の持ち主がいたということは、特筆に価すると思います。自由なこころを持った人は、他にもあったに違いありませんけれども、出家という思い切った行動によって自分の意志を表したということが、正三の見事なところです。

正三は幼少の頃から、生死の問題について疑いをもっていたとのことです。これは後から弟子たちによって作られた話かもわかりませんが、武士としての鍛錬をつむ傍ら、生きるとは何ぞやとか生死とはなにかなどの悩みを抱えて方々の寺院を訪ねては、お坊さんと付き合っていたことは事実です。1620年、四十二才のとき、ふと世を厭つて出家しました。当時は、まだ徳川政権が発足したばかりですから、士農工商の身分制が厳しかったはずです。その時代に幕府のエリート武士が、プロの僧侶集団に入門するのではなく、僧侶世界とは全く無関係にただ一人、突然出家するというのですから、よほどの決心だったでしょう。

出家後は方々を行脚し、一時は栄養失調で死にそうになったこともありましたが、医者になっていた弟の勧めで肉を食べたところ元気になりました。食肉については、周囲の人々から非難されましたけれども、「恥知らずの正三なればこそ、生命を養ひ立て、今日に存命して、修行も大略には仕上せたれ」と正三自身、後に述懐しています。僧侶というよりも自由人正三ですね。正三が仏道に入いったのは、僧侶になるためではなくて、自由人になりたいためだったのかも知れません。その後も正三は修行を続けましたが、六十一才のとき、1639年(寛永16)8月28日の暁に突然『はらりと生死を離れ』て、悟りを開いたそうです。

正三、五十九才のとき、島原の乱が起こりました。正三の弟三郎九郎重成はこの戦に武功があり、後、天草代官となって赴任、正三は六十三才の高齢でしたが、弟とともに天草に赴き、天草の乱の戦後処理に貢献しました。いま天草の本渡市にある鈴木神社は、正三、重成、それに正三の長男で重成の養子となった重辰の三人が祀ってあります。

天草に三年間止まった後、正三は郷里に帰りますが、郷里の二井寺、恩真寺に梵鐘を寄進、二井寺の鐘には『士農ト工商トソノ業ニ励ムモノ』と銘しています。

1648年(慶安元)、正三は六十九歳の高齢で江戸に出、1655年(明暦元)「安然と遷化」しました。時に七十七才でした。イギリスでは、プロテスタント革命が起こったころです。 正三にとって幸いだったことは、恵中や雲歩などというよい弟子たちにめぐまれたことです。ことに恵沖は、晩年の正三に付ききりで、その言行を詳細に記録しています。正三は遷化の年、すでに死期の迫ったことを感じ、江戸神田にある弟重之のところに移ります。二間四方の座敷といいますから、八畳の間でしょう。「好き死に場所見付けたり。これにて死せんずよ」といってそこに住んだのですが、間もなく6月25日、申の刻といいますから夕方五時頃亡くなります。 このとき「正三ハ死ヌトナリ」という有名な遺偈を遺すのですが、私には正三のそんな劇的な最後よりも、眠るが如く静かに生涯を閉じたほうが、自由人正三の最後のようで好ましいと思います。正三の弟子恵中は、師匠のことに関してすこしオーバーに表現する傾向がありましたから、正三の最後についても、師匠のことを思う余り、いささか劇的に描きすぎたのではないでしょうか。

正三は、徳川幕藩体制が樹立されたばかりの時期に、士農工商の最上位に立つ武士でありながら、その地位を投げ打って出家したのです。しかも、出家するにあたっては、特定の宗派に属していた訳でもなく、また特定の師について修行した訳でもありません。当時の仏教界の状況からは、とても考えられないことで、彼にとっての仏教は、自我実現の方便だったのでしょう。ですから正三は、特定の宗派意識もありませんでしたし、宗派の開祖とか、その時代における特定の僧侶の宗教的権威も認めなかったのです。そのことがまた、諸宗派から正三攻撃の材料にされたのだと思います。既存の宗教的権威を否定し、一般市民にたいしては、職業倫理の確立を説いたのですから、まさに正三は、西洋近代の宗教改革の思想そのものを実行した人だといってもよいでしょう。

正三は仏道修行について、「自己の主人、六根自由する物を知る」のがその目的である、「そこそこをはなれて立ち上がり、自由なる身となるべし」と説いています。仏教のさとりとは、なにものにも捉われない境地を指す言葉ですが、彼が職業倫理を説く言葉のなかには、「修行の功にて、世間を次第に自由に使う也」のように自由論がいたるところに出てきます。彼の自由論は、宗教的意味合いが強いのですが、やがてそれは近代的な思想の自由へと進んでいくものです。

自由な心を求めた正三は、現実社会での自由な行動を重視しました。「後世を願ふといふは、死して後のことに非ず、現に今苦を離れて大安楽に至ること也」と、死の覚悟は、来世における極楽往生のためでなく、現実社会における行動を大切にして、そのために、「死ぬためには死ぬ」という覚悟を重視したのです。また、正三は「我は終に今迄人を欲深しと思いたる事なし。只世の中には我独り欲深き者と思う也」など、他人に対しては寛容で、自らに対しては厳しく律するというのが一貫した生活態度でした。正三のこの自らに対する厳しさといいますか、禁欲的態度は、彼の職業倫理を説くなかにも、出てきます。社会に対する批判的態度、こころの自由、現世における行動の尊重が正三の基本的な態度です。かれの職業生活についての考え方も、この三つの態度の表れといってよいでしょう。

正三の門人恵中が、正三の第一の主著といっている『万民徳用』では、「何の事業も皆佛業也。人々の所作の上において成仏したまうべし」と、世俗的な職業に専念することが即ち仏道修行であることを説いており、正三自身も、職業即仏道修行の思想を説いたのは自分が始めてであるといって自ら誇っています。中村元も『近世日本の批判的精神』のなかで、正三の考えは宗教改革におけるカルバニズムのそれと対比させて考えるべきであると書いています。カルバンは、1564年五十五才で世を去っていますから、カルバンの百年後に正三は、職業倫理の中核に仏教があると説いたことになります。その思想がヨーロッパにおける宗教改革の思想と同じだというようなことは別にしても、徳川時代の初期に日本にもこのような職業観が芽生えていたということは、高く評価すべきでしょう。それはただ単に正三だけがそのような考えを持ったのではなく、当時の民衆のなかにも、同じ職業意識が生きていたということに他なりません。序でながら、イギリスにおけるピユーリタン革命時代の指導者だったバクスターが生まれたのは、正三より40年ほど後ですから、正三の説いた内容が如何に斬新なものであったかがお分かりだと思います。

日本では、多くの仏教者は世間を離れ山中にこもるとか、寺院の中で生活して修行することが、僧侶の生き方であるとされていました。ちょうど、カトリックの修道院での修道士たちの生活と同じですね。また、正三の時代、一般の在俗の信者は、夫々自分の職業を続けながら信仰をもっていたのですが、仕事と信仰とは別だという考えでした。ところが正三は、世俗的な職業を続けることが、即ち仏道修行であって、万民すべてそれによって仏となるというのです。「仏法修行は、諸の業障を滅尽して、一切の苦を去る、此の心即ち士農工商の上に用ひて、身心安楽の宝なり」と正三は教えます。ここでは、仏教の言葉で書いてありますけれども、とりもなおさずプロテスタンテイズムにおける『職業は神の思し召し』という職業倫理観に通じるものがあります。また、正三は「一切の所作、皆以って世界のためとなる事を以ってしるべし」といっていますが、まさにロータリーの職業奉仕そのものではありませんか。

『万民徳用』は、士農工商夫々の職業倫理を説いたもので、このなかで先ず初めの『武士日用』は、武士の身の処し方について書かれたものです。現在ですと『現代官僚訓』とでもいえばいいでしょう。官僚に対する倫理訓として読んでいくと大へんおもしろいのですが、ここでは省略します。

あるとき一人の百姓が、正三に「百姓仕事が忙しくて、信心する閑がありません。それで地獄に落ちるのは無念の極みですから、どのようにしたら仏さまのご利益を得ることができるでしょうか」と尋ねます。百姓のこの問いに答えたのが『農人徳用』です。これに対して正三は「農業則ち佛行なり。意得悪しき時は賎しき業也。信心堅固なる時は、菩薩の行なり」といっています。農業をする以外に信仰生活があるのではなく、百姓にとつては、農業をすることが信仰生活である、また、百姓仕事がそのまま仏道修行になるかどうかは、農業をする百姓の心のもちかた如何によって決まるというのです。ロータリーは心に刻まれたなにかであるとは、ビル・ロビンソンの言葉ですが、相通じるものがあるのではないでしょうか。

『農人日用』の次には『職人日用』があります。職人とは、士農工商の工に対してです。ある職人が、「死後の冥福を祈ることが大切だと思うのですが、家業に追われて、その暇がありません。どうしたら、仏様のご利益を得ることができるでしょうか」と正三に聞きます。正三は、「どんな仕事もみな佛行だ。職人の仕事をちゃんとやっておれば、成仏する。一切の仕事は、全て世の中のためになるものだ。鍛冶屋がいなければ道具が手に入らぬ。百姓がいなければ、食べ物ができない。商人がいなければ、世の中の流通がうまくいかない。学問する人あり、文章を作る人、医者その他、ことごとくよのためとなるものは、全てこれただ一仏の徳から生まれでた働きである」と教えます。まさに天職の理念です。

士農工商の最後は、商人の職業倫理である『商人日用』です。ここでも一人の商人が、正三に「たまたま人界に生を受るといへども、つたなき売買の業をなし、得利を思ふ念休む時なく、菩提にすすむ事叶わず、無念の到なり。方便を垂れ給え」と、問います。商売で儲けるのに忙しく、信心で悟りの道に進むことができませんが、どうしたらよいでしょうかと、百姓や職人と同じことを聞きます。ここで正三はなんと答えたかといいますと、「売買をせん人は、先ず得利の増すべき心づかひを修行すべし」と、商人は先ず金儲けを追及すべきことを教えます。正三のいう『心づかひ』とは、「身命を天道に擲って、ひとすじに正直の道を学ぶことなり」です。

さらに正三は続けます。すこし長くなりますが、彼の言葉を次にご紹介しましょう。

「正直の人には、諸天の恵み深く、仏陀神明の加護ありて、災難を免れ、自然に福をまし、衆人に敬愛され、万事心にかなうようになり、これにたいし私欲をもっぱらにして自他を隔て、人を抜きて利を得んとする人は、天道たたりありて、禍をまし、万民の憎しみをうけ、衆人の愛敬なくして、万事こころにかなわざる仕儀にいたる。

この売買の作業は、国中の自由をなさしむべき役目の人びとに、天道よりあたえられたるところとおもい、身を天にまかせて利を得んとする心たゆみなく、つねに正直をむねとして商いすれば、火が乾けるものにつき、水が低きに下るように、万事心にかなうにいたるべし。

さらに、この身を世界に擲ち、ひとすじに国土のため万民のためとおもい入れて、自国のものを他国に移し、他国のものをわが国に持ち来たりて、諸人の心にかなうべしとの請願をなし、国国をめぐることは、業障を滅ぼす修行なりと心得て、山山を超え、大河小河を渡りて心を清め、漫漫たる海上に船を浮かべる時は、身を捨てて念仏し、一生はただ浮世の旅なることを観じて、欲を離れて商せんには、諸天これを守護し、自然に菩提心成就して、ついには無碍大自在の人となり、乾坤に独歩すべし。この理、堅固に用いよ、用いよ。」

どうですか。殊更に現代文に変えなくても、このまま読んでくだされば、正三の説教の真実に触れることができ、意味は十分いお分かりだと思います。ロータリーの職業奉仕そのものですね。徳川時代のはじめ、身分制が厳然と守られていたなかで、士農工商の一番下にある商人に職業奉仕を説いた、鈴木正三を素晴らしいと思いませんか。

また、正三は別のところで、心の修めかたを重視していますが、心の持ち方だけでは駄目なので、『ただあきなひをもし、奉公をもせよ、猟すなどりもせよ。かかるあさましき罪業にのみ、朝夕まどひぬる我等ごときのいたずらものをたすけんとちかいます阿弥陀如来の本願にてまします』と教えます。心を修めて、しかも世俗のなかで職業倫理を実践するところに仏教の本質があると説くのです。佐藤千寿は、『決議23~34』についてのコメントのなかに、「ロータリーは単なる心の持ち方だけでなく、またロータリーの哲学も主観にとどまることなく、実際の行動に移さなければならない」と書いていますが、まさに正三の思想そのものです。

(菅 正 明)

江戸開府から百年経って元禄のころになると、戦国時代の気風もうすれ、幕藩体制も完備して、新たな価値観が生まれてきます。明治維新から百年経った平成の現代はどうでしょうか。明治維新の記憶は現代の人からは忘れられてしまって、残っているとすれば、遺伝子の中だけになってなってしまったかなと思われるくらい、平成の生活も社会思想も、明治維新のころのそれとは全く異なったものになってしまいました。しかしながら、過去の日本人の行動と思想は、平成人の心のどこかに、必ず残っているはずです。

皆さんもご存知の新井白石は、これからお話する石田梅岩と同時代の人と考えてよいでしょう。白石には『折りたく柴の記』という自叙伝があります。フランクリン自伝と比すべき世界有数の自叙伝で、桑原武夫によって現代語訳されています。その中にこんな話があります。

「白石の父が、75才で高熱をだし危篤状態になった。かねてから『若い人ならともかく年のいった者が、命には限りがあることも知らないで、薬のためにかえって息苦しいありさまで死ぬのはみにくい。よく注意するがよい』といっていたので、(白石は薬を服用させようかどうしようか)と思ったけれども、あまり苦しそうなので、独参湯をしょうが汁に混ぜて飲ましたところ、病気は治ってしまった。後で、どうして背中を向けてばかり寝ていたのかと聞くと、『人は、熱にうかされると、とりとめのないことを口走るものだから、なにも云わぬに越したことがないと思って、皆に背中を向けていた』といった。

白石の父はその後も元気で、82才で亡くなりました。また、その友人に関という男がいました。七十才を過ぎた頃から、老いぼれて見えるようになったので、白石の父は、「一般に、人間の気力は年とともに衰えるものだが、老いぼれる時期になると、どんなに慎重にしていても、ぼけずにはすませられない。若いときから心掛けておけば、老いぼれる時期がきても、見る人に興ざめさせずにすむ。老人がぼけて見えるのは、云うべきでないことを云い、してはならぬことをするからである。要するによくもの忘れをするからだ。

老人には、古いことを尋ねて有益なこともある。年をとっても心に残っていることがあるから、それらのことは、人に問われた場合には、答えてもよかろう。世間の新しく珍しいことなどは、耳に聞いても、口からは出すべきでない。」といっています。徳川時代の初めに生きた人の言葉ですが、私たち平成時代の高齢者に対しても、なんと斬新なアドバイスではありませんか。徳川百年といえば元禄もおわりころですが、高齢者のボケが問題になっていたのです。調べてみますと、この時代にも随分長生きした人が多いですね。

白石のお父さんが超高齢期を迎えた元禄時代は、日本全国の耕地面積が、江戸初期の百五十万町歩から三百万町歩に倍増した時期です。米の生産は倍増したにもかかわらず、いまのように流通機構が整っていないものですから、国内では災害や飢饉が続発していましたけれども、所得も増え、都会では一般庶民の食生活も豊かになり、一日に三度米の飯を食べられるようになりました。やがてその後には低成長が続き、吉宗の米穀政策も失敗に帰することになるのですが、そのことには触れません。

生活が豊かになると、大衆の関心は健康と教育に向かうのが当然のことです。立川昭二の調査によりますと、元禄時代から養生書、今でいう健康ノウ・ハウものの出版ブームが起こり、薬ブームとなり、やがて江戸の商店街で十軒に一軒は薬屋だつたというのですから、その変わりようがどんなものであったか、お分かりでしょう。また、この時期から大衆の教育機関である寺子屋ができるのですが、徳川時代もずっと下がりますと、全国に二万ヶ所以上の寺子屋があったそうです。これはいまの全国郵便局の数とほぼ同数だそうですから、徳川時代の庶民教育が如何に盛んだったかお分かりでしょう。

元禄時代になって、江戸、大阪、京都を中心として、町人文化が完成していきました。町人文化というよりも商人文化といったほうがいいかも知れません。そして彼ら商人のなかから、時代をリードする多くの実践的学者が輩出するのです。それは、ただ江戸や京都、大阪という大都会だけに止まらず、日本全国にわたる現象です。

西川如見は、一六四八年の生まれで七十七才まで生きた長崎の豪商で、著書として『町人嚢』や『百姓嚢』を残した人ですが、彼は「物を人々の利用に供して利得を得るのが商いで、わが国の物を持っていって、他国の人の物に替えるという、天下の財物を通じて国家の用に達するを、真の商人という(中島誠)」と、いっています。また、町人(商人)は、素朴でいてさまざまな不自由を我慢し、世間の評判に関係なくおのおの職分をつとめて、家業に退屈しないのが、町人の勇気というものであるともいっています。禁欲と勤労を勧める思想がここにも見られます。

彼ら商人たちは、その規模は今日の中小企業の枠を超えるものではなかったのでしょうが、商いの行動倫理を内なるエートスとして、やがて訪れる日本の近代化を待つことになるのです。そして、それをリードした知的プロフェッショナルの一人が、石田梅岩です。

石田梅岩は、いまの京都府亀岡市の中農の次男として生まれました。一六八五年の生まれですから、その四才から十九歳までが元禄時代に当ります。当時は、十石以上の年収がないと、農家の分家は許されませんでしたし、また、農村で小商売を始めることも禁止されていましたので、そのころの習慣に従って、梅岩は京都に丁稚奉公に出されました。初めての奉公は、主家の倒産でいったん家に帰ったのですが、二度目の奉公先である黒柳家では、中途就職であったにもかかわらず番頭に昇格し、店を取り仕切っていた主人の母親が臨終の床で「勘平(梅岩)の将来を楽しみにしていたのに、それを見ずに死ぬのは残念だ」といったくらい信用されており、梅岩もそれに応えるように仕事に打ち込んだのでした。しかしながら、奉公を続けながらも、かれの本当の目的は別にあったのです。彼は、生涯を人の道を説くことに捧げたいと思っていたものですから、仕事中も閑があれば読書に熱中し、ときには鐘を鳴らして聴衆に説いて廻ったこともあったそうです。

当時の京阪地方では、商家のなかに学問・文化を求める風潮がたかまっていましたので、奉公しながら学問を続けるということが可能だったようです。梅岩は、「われ生質(うまれつき)理屈者にて、幼少の頃より友にも嫌われ、ただ意地の悪きことありしが」と話していますから、生まれつき人に嫌われるくらい理屈っぽい人だったのでしょう。彼のこの性格も、五十才台に入ってからは、全くなくなったそうです。このころから講義や著作など、梅岩の円熟した活躍期に入るのです。

梅岩が心学社を開いたのが京都だったということには、それなりの意味があります。元禄時代の後、吉宗の改革も全く失敗して、幕府は経済的に益々無力化していきました。テレビ・ドラマでは、徳川吉宗が名君で、田沼意次は悪臣ということになっています。実際には、吉宗は頑固な守旧派で経済政策は失敗しましたし、意次はなかなかの政策マンで、行政家として意欲的でした。意次は、賄賂ばかり取っていた悪官僚になっていますけれども、当時の幕閣はみな付け届けで生活していたようなものですから、意次だけを責めるのはいささか筋違いというものです。

江戸商人は、数千人といわれる多数の幕府高官、将軍直参の家臣団、各藩大名の家臣団などと密接な関係にあり、その生活には奢侈・贅沢な生活習慣が定着して『宵越の金はもつな』の気風がひろまり、投機的な商売も広がっていました。心学は、この江戸という大都会の生活に対するアンチテーゼとして、当時の武士階級や商人たちに受け入れられたのです。

梅岩が説いた心学の特質は、人生を悔いなく生きるためには如何にすべきかということを目的して学問・修行し、『あるべき』日常生活をすることにあります。心学社中に集まった人たちは、梅岩の指導を受けながら、それぞれの家業を続けると同時に、天下の泰平を助け、万人の福祉に奉仕する心構えで商いに励み、同時に世間の人々が互いに助け合う気持ちーこれを梅岩は『互いにする』といっていますーで暮らさなければならないと、教えています。彼の説くところはさらに、これは心学社中の相互間だけでは駄目なので、社会のありとあらゆる人々にたいしても、この心掛けを忘れてはならない。それが行動として表れると、勤勉、倹約、布施になるというのです。まさに、プロテスタンテイズムの禁欲主義そのものであり、ロータリーでの奉仕の精神です。

梅岩の代表的著書は、『都鄙問答 四巻』です。この本は、1738年梅岩55才のときに刊行されました。彼が講義を始めたのは1729年ですから、それから十年たって彼の著作が刊行されたということです。この本は、それから明治維新までの百三十年間に十版を重ね、明治から昭和にかけて少なくとも十四種類が公刊されているそうですから、如何に多くの人々に読まれているかお分かりでしょう。

梅岩が説いた内容には、宗教を思わせるものがありますけれども、その主眼点は、行動的な実践倫理です。彼が心学社を開く前、最後に師事したのは、京都在住の漢学者小栗了雲でした。了雲は、宋の性理学に精しく、仏教および道教にも精通していたそうですから、梅岩が若い時代に神道に傾倒していたことも併せて考えますと、心学が宗教的色彩を帯びていたことは、首肯できるでしょう。但し、宋学に精しい了雲の指導を受けたとなると朱子学でしょうが、梅岩の行動的倫理観は、むしろ陽明学に傾いているかも知れません。そうではあったかも知れませんけれども、梅岩にとっては、朱子学も陽明学もなくただ心学ありだったに違いありません。マックス・ウエーバーの流れを汲む、アメリカの社会学者ロバート・ベラーは、東アジアで唯一近代化に成功した日本の近代化成功の要因はなんだったかとして、その要因に徳川時代の文化的伝統、とくにそのなかで果たした宗教の役割を重視して、1957年『 TOKUGAWA RELIGION 』を刊行しました。池田昭の翻訳で、『徳川時代の宗教』として岩波文庫の一冊になっています。このなかで石田梅岩の事跡が大きく取り上げられています。

石田梅岩の代表的著書『都鄙問答 四巻』は、「一つは、人間の本質を天地にまたがる性にもとめて、それを自得するよう修行すること、次は、その性理のさし示す通りに、人々が士農工商儒医などそれぞれの職分に応じた道を、すなおに践み行うに導くこと」を目的として、刊行されました。ここでは、『商人の役割についての項目』についてお話します。

先ず、『巻之一 商人ノ道ヲ問ウノ段』で、ある商人が「商人の道に叶うには、どうしたらいいのですか」と、質問します。梅岩は答えます。「商売の始まりは、余りある品と不足な品とを交換して、互いに融通しあうのがもとだ。」といって、先ずは、正確な勘定と正直な取引を重視します。よい品を、適正な値段で売りさばくと、買い手のほうも安心して買うことができる。かくて相互に信頼感が生まれるから、それだけでも住みよい世の中になる。こうして大いに儲けてもそれは欲心ではない。幕府は、こうして儲けた商人を『お取り潰し』にして、抑圧しようとしますけれども、もうそれだけでは『商』を抑えきれない時代が来ているのです。

『巻之二 或学者、商人ノ学問ヲ譏ノ段』では、ある学者が商人に学問など不要だといいます。梅岩は、商人も学問を修めて正義の観念をみにつけよ、といい、「学問では、文字を学べ、孔子・孟子を知れ」という学者に対して、「言葉が生まれる以前から『道』はあったのだから、言葉や文字に拘ることなく道を求めるのが学問だ」と反発します。さらに学者が、「人を騙して儲けるのが商人ではないか、商人は右のものを左に移しただけで利を取るではないか、商家が破産したとき、こっそりととれ金を取るではないか」など、色々と攻撃してきます。梅岩はこれに一々反論しますが、要するに、商人が利益を得るのは、武士が禄をうけるのと同じで、「売利ナクバ、士ノ禄ナクシテ事フルガ如シ」といい、売利を計るには、心構えと基準が必要である。心構えからいうと、品物の品質と値段とに『真実』を尽くすこと、即ち正直が大切であり、買い手の身になって売る思いやりが、商人にとっての真実である。この『真実』こそ、商人の生命である。ものの値段は、ときの相場というものがあるから、変動するのはやむを得まい。それでも商人が悪いというならば、百姓か職人に転業する他はあるまいが、「それでは財宝を通わすものなく、天下万民が難儀すべし」と近代へと移りゆく社会での流通の重要性を説いていきます。梅岩はさらに「一家を治めるのも一国を治めるのも、仁をもととし、義を重んじなければならない点ではおなじである。商人のささやかな仁愛も国の役に立つべきだ。飢えた人を救うのは人の道であるから、商人もまた、その心がけがなくてはならない」と、実践的社会奉仕を説きます。商人に俸禄を下さるのは、買い手であるお得意先であるから、お得意先のために真実を尽くさねばならぬ。真実を尽くすためには、「倹約を守って、これまで一貫目かかった生活費を七百目で賄い、これまで一貫目あった利益を九百目に減らすよう努める。するとお得意先から高値で売るとクレイムがつくことはない。贅沢をやめ、普請好みや遊興好みを止めれば、一貫目の利益を九百目に減らしても、家は立派に立っていくはずである」というのです。まさに、プロテスタントの禁欲主義そのものです。

これに続いて『巻之四 主人行状ノ是非ヲ問ノ段』がありますが、ここでは省略します。

この話の初めのほうで、心学社中の人々は、社中の門人相互の間だけでなく、社会のあらゆる人に対しても、『互いにする』心で暮らさなければならないというのが、その心構えだと書きました。そのひとつの例をご紹介して、石田梅岩の話を終わることにします。

一八五○年(嘉永三)、現在の山陽地方を中心に中国筋一体が風水害を受け、飢えに追い込まれた人々が、京大阪は天領だから救済が完備しているとの噂を聞き、大挙して京大阪を目指しました。この原稿を書いているとき、台風十八号が九州から北海道までゆっくりと北上、全国に大被害をもたらしました。ちょうど十八号と同じような台風だったのでしょう。これは、その視察を命じられた肥後細川藩の横井小楠が、家老の長岡監物に送った報告書の文面です。現代文に訳してご紹介します。

「中国筋から長門・周防(山口県)、三備(岡山県)、芸州(広島県)、は風水害の被害が特別大きく、そのために甚だしく困窮して、飢えた民が道路に充満しています。ほとんどの人々は、京・大阪を目指しており、二つの街は多くの流民でいっぱいです。大阪では、すでに先月のはじめ所司代に届出のあっただけでも餓死者二百人とのことでしたが、実際にはその五倍もあるそうで、私どもも大阪では、実際に餓死するものを目の当たりにして、なんとも気の毒でなりません。」

被害者たちは、京大阪には救済設備が整っているというデマに惑わされて、二つの都市目指して歩いていったのですが、大阪にはなんの救援設備もなく、実際は千人も餓死しているのに、二百人しか報告がないというのです。ところが、京都に入ってみて、小楠は驚きました。小楠の手紙をお読み下さい。

「大阪は、いまになってもなにもしていませんけれども、京都では去年の十一月から救援活動が始まっています。この救援活動は、例の心学社中のものが計画し、現在もこの社の人々が、担当しております。現在まで厳重に救済活動が続いているというのは、余程やり方がいいのでしょう。はじめ、町奉行所から米五百石と銀二十五貫目出して貰い、心学中の人々が京都の豪商に募金を呼びかけて、一万両ばかり集めました。三箇所に救援施設を作って、公平に救援活動を行いましたので、京都では餓死するものが一人もないそうです。私は学者をもって任じているものですが、こんなことまでは、全く気付きませんでした。道学者(石門心学社中の人々を指す)に一本取られました。」

石門社中の記録にも、社中の人々が集まって救援活動の計画をたて、十ヶ所の石門社の人々が夫々救援場所を分担して活動し、醵金も一万両を越えたと記録されています。「施すほうの気持や態度のどこにも、施すの、救うのといった優者の意識がなく、不公平なとり計らいがなく、貰うのに手間どる感じもあたえぬような、それこそ心学的な心構えがあった」と、石川謙も書いていますが、その通りだと思います。どうでしょう。まさに職業奉仕と『決議二十三の三十四条』の実践ではありませんか。

(菅 正 明)

1932年(昭和7)3月5日、団琢磨は三井本店の玄関を出ようとするところを、菱沼五郎が発射したブローニング6の凶弾に倒れ、七十五年の生涯を閉じました。その前日、満州事変について国際連盟が派遣した日華紛争調査委員会、いわゆるリットン調査団の一行を帝国ホテルに迎えての歓迎会があり、団もその席でリットン卿らと会ったばかりでしたので、調査団一行は大きな衝撃を受けました。

調査団一行は、この後三月から六月まで中国・満州を調査し、九月に「柳条溝事件における日本軍の侵略は自衛とは認められない」という報告書を提出します。その間の三月、満州国の独立が宣言されるのです。

事件のちょうどすぐ後に出勤した米山梅吉は、団の悲報を聞いて強いショックを受けました。そのときの心境を、梅吉はこう詠んでいます。

   見失いし 鍵を求むと 心乱る
         今朝のわれをし あわれと 思ふ
 
   大き洋 その名おだしき 中道に
         今は さかまく風 立たんとす

「鍵を失くして見当たらないように、心が乱れてしまっている。今朝のこの自分の気持を思うと、哀れとしかいいようがない」、また「穏やかな名前の太平洋に、いま嵐がやって来ようとしている」と、団琢磨の死を梅吉は、深い悲しみと将来起こるであろう日米関係の悪化に心を痛めながら、二つの歌に託して、その心境を述べているのです。

団琢磨は、1858年(安政5)の生まれですから、米吉より十才年上ということになります。彼の歌を読むと、米吉が如何に団を頼りにしていたかが、よく分かります。事件があった直後3月15日、梅吉は三井合名会社の理事に就任しました。そのころ、福島喜三次は、三井物産上海支店長として、上海事変とその事変後処理の一端を担って、大活躍している時期でした。喜三次は、5月5日に停戦協定が成立すると、6年間住んだ上海を後にして、日本に帰国します。帰国後、彼の上海での活動が高く評価されて、勲章と金杯が贈られ、その功績は天聴に達したということです。

団が凶弾に倒れた血盟団事件は、中国浪人であった井上日召が、茨城県大洗海岸の草庵にこもってあるとき「ニッショウ」と叫んで大悟し、近隣の青年や海軍軍人などを集めて、国家改造計画を打ち出したことに始まります。もともとテロを目的とした集団ではなかったのですが、右翼グループを大同団結して政権をとることが、実際には不可能なことを知り、『一人一殺』に傾いていきました。それが、血盟団です。

1932年は、1月に桜田門外で昭和天皇が狙撃されるというような事件もあって、不穏な年明けでした。井上らは、拳銃十丁を手に入れて、ただ要人を暗殺すれば、後は国体に即した改革者が現れるだろうというだけの考えで、二月九日に民政党の選挙演説会場に現れた井上準之助を小沼正が射殺、3月5日三井銀行表玄関で、団琢磨を菱沼五郎が射殺しました。井上日召はじめ血盟団の一味はやがて逮捕されましたが、逮捕を免れた海軍将校等は、五・一五事件を起こすことになるのです。

福島喜三次(ふくしま きさじ)は1881年(明治14)10月10日、父喜平の六男として佐賀県有田町に生まれました。米山梅吉が丁度沼津中学に入学した年です。実家は代々紺屋を業としており、父は正司碩渓の薫陶を受け、半耕と号して詩画に長じていました。父は、喜三次が二才のときに亡くなり、彼は母タツに育てられましたが、この母がなかなかしっかりした人で、喜平が強い影響を受けた正司碩渓の教育方針をしっかりと守って、子供たちを育てました。

碩渓は1793年(享和元)生まれで1857年(安政4)、明治維新の10年程まえに亡くなりました。曽祖父の代から、絵筆の販売を業とする家に生まれましたが、家業の傍ら広く和漢洋の学問を修め、特に実学を重んじました。通称を庄治、碩渓または南鴃と号しています。自ら山野を開墾したり、ある時は大火で有田の窯元が全滅しようとしたとき、私財を投げ打ってその復興に尽力したというように、社会奉仕活動にも熱心な人でした。初めは「田舎の事ゆえ儒師という者なし。殊に家業甚だ繁くして書を見る暇も無ければ、仮名つきの本を求めて誦読」して、独学で学んだ人です。かれの教えは、「世俗、或いは文字を知り、手跡を能く書くを学問と思へり。・・・・人倫の道はもち論、麗容を教えず。」と、人間教育を重視した人でした。碩渓の主著『家職要道上下二巻』は、実学を重んじ、経済に関する幾多の著書のなかでも、商人、百姓、職人の職業倫理を説いた本として、広く読まれました。碩渓は、生のもとは職業にあるとして、人のライフ・サイクルによって努力目標のあることを示し、職業分類によって夫々の職業への関わり方を説きました。後年、生駒時計店の創業者生駒権七は、この本を読んで碩渓の教訓を実践して、生駒時計店の基礎を築いたのですが。明治42年59才のとき、権七は碩渓の子孫に金一封と時計を贈って、碩渓の徳を讃えました。ここに、そのとき権七から碩渓の孫正司敬次に送った手紙を紹介しておきます。

「貴下には未だ一面識もなき身を以て、突然書状差出すは、甚だ失礼には候へども、貴下御先代正司南鴃先生の御尊霊に対し謹で謝意を表したき存念に有之候。小生は大坂の出生の者にて候が、幼少の砌即ち寺子屋時代に、家計上の都合にて、読書習字に親しむこと能はず、他家へ奉公するの止むなき場合と相成候處、16歳の時、又々都合ありて主人より暇を貰ひ、父の手許に在りて営業を扶け居候處30歳の時、偶々病気にて長らく臥床致し候折柄、友人の大森喜兵衛と云う人、病中の退屈紛れには此本を読まるべしとて示されたるは、貴下御先代南鴃先生の著作されたる家職要道にて有之候。熟々拝読候處、世にも尊き御諭しにて、處世の道を御教示有之、病苦をも忘れて日日拝読し、快起の後も家業の餘暇には必ず此本を玩味し、我生涯の一大教師と心に深く信じ、御諭しの項目は、一々背かざる様深く心に刻み、夫れより以後59年の今日まで、家業に就いては固より、人事上に於ける種々の艱難辛苦に逢ふも、少しも撓まず、一意専心先生の御諭しを固く守り候為め、今日に於いては相応の幸福を蒙り、家内一同至極安楽に暮し居候。熟々既往に遡りて今日を考ふるに、斯の如き難有書を著述して人を導き世を益し給うは、實に限りなき御陰徳と申す他なく、小生の今日あるは、全く家職要道の御蔭を蒙り候事と深く感佩仕候。・・・・・」

(日本経済叢書第二四巻より  句読点 筆者)

生駒権七は、感謝の手紙とともに正司敬次に金一封と時計を贈りました。

喜三次は大変な秀才で、長崎商業から東京高商、いまの一橋大学に進みます。東京高商在学中も絶えずトップの成績で、1904年(明治37)卒業、同期に佐藤尚武、百田健二郎、向井忠晴がいます。向井は喜三次と同期に三井に入社、後財界の大御所として活躍することになります。

喜三次は、東京高商卒業と同時に、三井物産に就職、門司支店に1年足らず勤務の後、翌年五月ニューヨークに転勤、オクラホマ、ヒューストンを経てダラス勤務となりました。ダラスは現在では、世界第二の離発着数を誇るダラス・フォートワース空港を玄関口として、電気機器、機械器具、医療機器産業の盛んな地域で、日本との貿易も大へん盛んですが、当時は米国南部テキサス州の綿花の大集散地で、世界各国の商社が綿花の買い付けで、大熱戦を繰り広げていました。ダラスが、ケネデイー暗殺で一躍有名になったことは、すでにご承知の通りです。喜三次は、現地設立のサザンコットン社の設立者で支配人でしたが、これは三井物産ダラス出張所の所長格だったそうです。ダラスでの喜三次の活躍ぶりは、福島喜三次傳によりますと次のようです。

喜三次の買い付けは、日本国内の紡績会社向けを目標にしていたのではなく、世界中の紡績業界の動きに注目して、相場の変化によっては、イギリス、イタリアなどヨーロッパは勿論、時にはアメリカ向けの取引もしていたようで、彼の綿花取引高は一時ダラスのトップだったこともあるそうです。当時、喜三次はまだ30歳の前半で、店も他の商社に比べて新しかったのですが、何故そんなに大きな取引が出来たかといいますと、その理由は取引における彼の態度にありました。取引は公正であり、競争相手の同業者に対しても、時には船便を融通してやるというようなことがありました。ですから、喜三次が一旦大買い付けに出ますと、必要とする数量の綿花が集まり、それに必要な船腹も確保されるので、買手に迷惑のかかるようなことがありませんでした。

1919年(大正8)頃、第一次世界大戦も終わりに近づいた或る日、講和成立との情報が流れました。講和となれば、綿花は大暴落です。各商社は、一日も早く手持ちの綿花を処分しようと、船会社に押しかけたところ、ダラスの船腹は全て喜三次に押さえられていたそうです。かれの先見の明と商魂によることは勿論ですが、船会社がかねてからの喜三次の誠実さに報いて、協力を惜しまなかったのです。

後年、日米関係が次第に険悪になってきた1937年(昭和12)、その頃東京商工会議所の会頭だった門野重九郎を団長とした民間の経済使節団がアメリカに派遣され、喜三次も夫人同伴でダラスを訪れました。ダラスでは市を挙げて一行を歓迎しましたが、同地の新聞に、日本が綿花の大得意先であることを強調した後、喜三次夫妻が昔ダラスに住んでいたことに触れ、「 He and his charming wife made many lasting friends who will welcome their return. (彼とその魅力ある夫人には、温かい何時までも変わらぬ友人が沢山できた。彼らは帰ってくるのを何時でも待っている)」という言葉で結んでいます。この時新聞に掲載された漫画をご覧下さい。 日中戦争がまさに始まろうとし、日米間の国交も険悪の度を増している時期にもかかわらず、考えられないような歓迎ぶりです。

戦後のことですが、日本の財界人がアメリカの紡績業視察のためダラスを訪れたとき、現地の紡績会社や船会社での最初の質問は、「ミスター福島はどうしているか?」だったそうです。このひとことをみても、喜三次が当時如何にダラスの人々に信頼されていたか、お分かりでしょう。
1920年(大正9)1月、ダラスでの勤務を終え東京に帰った喜三次は、翌年3月大阪支店に移り、大正15年上海支店に移るまでの5年間、大阪に在勤しました。この間に、1920年10月20日東京ロータリー・クラブが、1922年11月17日大阪ロータリー・クラブが創立総会を開くことになるのですが、このことについては多くの記録がありますから、ここでは省略します。

喜三次の上海在勤中、1932年(昭和7)上海事変が勃発しました。彼は、ここでも三井支店長という役割を超えて、日本人居留民、外国人居留民の安全保護のために活躍しました。その堪能な語学力を馳駆したことは勿論ですが、彼の誠実さが関係各国の人々の心を強く打ったのでした。喜三次はとくに弁舌爽やかだったという訳ではありませんでしたけれども、彼のeloquent(感銘的)な英語と差別のない態度とが、上海における居留民問題の解決に大きな力となりました。

上海事変が終わって帰国した喜三次は、池田成彬の薦めで1934年(昭和9)三井合名に入りました。この頃の日本は、官僚や軍部強硬派の勢力が拡大し、政党勢力の退潮に歯止めがかからないという状態でした。帝人事件が起こったのは、この年です。帝人事件は、検察が強引に事件を捏造したものだったようで、起訴された被告全員が、後に無罪になったことをみても、当時の日本の混乱した国情が分かるような気がします。

やがて、海軍軍備の無制限時代に入ることになりますが、この時期、日本の産業は目覚しい発展を遂げ、三井合名では暗殺された団琢磨の後に池田成彬が理事長となり、また三井報恩会を設立して、社会事業の領域を拡大していきました。喜三次が三井合名に移ったのはこの頃です。

喜三次は、1936年(昭和11)三井合名の理事に昇格しました。夫人同伴でダラスを再訪問、大歓迎を受けたのはこのときのことです。訪米の帰途ヨーロッパに廻り、ドイツ旅行中疲労のため倒れます。一時回復して出社することもありましたが、一九三九年(昭和十四)再び病床の人となり敗戦の翌年、1946年(昭和21)9月17日終に不帰の客となりました。行年65才でした。

この年、喜三次の逝去より早く4月28日、米山梅吉が78才の生涯を閉じました。同じ年に、日本のロータリーを創った二人を失ったということには、何か運命的なものを感じますね。
ここで、日本のロータリー創立について簡単に触れておきます。福島喜三次は、1915~16年(年度ははっきりしません)ダラス・ロータリー・クラブの会員になりました。当時のテキサスはまだ人種差別の厳しい地域ですし、『会員は白人に限る』というような定款細則を守っているロータリー・クラブも少なくなかった筈ですから、喜三次は地域の事業家たちから、余程信頼されていたに違いありません。

1917年目賀田種太郎を団長として、『日本帝国政府財政経済委員』による使節団がアメリカに派遣されました。団員のうち実業人は、小池張造(久原総本店・取締役)、松本健次郎(安川松本合名会社・社長)、山下芳太郎(住友合資会社・取締役)、米山梅吉(三井銀行・取締役)の諸氏です。目賀田種太郎はその時65才、ハーバード大学卒業後弁護士の資格を取り、貴族院議員を経て明治40年男爵となった人です。勝海舟の娘婿で、勝に私淑していた米山梅吉とも交流があったようです。

滞米中に、米山梅吉は喜三次を訪問、1918年(大正7)年の元旦をその自宅で迎え、喜三次のサイン帳に、次の三句をのこしました。

 十三州は昔なりけり雪千里
   メキシコの境まで咲く枯野花
   テキサスの野の東(ひんがし)や初日の出

このとき喜三次は、梅吉にロータリー・クラブについて話したに違いありません。福島喜三次傳の著者は、「二人は美しい朝子夫人のお酌で、屠蘇を酌み交わしながら、杯の数が増す程に酔う程に、福島さんからは得意の英語の歌が飛び出し、米山さん亦このサイン帳にある名句が出たのであろう」と書いていますが、私もその通りだったと思います。この後、日本に帰国した喜三次が、米山梅吉を中心にして、東京に日本最初のロータリー・クラブ創立に向かって奔走することになるのですが、すでに皆さんもよくご存知のことですから、省略します。

東京ロータリー・クラブは、1920年(大正9)10月20日銀行クラブで創立総会を開くことになりますがこのときのチャーター・メンバー24人のうち二人を除いて全て財界の大物ばかりです。その後日本のロータリーは、米山梅吉という一つの人格を中心にして、大きく発展するのですけれども、ロータリーを一流財界人の集まりにしたことが、果たしてよかったことかどうか、その答えを出すことは中々容易ではありません。

(菅 正 明)

石井研堂編集の『明治事物起源』によりますと、わが国で会社という語が初めて使われたのは嘉永年間で、『ヤクショ』という振仮名があります。また、別のところでは現在の連盟の意味に使われています。慶応に入っていまの会社と同じ意味に使われるようになりましたが、このころはいずれも『ナカマ』という振仮名がうってあります。会も社ももともと一字で集団の意味があるのですが、それを重ねて法律的にも動かし難い会社という言葉になったのは、明治2年で、この年になると通商会社、為替会社などの名称が使われるようになり、商社という語も出てきます。

維新後直ちに、明治政府は欧米型の株式会社の設立を広めるため、当時大蔵省勤務の渋沢栄一、福地源一郎に命じて、その手引書である『立會略則』と『會社辨』とを編纂、明治4年に出版しましたが、これがわが国最初の株式会社に関する解説書です。株式という言葉は、江戸時代からありましたけれども、現在の株式とは異なるもので、現在の意味で使われるようになったのは、明治2年からのことです。明治4年ころから株式取引所の必要性が唱えられるようになりましたけれども、株の取引所など博打場と同じだというような偏見もあり、漸く東京株式取引所が開設されたのは、明治11年になってからです。

明治維新後の日本の近代化にとって、渋沢栄一はなくてはならない人です。彼は大蔵省を辞して実業界に入り、数多くの事業を起こしてその枢要な地位を占めた人ですが、あまりにも多くの会社の重役を兼ねたものですから、時に批判するものもありました。後に明治専門学校(現九州工業大学)を創立した安川敬一郎は、かれの著書『撫松余韻』のなかで、渋沢栄一に対するこのような批判について、「今日の会社屋なる者が無数の会社の重役に列して居るのとは全くその選を異にする」と渋沢を擁護していますが、至言だと思います。

渋沢栄一は、安川敬一郎と同じく論語をよく読んだ実業家です。彼の行動原理は、儒教にあったといってもいいでしょう。彼の商業についての考えはこうです。

「人は社会のなかで生きるものである。生産者と消費者の間で、有無相通ずるのが商業の目的で、これはお互いが助け合わなければ出来ない。商売は勿論儲けるためであるが、一身の利欲のみではなし得られるものでなく、社会的役割もあるのだ。商人が道理正しく、有無相通ずる働きをすることと、私利私欲とを同一視するのは誤りで、ある事業を行って得た利益と云うものは、即ち公の利益にもなり、又公の利益になることを行えばそれが一家の私利になると云うことにこそ、商業の本質がある。公益と私利とは一つになる。」

マックス・ウエーバーは、日本は資本主義の精神を自らは作り出すことはできなかったけれども、外からの完成品として、容易に受けいれることができたといっていますが、徳川時代、日本社会に儒教、仏教、神道の基盤があったからこそ、幕末から明治維新にかけて、渋沢栄一等の時代思想が育ったのであり、それを母体として日本の近代化が着実に進んだのです。それは丁度卵が孵化するように、必然性を持ったものだったのです。

渋沢栄一は1873年(明治5)、第一国立銀行(第一銀行)の創設を手始めに、大阪紡績、東京海上、日本鉄道などの会社を次々に設立しました。日本における株式会社生みの親です。日本の資本主義発達初期の経営者たちは、徳川時代に培われた神道、仏教を土台とし儒教思想を取り入れた倫理観をもとに、勤労と禁欲との二つの行動原理をもって会社経営に専念し、日本近代化の担い手になりました。彼ら自身はその禁欲と勤勉が、マックス・ウエーバーが資本主義発達の原動力となったと指摘したプロテスタンテイズムの禁欲主義と勤労の精神と相通ずるものだと意識してはいなかったでしょうが、彼等の行動が二十一世紀のいま、私たちの心を打つのです。

武藤山治は1867年(慶応3)、岐阜県に生まれました。生家は大へん裕福なうちで、14才のとき慶応義塾に入学、そこで受けた福沢諭吉の『独立自尊』の精神は、後年の山治の実業家としての行動に強く影響しました。彼は「先生の独立自尊の心掛けなど、後になっては唯之を文字の上で読む丈でありますが、其頃はそれを親しく先生の言行に依って強く心の中に鋳込まれた」と書いていますが、福沢諭吉の独立自尊の精神は少年のこころに深く焼きついたのでした。山治は生涯一貫して、『われ官に頼らず』と民の独立を唱え、鐘紡の経営に与ってからも、政府の援助に頼ることのなかったのを、誇りとしました。山治は、かなり個性的といいますか、あくの強い経済人であり政治家で、少しでも経営に齟齬を来たし、自らが窮地に陥ると、自分の経営責任を棚に上げて、政府の無策や政治責任を追及する経済人を、口を極めて非難しました。「自分の興した事業の尻拭いは自分ですることが資本主義の強み」という信念を守り通した彼は、私の好きな経済人の一人です。

山治は、慶応義塾を卒業すると、福沢の勧めもあって、イギリス留学を諦めてアメリカに3年間留学します。帰国した山治は、広告代理店や新聞記者などを務めた後、1893年(明治26)三井銀行に入社、ここで中上川彦次郎に会います。中上川は福沢諭吉の甥で、『実業の武士道化』を主張した個性の強い経営者として、山治は彼を『実業界の厳父』と呼ぶほど、大きな影響をうけることになるのです。三井に移ってからの中上川は、『三井の信長』といわれたほど決断と実行の人で、三井の改革は進んだものの、それだけ敵も多く、やがてその妥協を許さない個性が災いして、三井銀行を退かざるを得なくなります。

中上川彦次郎は、三井銀行に移り、後に三井の大改革に関わることになりますが、中上川を三井銀行に引き抜いたのは、三井の最高顧問だった井上馨です。中上川の改革は、三井と官との旧くからの腐れ縁とでもいってよいような関係を断ち切ることでした。彼が三井で実行したのは、官からの独立と工業部を設立することです。これらの一連の大改革を実行するために、慶応義塾出身の人材が集められたのですが、其の中の一人に武藤山治がいました。

武藤山治は、三井銀行入社の翌年、明治27年鐘紡株式会社に移り、兵庫工場の支配人に任命されました。鐘紡株式会社の社長は中上川彦次郎です。それ以後生涯をかけて、山治は鐘紡の発展に力を尽くすことになるのです。

兵庫工場の支配人になった山治は、職工たちに混じり、油にまみれた作業着を着て、文字通り日夜寝食を忘れて働きました。おりから日本は、日清戦争後の近代産業の勃興期で、紡績業もどうにか生産性が上向いてきたとはいうものの、まだ家内工業とはあまり変わらない程度の小規模の工場が殆どで、工場らしいところといえば、渋沢栄一がつくった大阪紡績会社くらいのもので、とても国際的に他国と太刀打ちできる状況ではありません。

鐘紡の創立は1876年(明治19)で、3年後の明治22年に鐘淵紡績会社と改称しました。山治がその兵庫工場の支配人になってからも、原料の綿花や燃料の納入について同業者の嫌がらせや、他の工場からの熟練労働者の引き抜きや雇い入れの邪魔があり、果ては暴力団による兵庫工場の職工引き抜きがあるなど、工場の運営は必ずしも平坦なものではありませんでしたが、中上川や武藤たち経営陣の断固とした態度によって、やがて四万錘の規模を持つ兵庫工場を稼動させることに成功したのです。

明治34年、山治が『実業界の厳父』と呼んだ中上川彦次郎が亡くなりました。47才、病名は萎縮腎でした。いまなら血液透析で延命できたはずです。美食家で、徹底した運動嫌い、歩くのも億劫なほど肥満していたそうですから、糖尿病もあったのでしょう。中上川の死後、益田孝らによって三井同族会管理部が設けられ、中上川の工業主義路線は中断され、山治も一時鐘紡を去りますが、1908年(明治41)専務取締役に復帰、次いで社長に就任して鐘紡の実権を握ることになります。

鐘紡の支配人時代から、彼には確固とした経営理念があり、経営はあくまでその本業で得られた利潤によって行われるべきもので、如何なる場合も本業以外の投機などに介入すべきではないと考えました。日露戦争中も、一部の紡績業者のなかに工場経営を顧みないで、原料綿花相場の乱高下を利用して、綿花相場に奔走するものがありましたが、彼はそれを厳しく批判し、「投機や相場で儲けたいのなら、初めから相場師になればよい。そんな人間に工場経営をする資格はなく、実業人失格だ」といっています。この考えは終生変わらず、利益は銀行預金して、どんな有利な利殖の話にも耳を傾けようとはしませんでした。

武藤山治は兵庫工場の支配人となって以来、徹底した現場重視主義で、従業員と一緒に油まみれになって働きましたが、その行動は彼の従業員に対する方針である『温情主義』に表れています。山治は明治35年工場内に、乳幼児を持つ女工のために乳児傅育所を設けたり、翌三十六年『注意箱』を設置して従業員の意見を聞いたりしていますが、1905年(明治38)に発足させた『鐘紡共済組合』は特筆すべきものでしょう。山治はかねてから、従業員が病気や傷害で休業を余儀なくされたときや、高齢や死亡による退職後の従業員とその家族の救済方法はなにかないものかと模索していました。これに対する答えが、『鐘紡共済組合』です。

この制度は、全従業員が給料の100分の3を保険料として拠出し、会社はその2分の1以上を補助して組合の基金とする。従業員の病気休職、結婚、出産などに対して一定額の支給をする。職場での傷害に対しては、治療費と職場復帰までの給与の全額保障、退職者には年金制度が設けられるなど、当時としては画期的な制度でした。

またその後に彼が設立した『救済院』は、生活が困難になった退職者やその家族に生活の場を提供するもので、再就職や内職の斡旋も行いました。ハロー・ワークと市営住宅とを併設したようなものです。

鐘紡におけるこれらの福祉制度は、後に大正15年政府の健康保険制度が制定されたので廃止されましたが、このとき山治も審議委員の一人として、政府管掌の健康保険と民間の共済組合制度との共存案を主張しましたけれども、入れられませんでした。

勿論、鐘紡の温情主義経営も、日本の紡績業が右あがりの上昇期にあり、鐘紡の株式配当が七割を維持できたという好況期にあったからこそできたことなのですが、山治は一貫して温情主義を通しながらも、世界における労働問題の推移を正しく見通していたことは、後に書く通りです。かれの在任中、多くの企業で組合が結成され、争議が続発するなかにあって、鐘紡だけは無組合・無争議で通したのでした。

武藤の温情主義に対して、痛烈な批判をしたのが細井和喜蔵です。細井は、妻に生活を支えられながら、彼自身が紡績工場で働いていた経験を生かして、紡績女工のルボルタージュだけでなく、労働実態の調査分析を同時にまとめて、1925年(大正14)に改造社から出版しました。『女工哀史』です。当時の版は伏字が多く、読み難いところが多かったのですが、戦後昭和28年、藤森成吉によって本文中の伏字は埋められ、同じく改造社から復刻出版されました。私の手許にあるのはその復刻版ですが、いまでも労働問題の古典として色褪せることがありません。

細井は、鐘紡の『温情主義経営』について、「これを『福利増進施設』だといって三拝九拝し喜びきっている奴隷が憎い」と、武藤に対して激しい言葉を浴びせながらも、「工場の敷地内が鬱蒼たる森林の如くあって樹陰にベンチを据えたり、休憩の度に廊下へ持って行っておしゃべりの類を敷き、寝たり転んだり起きたり、自由気儘にして疲労を回復せしめるやうにしている工場は、流石に斯界の大立物たる鐘紡にのみ見ることが出来る。こんなのは至極賛成だ」といわざるを得ませんでした。武藤の『温情主義』は、決してまやかしでも偽善でもなく、これこそ彼自身の真実の経営理念だったのです。彼は『温情主義』をもって、そのころ組織され始めた労働組合に対抗できるものだと、真実確信していたのです。

しかしながら武藤は、『温情主義』を主張しながらも、一方では時代の流れを冷静に見つめており、労働組合の結成について、「世の進歩と共に当然起こるべきもの」、「資本家にとり労働組合の設立が如何に不便なりとて、永く之を阻止し得るにあらざることは世界の情勢で我国国富の増進せる徴候として祝すべきもの」といっています。

山治の『温情主義』は、細井が批判したような、労働者を酷使するためのまやかしでもなんでもなく、彼自身が職工たちと一緒に油にまみれて働いた結果、自らの体験を通して考え付いた経営方針だったのす。しかしながその山治も、数年後には批判の対象となり、鐘紡も争議に巻き込まれることになるのですから、歴史とは皮肉なものです。

細井が『女工哀史』を出版した大正14年の12月、山治は『実業読本』を日本評論社から出版しました。同じ出版社から、尾崎行雄著『政治読本』、太田正孝著『経済読本』が出版されており、続編として、穂積重遠著『法律読本』、下村宏著『財政読本』がありますから、読本シリーズのなかの一冊として企画されたものではありますけれども、山治としては、自分の実業についての考えを大衆に問うことがどうしても必要なことで、止むに止まれぬ気持ちで、この本を書いたのだと思います。

武藤は、経営者として彼の『温情主義』と、紡績業に専念するという『一業』を貫きました。彼の歩いた道は、古い考えで現代には通用しないという人もあるかも知れませんが、私はいまの経営者のなかにも、武藤のような考えを持つ人があってもいいような気がします。

『実業読本』で武藤は先ず、実業という言葉の意味を述べています。「実業とは、虚業に対し、真面目に働くものの仕事の総称で、実業には勤勉にして真面目な精神が伴うものである」と定義します。西洋の商人に対し、先方を疑うようなことをいうと、「自分は実業家である」と反発されることがあるが、これこそ実業精神の発露であるとも書いています。彼は、実業の精神を武士道に求めます。これは、福沢諭吉がそうでしたし、中上川彦次郎の『実業の武士道化』を受け継いだものです。山治は次のようにいいます。

「維新以来、吾国は長足の進歩をしたと言えるしかし之は外形に於てであった。それが為め払った内面的の犠牲は甚だ大なるものがある。吾々は古来武士の間に存在した武士道を失ってゐる。而して失った武士道に代る何物をも受け入れずに、驀地に物質文明に向かって狂奔した。その結果は、今や社会何れの方面に於ても欠陥を現はして居る。故に今日、吾々の切実なる要求は外形に非ずして内面である。物質に非ずして精神である。」

そして、実業で最も重要なのは「その精神である」。然るに我が国では、「実業と道徳とは一致しないもののように誤解」されているというのです。「実業は金を儲けることであるけれども、儲けるには職業倫理を守ることが大切だ。それが『実業の武士道化』だ」として、「生活または利益を目的とする全ての仕事」は実業で、実業を進めるには「自尊心と自制心とがなければならない」というのですが、山治のいう自尊心とは、自分の力を重んじ信じて働くことであり、自制心とは禁欲の精神を指しているのです。まさに山治が説いたのは、マックス・ウエーバーが、資本主義を推進したのはプロテスタンテイズムの倫理、即ち勤労の精神と禁欲主義だといったのと全く同じことなのです。

また、山治は『自治の精神』の項で、「近年、自治精神を養うためと称して、各地で青年団が組織され市町村が公費で助成金を与えている」が、「これ程間違った事はない。青年団はその費用を自らの力によりて、地方の父兄又は有志者に仰ぐは可なるも、いやしくも公費の中よりは一銭と雖も受くべきものでない」公費の援助を受けたのでは却って「依頼心や事大思想を助長せしむる悪結果を来たさぬとも限らぬ」ともいっています。この言葉はそのまま、我が国におけるロータリーの新世代奉仕の進め方に対する苦言として受け取ってもよいのではないでしょうか。

同じ読本の『博愛の精神』のなかに、山治はこんなことを書いています。第一次世界大戦の後、日本は大戦の影響で成金が続出し、国民は皆好景気に酔っていました。たまたま英国のミス・リッテルという人が、ハンセン病の治療施設である熊本の回春病院の院長をしていました。彼女のいいますのに、日本で15万円集められるなら、それに対してアメリカから30万円募金に応じる、ついては日本での15万円の募金をお願いできないかとのことでした。ロータリーの国際社会奉仕と同じ考えです。武藤は、直ちに引き受けて募金を始めたのですが、結局は半分にも満たない6万5千円しか集まりませんでした。山治は、「私は何としても吾が日本国民の博愛心の乏しいその心が解らぬ。一度総理大臣より午餐会にでも招かれて口説かれると、幾萬、幾十萬円の金も容易に投げ出す吾が国有力者の心の中に、何故に今少しく博愛の精神が起こり得ぬであろうか」と嘆いています。武藤にとっては、事業は個人だけのものではなく、国家のもの、社会のものだという考えが強かったのです。

武藤山治はやがて鐘紡を退いて、政界に入りますが、福島新吉の凶弾に倒れて、昭和9年3月12日午後9時10分、67年の生涯を閉じました。

(菅 正 明)

北九州市小倉北区の中心街から歩いて5分ばかりのところに、株式会社TOTOがあります。私どもが中学生だった昭和十年代、学校から小倉造兵廠の横を通って陸軍橋を渡りますと、そこに東洋陶器の工場がありました。その頃の中学生の知識では、東洋陶器では喫茶店で使っている白色で厚手のコーヒー・カップと便器をここで作っているのだそうなくらいの話しか知りません。何故こんなところに焼き物の工場があるのかなと思いながら、工場の横を歩いていったものです。

東陶機器70年史によりますと、天草産の天草陶石が硬質磁器の原料として大へん優れていることや、北九州が筑豊炭田を控えており、陶磁器の大量生産の燃料確保に有利、更に輸送拠点としての北九州の地理的状況などから、小倉市(現北九州市小倉北区)篠崎に一九一五年(大正四)、東洋陶器株式会社が設立されました。わが国ではそれまで、和風の便器は全国の窯で作られていたのですが、現在私どもが使っているような、洋風の硬質陶器製の洗面機器や便器が大量生産されるようになったのは東洋陶器が初めてで、このときから『衛生陶器』という名称が使われるようになったのです。先ほど便器を作っているといいましたが、正確には衛生陶器を作っているというべきでした。

それまでの日本の窯業では、燃料は薪でしたが、ヨーロッパでは効率のよい石炭が使われていました。これは後ほどまたお話しますが、日本で石炭を使っての陶磁器の生産が始まったのは、1904年(明治37)年、実際に製品として市場に出回るまでには、更に7年の歳月と苦闘を要しました。

幕末維新期、九州はわが国最大の石炭生産地でした。しかしながら明治の初めころまでは、石炭は製塩に使われているくらいのもので需要も少なく、長雨でも続こうものなら、塩作りも下火になって、売れ行きも下がり、経営が苦しくなるという状態でした。当時の石炭生産地は、唐津炭田や高島炭鉱のある現在の佐賀県が中心でしたが、日清戦争の起こる数年まえから三池炭鉱が台頭し、やがて筑豊炭田が急激に発展することになります。筑豊では、明治20年代から30年代にかけて、安川、貝島、麻生などの地場の炭鉱資本と並んで、三菱、三井、住友、古川など中央の大資本が進出、日露戦争のころには、筑豊炭田で全国の出炭量の50パーセント以上を占めるようになっていました。石炭燃料を多量に使用する窯業が北九州に進出したということは、実に慧眼だったと思います。

東洋陶器の創設者森村市左衛門とはどんな人なのか、かねてから疑問に思っていたのですが、数年前砂川幸雄が、その生涯の全貌を『森村市左衛門の無欲の生涯』と題して出版しました。評伝の力作といってもよいでしょう。この本を読んで、森村市左衛門という人は単に『TOTO』の創立者というだけでなく、日本の主要窯業はすべて市左衛門に源を発しているといってもよい人だということがよく分かりました。

森村家の初代市左衛門は、遠州いまの静岡県から江戸へ出て、旗本出入りの今でいう馬具の製造販売業を営んでいました。これからお話する六代目森村市左衛門も、只の商人ではなく、商品の考案、製作、販売を一括して、事業を成功させた人で、その素質は先祖譲りのものでしょう。

森村家は代々市左衛門を名乗っており、六代目市左衛門は1839年(天保10)年、父勇造、母松子の長男として生まれ、市太郎と名付けられました。ロータリーのパスト・ガバナーで、1939年から1940年のRI第70地区ガバナーを務めたのは、第八代目森村市左衛門です。序でながら、森村年度から日本は、第70地区(日本東部:名古屋以東の東日本の20クラブ)、第71地区(日本西部:西日本及び台湾の19クラブ)、及び第72地区(朝鮮・満州:朝鮮、満州の3クラブ)の3地区となります。

市太郎は生まれてから大へん体が弱かったそうですが、長男で過保護に育ったから弱かったのでしょう。成人してからは随分元気で、81才まで長生きしています。市太郎が16才のとき、年号が嘉永から安政にかわります。安政という時代は、国内では大地震があったり井伊直弼が桜田門外の変で一命を落としたりで、また外国との間には下田・函館などの開港などと、内外ともに激動の時代でした。当時江戸の京橋に住んでいた市太郎一家は、安政大地震のときの火災で、家財道具一切を焼失、家族は着の身着のままで、路頭に迷う有様で、おまけに祖父以来の借財のため、悲惨な生活を余儀なくされていました。震災の直後から市太郎は、昼間は焼け跡かたずけの日雇人夫、夜は蓆二枚に古道具を並べそれを売って、その日その日をしのぎました。

1859年(安政6)横浜港が開港されました。横浜開港を契機にして、それまではせいぜい大山詣の宿泊所に過ぎなかった厚木辺りが、生糸商人の通る道、いわゆるシルクロードとして、また横浜の後背地として急速に発展していきました。江戸と横浜との間の交通が頻繁になったことは、いうまでもありません。横浜が開港して以後の外国商人との取引は、それまでの特定の商人間の、閉鎖的な売買とは違って、誰がどんな商品をどの外国人から買い入れようと全く自由で、その気がありさえすれば、誰でも商売のチャンスをつかむことができました。市太郎は、開港と同時に横浜に出かけ、市太郎の住んでいる京橋から横浜までの8里(32キロ)の道を往復して、外国人からさまざまな商品を買い入れ、江戸に持ち帰って市中を売り歩きました。外国商品は、ただ珍しいという理由からだけでなく、使ってみると役に立つものですから、大変な売れ行きでした。「何でそう私にやらせるかというと、つまり熱心だからである。人からものを請け合うと、一所懸命になる。利益ということまで忘れてしまうが、儲けることはあたりまえで、1割なら1割、利益を得ることは当然としている。・・・・僅かな手数料で持っていくから、大丸より安い。それで商売というものは何でもできると思った。ただ熱心で、そうして儲けない。よそでは二割も儲けるというのに、こちらは五分しか儲けないというやりかたをするから、自然に信用というものが集まってくる」と、市太郎は後にいっていますが、ウエーバーがいう勤勉の精神がよく出ていますし、暴利を貪らないというのもプロテスタントの取引と同じ考えです。市太郎のこのような考えが受け入れられて、中津藩の江戸屋敷に出入りするようになり、ここで福沢諭吉との接点ができるのです。

もともと森村家は武具商、なかでも馬具が専門です。偶々幕府から洋式騎兵の馬具製作の注文を受け、その製法をフランスの軍人レオン・デシャルムから直接 習って製造を始めました。森村製の洋式馬具は、飛ぶように売れました。市太郎の商売の特徴は、製造して販売するにあります。洋式馬具を自ら製作して販売し たのがそうですし、アメリカとの貿易を始めてからの西洋食器の輸出にしても、その後に創立する衛生機器や発電用の碍子、さらには自動車や航空機用のプラグ の製造にしても、主として軍服製造を専門にしたモリムラ・テーラーの場合も、またこれは失敗に終わりましたけれども製塩や養蚕など、どの事業を見ても、自 ら研究してその製法を確立し、商品を製造販売するのです。後の大倉陶園や伊那製陶も、全て市太郎の研究心とその延長ともいうべき、森村グループの職業に対 する真摯な姿勢によって成功した企業です。

市太郎は、1876年(明治9)福沢諭吉の勧めで、海外貿易を目的に弟豊をニューヨークに送ります。米山梅吉が小学校に入った頃です。慶応義塾を卒業した豊は、福沢諭吉の紹介状を持って、アメリカの商船オーシャニック号で太平洋を横断、7年前に開通したばかりの大陸横断鉄道に乗って、4月10日ニューヨークに到着しました。3月10日日本を出発して、丁度1ヶ月目です。ニューヨークで豊は短期商業学校を卒業、直ちに兄の市太郎宛アメリカ人の気に入りそうな日本品を送れと連絡し、アメリカでも早速仕入れを始めました。クリスマス商戦を狙ったものでしたが、これが見事に当りました。もともとアメリカではクリスマスを祝うことはあまりなかったのですが、この頃にはクリスマス・イブを祝う習慣がすでに定着していたようです。それから2年後の1878年(明治11)従業員も増やして、新たに森村組ニューヨーク支店を開き、店名を『モリムラ・ブラザーズ』としました。森村組のニューヨークにおける本当の意味での第一歩です。

その当時、国産品の輸出は日本の国益にもなるのですから、貿易商社には政府からの多額の援助がありましたが、森村組は一切これを受けず、周囲のものからどんなに勧められても、市太郎はあくまで自主独立の初志を貫徹したのです。彼は後年、「自分は、いかに困窮したときでも、決して憐れみを人に乞うことはなかったが、福沢先生と交際ってから、ますますこの決心を固くした。一国の独立は畢竟個人の独立にあるのだ。個人として人の世話にならなければ立てないようなしみったれで、どうして国家の独立が保てるかとの福沢先生の言は、実にわが意を得たる名言だ」と書いています。

ニューヨークの森村ブラザーズは、その後急成長して、小売専門から卸売り主体に転換、取り扱い品目も陶磁器類を主として、特にアメリカ人好みのデザインを作って輸出に向け、これが大当たりしました。折から、第一次世界大戦の戦中戦後、ヨーロッパからのアメリカ向け陶磁器の輸出が途絶えたものですから、その分だけ日本への需要が急激に伸びて、森村グループの事業拡大の要因となりました。森村組の陶磁器生産に大きな功績があったのは、市太郎の姻戚関係にあった大倉孫兵衛です、彼は後に私財を投じて高級洋食器のメーカー大倉陶園を設立します。

1887年(明治22)、市太郎の実父五代目市左衛門が逝去、1894年(明治27)その7回忌を機に、市太郎は第6代目森村市左衛門を襲名しました。

市左衛門は、国産原料による陶磁器の製造、絵付け作業などの分業による効率化、石炭燃料使用による大量生産など、それまでの家内工業的な陶磁器生産に革命的な新しい技法を次々に開発して、1904年愛知県則武に、白色硬質陶器輸出のための日本陶器合名会社を設立しました。後年世界のブランド名となったノリタケ・チャイナです。

森村組ではその後、1917年(大正6)小倉市(現在の北九州市小倉北区)篠崎に衛生陶器専用の工場を持つ『東洋陶器株式会社』を設立、2年後の1919年(大正8)日本陶器から碍子部門が独立して『日本碍子株式会社』となり、1936年(昭和11)耐酸磁器、自動車、航空機の点火栓部門が独立して『日本特殊陶業株式会社』となりました。東洋陶器は創立後、第一次世界大戦後の不況の影響を受けて、一時は新設したトンネル窯の稼動を中止しなければならないような状態に追い込まれたこともあったのですが、関東大震災後の復興事業や鉄筋コンクリートのビル建設の普及によって、急速に衛生機器の需要が伸び、事業は大きく拡大しました。また、6代目市左衛門が直接関わった訳ではありませんが、先に書いた大倉陶園、伊那製陶があります。

市左衛門は早い時期から教育や社会福祉について関心を持ち、北里柴三郎への援助や日本で最初の結核療養所の設置など、教育や福祉事業に幅広い支援を続けてきました。1901年(明治34)に『森村豊明会』を発足させ、慶応義塾や早稲田大学などへの援助、女子教育のための醵金など、まだ女子に学問は不要だといわれている時代に、先覚者としての活動を行っています。また、学校を支援するだけでは満足せず、自邸内に幼稚園と小学校を開設しましたが、これが現在の森村学園の前身です。

明治の末頃から、市左衛門は特に事業に対して口出しするようなことはすでにありませんでしたが、その思想は森村組関連の企業全般に広く行き渡っていました。彼はこんな言葉を残しています。事業に志した明治人の心意気が直に伝わってきます。

「よしややり損じても、また儲けなくても、国家のためになることならば、ドシドシやってみるがよかろう。自己を犠牲としても、国家将来のため、社会人類のために働くという覚悟は、事業を成す秘訣であると私は断言する。いやしくも自分が犠牲となる以上は、少なくとも一つの精神を後世に遺しておかねばならぬ。尾となっても枯れてもよいから、なにか一つ凛呼たる精神を遺しておけば、その人死すとも同志の人が必ずそれを継いでくれるであろうから、いつかは成功しないことはない」

市左衛門と同時代の事業家は、殆どの人が彼と同じような考えを持っていたにに違いありませんが、その強い意思力と行動力とが、私たちの心を引くのです。

話は外れますけれども、『丸善』を創設した人に早矢仕有的がいます。市左衛門より2つ年上です。美濃の国に生まれ父は医者でした。父の死後18才で開業、その後江戸に出て同じく医者を開業、大いに繁盛しましたけれども、31才のとき開業を止めて慶応義塾に入りました。一種の商才のようなものを持っていたものですから、福沢諭吉の勧めもあって、1868年(明治元)横浜に書店を開業、初めは慶応義塾出版の本の委託販売を引き受けていました。店は大繁盛で二年も経たないうちに手狭になり、明治2年東京相生町に独立して書店を開業、店名を『丸屋』とつけました。早矢仕という人は、かなり茶目っ気があったのでしょう。明治10年発行の書籍の奥付に、『発行書肆 丸屋善七』とありますが、これが実は早矢仕が作った架空の人物で、『丸善』という名前の由来は、『丸屋善七』からだそうです。早矢仕有的も、大へん立派な仕事をして日本文化の発展に大きく寄与した人ですし、私はむしろこの人に魅力を感じます。しかしながら、職業奉仕という観点から人を求めますと、なんといっても森村市左衛門です。

(菅 正 明)

大正3年3月に帝国劇場ではじめて公演した松井須磨子の『復活』は、大成功でした。殊に、カチューシャに扮した松井須磨子が歌う『カチューシャの歌』は物凄い人気で、芸術座が3月に東京公演を終えて、4月から京都・大阪、次いで九州公演を行ったのですが、一行が長崎に着いたときには、もう『カチューシャの歌』が街でひろく歌われていたそうです。ラジオもテレビもない時代に、一ト月も経たないうちに歌が全国に広がったのですから驚きます。其の後も東京での再公演では、毎日数百人の観衆が押しかけたというのですから、その人気の程がうかがわれます。『カチューシャの歌』の作詞は、一番が島村抱月、二番・三番が相馬愛蔵です。歌詞を書いておきます。

     カチューシャ かわいや 
     わかれのつらさ
     せめて淡雪 とけぬ間に
     神に願いを ララかけましょか
     カチューシャ かわいや
     わかれのつらさ
     今宵ひと夜にふる雪の
     明日は野山に ララ路かくせ
     カチューシャ かわいや
     わかれのつらさ
     せめて又逢うそれまでは
     おなじ姿で ララゐてたもれ

因みに、作曲は、上野の音楽学校を卒業して、島村抱月の家で書生をしていた中山晋平です。
『復活』で『カチューシャの歌』が成功した後、劇のなかに歌を挿入することが流行り、大正四年ツルゲネーフの『其の前夜』には吉井勇作『ゴンドラの歌』(命短し恋せよ乙女)が、大正五年トルストイの『生ける屍』には北原白秋作『さすらいの歌』(行こか戻ろかオーロラの下を)が加えられました。いずれも作曲は中山晋平です。

松井須磨子は、愛蔵と同じ長野県の出身で、相馬黒光との付き合いがありました。須磨子は激しい気性の持ち主で、島村抱月が早稲田大学教授の地位を擲って演劇運動に専念するようになったのも、彼女の影響が大きかったのだと思います。一九一八年(大正7)抱月がスペイン風邪で急逝した2ヵ月後、須磨子は抱月の後を追って縊死しました。彼女は、舞台女優になるまえ、隆鼻術を受けたのですが、これが舞台で大へん役立ちました。ただ、寒いときには手術の痕が紫色に変色して、目立ったそうです。我が国美容整形の嚆矢というところでしょう。

同じく長野県出身の岩波茂雄は、その頃東京で教鞭をとっていたのですが、教師の仕事に行き詰まって、何か商売でもやりたいといって、中村屋で成功している相馬愛蔵に相談しました。愛蔵もそれはいいだろうということになり、岩波書店を開業しました。岩波は開店にあたって、夏目漱石に『岩波書店』と揮毫してもらい店に懸けたのですが、大正12年の関東大震災のとき焼失してしまいました。

相馬愛蔵は1870年(明治3)10月25日、現在の長野県穂高町白金に生まれました。穂高町は松本市に隣接する穀倉地帯の安曇野のほぼ中央にあります。穂高町には、日本近代彫刻の父といわれる荻原禄山の作品や関係資料を集めた禄山美術館があります。後でお話しますが、この荻原禄山も相馬夫妻と大へん深い関係のある彫刻家です。

明治時代の穂高は、養蚕業を中心とした農村地帯でした。愛蔵も、早稲田大学の前身東京専門学校を卒業後は、一時北海道で養蚕業を始めようと計画したこともありましたが、相馬家の相続人であることから、郷里に帰って蚕種業に専念しました。在京中から教会に通うなど、宗教心があつく、穂高に帰ってからも友人たちと穂高禁酒会を作るなど、ピューリタン的生活を送っていました。研究熱心で商才にもたけており、明治27年に出版した『蚕種製造論』は自分の蚕種製造の経験を土台にして書いたものですが、明治の末年までに五版を重ねています。

黒光の記録によりますと、「もともと相馬家は土地の名望家で、物質に執着する家風ではなく、さすらいの旅芸人を愛護し、碁将棋の先生の長逗留もかまわぬという暮しぶり」だったそうです。後年、中村屋サロンに多くの芸術家たちが集まったのも、愛蔵の幼児体験に相馬家の家風が焼きついていたのでしょう。

黒光のペンネームで知られる、愛蔵の妻良は、仙台の生まれです。当時としては大へん進歩的で活発な女性で、東京の明治女学校に通っていたとき、尊敬する先輩に勧められて、1897年(明治30)相馬愛蔵と結婚しました。愛蔵28才、良23才でした。二人は結婚後、穂高に帰って蚕種業を続けるのですが、妻の良がどうしても穂高の生活に適応できず、一時ノイローゼのようになったものですから、やむなく東京に出てきました。穂高での生活を良は、「嗚呼田舎よ汝は如何に険悪で卑猥なるよ我は汝を追想する毎に一種云うべからざる不快の感を喚起せざるを得ざるなり」とか「田舎の姑は大概ね安達ヶ原の鬼婆々的悪性者のみ」などと書いていますから、よほど耐えがたかったのでしょう。但し、黒光に問題があったのか、穂高の風土が黒光に苛酷であったのかは、なんともいえません。
明治34年9月、愛蔵は妻子とともに上京します。理由は、良が田舎での生活や子供の教育問題で苦しみ、心身疲労が高じて病気になったために、病気療養を兼ねて新しい生活を求めるというものでした。

愛蔵は、穂高の家では蚕種業をやっているものの、東京に出てきて遊んでいる訳にもいきませんので、あれこれ研究の末、その頃はまだ珍しかったパン屋を始めることにして、『パン屋譲り受けたし』の新聞広告を出したところ、見つかったのが本郷の帝大(いまの東大)正門前にある『中村屋パン店』です。中村屋は繁盛していたのですが、店の主人が米相場に手を出して失敗、店を手放さなければならなかったのです。
愛蔵一家は、その年も押し迫った12月30日、9月以来の仮寓から中村屋の二階に移り、屋号もそれまでの中村屋という名前をそのまま引き継いで、パン屋を開業しました。
愛蔵は開店に当って、次の五ヶ条を守ることにしました。

  1. 営業の目鼻がつくまで衣服を新調しないこと
  2. 食事は主人も店員たちも同じものを摂ること
  3. 米相場や株には手を出さぬこと
  4. 原料の仕入れは現金取引のこと
  5. 最初三年間の生活費は郷里の養蚕の収益から支出すること

禁欲と勤労の精神がよく組み合わされています。また彼は、福沢諭吉が唱えていた『独立自尊』を商売の拠りどころにしました。愛蔵の著『私の小売道』から引用しましょう。

「福沢諭吉翁が唱えていた『独立自尊』という言葉ですが、私はだいたいあの気持ちで商売をやって行きたいと思ったのです。政治家が政治をするのも国家社会のためであるだろうが、商人が商売をするのも国家社会のためでなければならぬ、同じく国家社会のために、政治家となり、商人となっているのだとすれば、政治家が身分がたかく、商人は卑しい者だということはないはずである。ところが我が国では、昔から、うまく誤魔化して儲けることが商売であるくらいに思っていて、商売には人格とか道徳だとか全く無用のものと考えている者が少なくなかった。」

その結果、自分も他人も商人を卑しい者にしてしまった。それではいけないので、よい商品を作り、正当な利潤をあげることは、決して卑下するに当らないので、愛蔵は「私は、お客様に対しても対等の態度で接して」いるといい、其の自信がなければ本当に立派な商売はできないと考えます。

そして愛蔵は、商売を芸術化すべしと、次のようにいっています。

「商売の目的は、有無相通じ、人生を幸福に導くにある。真の商売は利を求むるところなく、商うことそれ自身が喜びであり、幸いであり、困難を乗切り進むところに、男子として恥じざるものがあるではないか。更に又有無相通ずる働きより一歩を進めて、製品の完美を期し、経営を合理化して、世の人の生活を豊かにし、その天職を全うし、己れも亦、人と共に楽しむの域に達するならば、商業の秘奥ここに極まれりというべきである。この境地こそ、一種の芸術と称するを得ん。」

この愛蔵の商業哲学は、勤勉と禁欲の精神をもって商業を営み、世の人々を豊かにすることは、神から与えられた使命(天職)というピューリタンの考えと一致するものではありませんか。

『続一商人として』から、もう一つ引用しておきます。

「真の商売は利を求むることではない。商うこと自身が喜びであり、幸いなのである。商人は決して、金銭と品物との交換以外に用のない機械ではない。ニイチェという哲人は『太陽は惜しみなく万物に光を与へ而もそれがために太陽自身は少しも減ずる所がない』と言っているが、商人も太陽のように万人に喜びを与えることが出来、商人自身が減ずる所はない存在である。例えば、商人がお客様のために飽くまで忠実に最善を尽くすその親切心は、お客様を心から喜ばせ、好意と満足とを与えることが出来る。この尊い精神的恩恵をも、お客様には、対手が商人なるが故に、少しも心の負担を感ずることなしに、優越した気持ちで受取ることが出来る。これは、商人を措いて決して誰からも求め得られないことである。ここに至れば、儲けるとか儲けぬとかいうことは問題の外であり、両者一体に融け合った一種崇高なものが感ぜられる。これが正しい商業道であり、商売の喜びである。」

商売は順調で、早稲田出の書生上がりのパン屋ということもあって、なかには「小僧のようなことをして、卒業生の面汚しだ」と、同窓のもので非難する人もあったのですが、店は大いに繁盛しました。ある時、ある学校の寄宿舎に注文のパンを届けますと、そこの管理人が「リベートを一割寄越せ」といいます。当時、配達した商品の一割くらいのリベートを渡すことは常識のようになっていたのですが、愛蔵はこれを断固としてはねつけ、もしそれで得意先を失ったとしても、止むを得ないことだと考えました。また彼は、囮商品で客寄せをして、他の商品を高く売ることをしません。「安く売ろうと思へばいくらでも安く売れるのだと考えている人が、まだ世間には多いのである。そういう人はこの囮商品の安値に釣られ、正しい値段で売っている方を暴利と見る。誠実な商人にとっては迷惑この上もない」といい、商品にはすくなくとも2割の販売差益を受けるのは当然のことで、これは官吏が俸給を受けるのと同じことだ、だから「実際の経費以下の利鞘で販売する商人は、真の勉強する商人ではなくて、他に迷惑を及ぼす不都合な商人だ」と決めつけます。第七話でお話した石田梅岩の代表的著作『都鄙問答』のなかにも、商人の利潤について同じ質問に、愛蔵と同じ意味の答えが返ってくるところがあります。

生産過程を合理化すれば、製品のコストは下がる筈ですが、それにも限度があるでしょう。そこを無理に値下げすると、製品の質を落とすか、利益を他の商品に転嫁せざるを得ません。愛蔵の商人道は、それを許さなかったのです。囮商品―目玉商品で客を釣るなという愛蔵の考え方を、深く噛みしめていただきたいと思います。

中村屋が開店して3年目、新商品としてクリームパンとクリームワッフルを売り出しました。ある日愛蔵は、シュークリームを初めて食べて、其の美味しさに驚きました。餡パンが木村家で売り出された後だったものですから、クリームを餡パンの餡の代わりに使ったら、栄養価もあるし一段と新鮮なものができるのではないかと考えて生まれたのが、クリームパンです。クリームパンの発売は明治37年、日露戦争が始まった年です。

愛蔵は、新製品の開発に絶えず気を配りました。大正12年関東大震災の後、水道電気も復旧していないとき、まだ余震の続くなかで売り出したのが『地震饅頭』『地震パン』です。これは戦後『力まんじゅう』という名に生まれ変わって発売されています。その他、月餅、かりんとう、水ようかんなど、いずれも中村屋が独自で開発したお菓子です。

また昭和2年、喫茶部の開店にあたってメユーに入れたのが、カリーとボルシチです。いずれも曰(いわく)があって、カリーは愛蔵の長女俊子と結婚したインド独立運動の志士ラス・ビバリ・ボースから教わったもので、日本人向けに調理されて献立のなかに入れられました。ボルシチは、ロシアの伝統的な家庭料理です。大正六年、ウクライナの盲目詩人エロシエンコが来日、ロシア革命で本国からの送金が途絶えたのを憐れんで、相馬夫妻が中村屋のアトリエに引き取り、世話をしました。その時エロシエンコが中村屋に残したのが、ロシア料理のボルシチです。

順調に発展している中村屋も、税務署にはいじめられたようです。税務署の査定通りに税金を払ったのでは、経営が立ち行かないということが分かって、大正十二年四月中村屋は、株式会社組織に改めました。これより前、開店六年目の1907年(明治40)、『新宿中村屋』を開店、その初日の売り上げは本店の本郷店を凌駕していたそうです。当時の新宿は、まだ場末の殺風景な場所だったそうですから、愛蔵には天性の先見の明があったのでしょう。

新宿中村屋を開いてから、こんな話があります。パンは夏によく売れて、冬は店が閑散としています。店の売り上げにむらがあります。冬忙しくて夏は暇な和菓子を売り出せば、年間の売り上げにむらがなくなるのではないかと考えて、和菓子の製造販売を計画しました。愛蔵は、和菓子の経験はないものですから、手始めに宣伝のためにと、歳末の賃餅を思いつきました。遠縁にあたる穀類の研究者である畑中五郎に相談したところ、ただ餅を搗いて売るだけでは駄目だ、新兵衛餅を搗いて売り出せばきっと成功するに違いないというアドバイスを受けて、これを実行しました。この計画は大成功でした。新兵衛餅というのは、埼玉県越ヶ谷の新兵衛新田でとれるもち米のことです。旧幕時代将軍家用に使われていたものだそうです。私も、もち米は埼玉に限るという話を聞いて探したことがありましたけれども入手できませんでした。いまもあるのでしょうか。但しこのもち米も、年によって出来不出来があって、もち米のできる場所は、昔は沼地だったところを田にしたものですから、土地が低く、雨の多い年は不作でさっぱり美味くないのだそうです。中村屋もそれで失敗したことがあり、それ以来もち米の成熟期と収穫期の2回、現地調査をすることになり、不作のときは他の美味なもち米を仕入れることにしました。

大きく花開くことになります。それが『中村屋サロン』です。これには勿論、文学好きの愛蔵・黒光夫妻の趣味的な集まりに始まったものではありますけれども、日本の美術史は中村屋サロンを措いては語ることができないほど大きな影響を、絵画彫刻の世界に残しました。この時期、先に述べた岩波書店の岩波茂雄のもとには阿部次郎、安倍能成、小宮豊隆などが集まったり、志賀直哉、武者小路實篤、木下利玄などの集まりもありましたけれども、例えば、岩波の周りに集まったのは、漱石門下というような特別な繋がりによるもので、中村屋サロンのように職業、芸術領域、国籍など多岐にわたる自由な集まりはありません。精しくはまた別の機会にお話したいと思いますが、ここには集まった人の名前だけ挙げておきます。

中村屋は、明治40年の開店以来、新しい経営理念のもと、徹底した市場調査、製品の開発、原料の精選など、近代的な合理精神のもとで商売は順調に発展しましたが、中村屋の事業はそれに止まらず、やがて『商売の目的は社会への奉仕』という愛蔵の経営理念が

愛蔵と同郷の彫刻家の禄山荻原守衛、中原悌次郎、戸張孤雁。禄山は31才で急逝しますが、その影響を受けて悌次郎は画家から彫刻家に転じます。彫刻家で詩人の高村光太郎。画家では中村彝(ツネ)、鶴田吾郎、中村不折、柳敬助、斉藤与里。中村は、新宿中村屋の裏にある禄山が使っていたアトリエで製作を続けますが、結核で35歳の生涯を閉じます。文学者の木下尚江、秋田雨雀、會津八一。宗教家内村鑑三、俳優の松井須磨子、インド独立の志士ラス・ビハリ・ボース、盲目の詩人エロシエンコなど、その顔ぶれの多彩なことに驚きます。

最後に『私の小売商道』の序文の一部を紹介して、第十一話を終わります。

「良心に恥じず、独立独行誰の干渉をも受けずして、ただ自らの手足を働かせ、額に汗してもって得た所のいわゆる労働に対する相当の報酬に由って自ら生活して行くだけの順序方法を書いたものに過ぎない。吾人は損することを誇りとするものではないが、金を貯えることをもって唯一の理想とすべきものとは信じない。たとい多大の財産を有する者でも、一つの為すことなく、うかうかとこの世を渡るべきものでないことを主張するに過ぎないのである。」

(菅 正 明)

松本健次郎は、父安川敬一郎の一周忌を記念して、『撫松余韻』を出版しました。『撫松』は敬一郎の号、亡父敬一郎の遺稿集です。その序文に健次郎は、要約すると次のようなことを書いています。

「亡父敬一郎の家業は、炭坑業である。然しながら、父が炭鉱業に従事したのは、末の兄である幾島徳が佐賀の乱で亡くなったので、やむを得ずその後を継いだ。七十才で実業界を引退するまで、父の炭鉱業への取り組み方は、その心情において『士族の商法』の域を脱し切れなかったように思う。

父の生家である徳永家は、代々亀井学(黒田藩の儒学者、亀井南冥が開いた 著者註)の儒家で、なかでも伯父の玉泉は昭陽門下だったが、若くして亡くなったとき、その師昭陽先生が『孝友天至、才華出倫、我が死後斯文の託する斯邦一人あるのみ、惜しいかな』と嘆いたほどの英才であった。その血を受け継いだ父は、実業界に身を投じたものの、終に実業にのみ没頭することはできなかった。衆議院や貴族院に議席を持ったときも、事業資金に余裕ができると直ちに、私財を擲って明治専門学校の建設に身を投じたのも、また引退後、日支合弁の製鋼事業を計画して失敗したことも、父にとっては、なにも他に動機があった訳ではなく、ただ実業の世界に安住できなかったからに他ならない。亡父自筆の略伝のなかに『十五才より藩学校に学び原田活助翁の門に出入すること年あり、余は常に書籍を懐にして剣槍の師家に往来するに、同儕皆青表紙とか学者とか号して誹謗するを常とせり』と書いている。諺に三つ子の魂百までと云うが、この青表紙の志は、父の一生を通じてはなれなかったのである。」

少し長くなりましたが、これを読んでいただくと、安川敬一郎の資質がどんなものであったか、よくお分かりだと思います。

『撫松余韻』は、『論語漫筆』『日記抄』『折にふれて』の三部より成っています。第一部の『論語漫筆』は、敬一郎が大正四年一月から昭和四年八月までの十五年の間に、『筑紫史談雑誌』に連載したものです。本書の大部分をなすもので、四六版八百ページのうち五百五十ページが『論語漫筆』に当てられています。論語のなかの各章句の解釈ですが、読み出すと大へん面白い内容で、何時の間にか本文の解釈は何処かへ行ってしまって、政治批判や時事放談になってしまうという具合で、明治から大正にかけての政治裏面史を読んでいるようです。

論語を座右に置いていた実業家といえば、渋沢栄一です。『撫松余韻』のなかにも、渋沢の名前が数ヶ所出てきます。ここにその一つを紹介しておきましょう。

 曽子曰。士不可以不弘毅。任重而道遠。仁以為己任。不亦重乎。死而後已。不亦遠乎。
 (曽子曰ク士ハ以テ弘毅ナラザルベカラズ。任重クシテ道遠シ。仁ハ以テ己ノ任トナス。
  亦重カラズヤ。死シテ後已ム。亦遠カラズヤ。)

論語泰伯編のなかの有名な句です。『死而後已』は、吉田松陰が大へん好んだ句でもあります。敬一郎は、この語句の解釈をした後、渋沢栄一について、次のように書いています。

「渋沢翁は明治の初期、未だ士農工商なる階級観念の濃厚なりし時代に、早くも大蔵小輔の顕職を抛ち、政治界を脱却して専ら身を経済界に投じ、産業発達の基礎ともいへる銀行業を興し、即ち第一銀行を振出しに、我邦産業政策の端緒を開き、企業家を奨励誘掖し、或は製造工業会社の設立を助け、又は特旨の個人事業の後援者となり、我が国最初の著名の産業会社には殆ど関与せざるものなしといふ程広き範囲に力を尽し名を列せられたのである。為めに一人にして数十社の重役を兼ぬるは無責任に近いとの非難も伝はったが、事実は産業界の未だ発達せざりし時代には、翁の諾否によって成否が岐るゝ有様であったので、企業家の多くが必要以上翁の後援を乞うてゐたのである。今日の会社屋なる者が無数の会社の重役に列して居るのとは全く其の選を異にする。」

事実、当時渋沢についてはかなり強い批判があったのですが、それについても敬一郎は公平冷静な判断をしていることが分かります。『撫松余韻』のなかにはその他にも、企業が製品の開発に当って、その開発研究費を国庫に頼るべきでないとか、社会保障制度を事業主の好意に依存するのではなく、国の制度として完備せよ、或いは日支(日中)友好、日米非戦論など、当時としては非常に進んだ考えを語っています。なかでも教育についての関心は深く、江戸時代の学問といえば、経書に没頭して聖賢の道を求めることであったけれども、新しい時代の学問はそれでは駄目なので、世界の競争場裡に打ち勝っていくためには、家庭教育、小学・中学教育から知育を重視しなければならない。但し其の前提として「徳性の根本を涵養」することが重要で、それがなかったら「徒らに俗眼に映ずる物質的文飾にのみ幻惑せられ、所謂粉々たる軽薄の徒となったならば、仮令槿花一日の虚栄を得ることがあっても、終に社会の信を得ること難く、多年研磨したる才幹技能も一向発揮するまでに至らずして凋落するに至るは当然のことだ」といっています。文部科学省のお役人に聞かせてやりたい内容です。

松本健次郎の父安川敬一郎は、父徳永貞七母くめの四男として、一八四九年(嘉永二)福岡城外鳥飼村で生まれました。いまの福岡市鳥飼です。幼名を藤四郎といいました。貞七には、織人、潜、徳、藤四郎の四男あり、次男潜は松本家に、三男徳は幾島家に、四男藤四郎は安川家に夫々養子として入り、敬一郎の次男健次郎が、後に松本家に入った潜の養子になって、松本健次郎を名乗りました。ちょっとややこしいのですが、覚えておいてください。福岡からは明治・大正・昭和期の財界人が多数輩出していますが、そのなかで三井合名の理事長で血盟団事件の犠牲になった団琢磨も、安川・松本家の遠縁にあたります。

安川家に入った敬一郎は、三女峰子と結婚、敬一郎十八才、峰子十四才だったそうで、随分若い花嫁花婿です。

明治二年、二十才になった敬一郎は藩命により京都に留学、半年後帰福すると東京・鹿児島・萩・静岡に出されました。維新の車に乗り遅れた福岡藩が、藩内の優秀な若者たちを維新の先進地に派遣して、情報収集を行い、敬一郎はそのうちの一人に選ばれたと云う訳です。静岡に遊んだ敬一郎は、そこで勝海舟や山岡鉄太郎に会い、勝からこれからは洋書を読めなければ駄目だといわれ、東京に出て英語の学習を始めたところに、長兄織人の事件が起こり、急遽福岡に帰ったのです。

明治三年十月四日、健次郎が生まれましたが、この年から明治五年にかけはて、敬一郎にとっては多事多難な時期でした。明治四年七月敬一郎の長兄徳永織人が、所謂福岡藩貨幣偽造事件の全責任を負って、刑死しました。福岡藩では藩財政建直しのために、藩で極秘裡に太政官紙幣の贋造を行い、偽の太政官札を持った旧藩士たちが全国に散らばって、諸国の物産を買い漁ったのです。維新後多くの藩で同じことが行われていたようなのですが、特に福岡藩がターゲットになって摘発されたのでしょう。織人は、其の責任を一身に取ったのです。この事件で、黒田長知藩知事は罷免閉門、その他多数の受刑者が出ました。黒田長知藩知事罷免の後任として、有栖川宮熾仁親王が数百の兵を率いて赴任したというのですから、明治政府もこの事件には可なりな危機感を持って臨んだのでしょう。

織人の事件後、敬一郎は一時帰福しましたが、明治五年再び上京して、七月慶応義塾に入りました。一八七一年(明治四)廃藩置県から数年間は、西洋文明を摂取して日本を西洋並みに開化しようという、文明開化の時期です。特に東京ではこの動きが強く、敬一郎も東京での生活のなかで、新しく眼にふれる西欧の文物に、瞠目したに違いありません。その頃の東京には、西洋文明の摂取には、表面的な西洋かぶれから、真剣に西欧の学芸を学んで、日本の文明の発達に役立てようとするものまで、西欧文明に接する態度はいろいろだったと思いますが、ともかく東京にはアンビシヤスな若者たちが犇めいていました。文明開化と云うのは、civilizationに対する福沢諭吉の訳語です。慶応義塾に入った敬一郎は、新しい学問の方法と独立自尊の精神とを、真剣に学びとったに違いありません。

上京してやっと落ち着いて学問を始めた敬一郎に、大へんなことが起こりました。一八七四年(明治七)二月十五日、江藤新平の佐賀の乱が起こり、福岡から鎮圧隊の小隊長として出動した三兄の幾島徳が、福岡佐賀の県境にある三ッ瀬峠で戦死したのです。徳戦死の知らせを受けた敬一郎は、取るものも取り敢えず、品川から千里丸に乗船、途中神戸で船を乗り継いで福岡に帰りました。

福岡には、安川家の養父母はすでになく、妻の峰子が六才の澄之助と四才の健次郎の二人の幼子を抱えて待っていました。それともう一人、敬一郎の帰りを首を長くして待っていたのが、次兄の松本潜です。この頃、潜は嘉穂、穂波両郡(現在の嘉穂郡)の大区長として、飯塚の役所に在勤していました。

潜は徳と共に、穂波郡相田炭鉱と遠賀郡東谷炭鉱とを経営していました。どちらも狸掘の小さな炭鉱でしたが、織人亡き後、徳永、幾島、松本、安川の四家の家族の生活を支えることができたのは、この炭鉱のお陰です。敬一郎が東京に遊学できたのも、勿論この二つの炭鉱があったからです。潜が大区長の職にあったので、炭鉱の経営はもっぱら徳の仕事でした。その徳が戦死したのですから、やむを得ません。相田炭鉱は潜が、東谷炭鉱は、洋学の道に進みたいという希望を断念して、敬一郎がみることになりました。かくしてこれが、安川松本商店となり、やがて明治鉱業株式会社へと発展することになるのです。敬一郎二十五才のときです。

明治九年敬一郎は、妻と長男の澄之助を福岡に残し、健次郎を連れて炭鉱の近くの長谷に仮住まいすることになりました。健次郎はこの頃のことを、次のように語っています。

「東谷炭鉱は、私の家の南側横手の坂をのぼってゆくと程遠からぬところにあった。いわゆる狸掘式の横坑があり、坑口までは坑夫が一尺たらずの短かい木杖をつきながら、ほとんど地面を這うようにして石炭笊を天秤棒で背と腰に担いて、女坑夫はスラを曳いて坑内から出て坑口のところに設けてある大きな竹囲いの中に石炭を入れる。見張人はその坑夫の名前と笊の数を呼んで、坑夫にその採出量を知らせていた。

坑口からの運搬は、竹囲いの中に積み上げた石炭を車力にのせ、車夫は一人か又は後押し付きで、松板を敷設した車道の上を曳いて坂を下り、町の南端の小川の岸に設けてある小型の艜(ひらた)の積込場まで運ぶのである。

この小型艜は現在の遠賀川駅の西側を流れている西川を通って遠賀川の本流に出て、その合流点でさらに大型艜に積み替えたのである。」

敬一郎は一八七七年(明治十)、家族全員を引き取って、遠賀郡芦屋町に移りました。当時の芦屋町は、芦屋千軒船千艘といわれた程繁盛した港町です。筑豊地方の石炭や農産物の集散地だったのです。彼が芦屋に移ったのは、家族を呼び寄せるためと、もう一つは、ここに事務所を設けて石炭の販売ルートを確保するためです。この頃の炭坑業は、ただ石炭を掘るだけで、確固とした販売網を持っておらず、石炭の需要も製塩に使うくらいのものでしたから、大雨でも降ろうものなら、直ちに石炭の売り上げはストップして、山持ちは生活に困るという状態でした。敬一郎が石炭販売業を目指したということは、その後の炭業発展にとって、大へんな慧眼だったといわなければなりません。

明治十年は西南戦争のあった年で、炭坑の坑夫たちが賃金のよい軍夫に引き抜かれて、坑夫の賃金が暴騰したり、石炭相場の大きな変動などということもありましたが、芦屋での生活は、明治十六年東京遊学中の澄之助が急逝したことを除けば、平穏だったといってよいでしょう。明治十九年に第五郎が誕生、後に安川電機を創立した安川第五郎です。

健次郎は明治二十年、福岡中学を卒業、安川商店神戸支店勤務、明治二十二年一年志願で軍隊生活を送った後、明治二十三年、二十才で松本家に入籍、静子と結婚しました。この時から、松本健次郎と名乗ることになります。健次郎二十一才のときです。

結婚の翌年、健次郎はトーマス・グラバーの勧めでアメリカ留学を決め、フィラデルフィヤーにあるペンシルバニア大学に入ります。寺島誠一郎、松方正雄、倉場富三郎らが一緒でした。倉場富三郎はグラバーの息子です。グラバーは、息子の名前を一時淡路屋富三郎と名乗らせていたのですが、これでは余りにも妙だというので、グラバーをもじって倉場としたのです。

健次郎が二年の留学を終えて、明治二十六年帰朝したときは、その前年までの石炭不況は幾らか回復して、日清戦争後の好況へと向かう時期でした。帰朝後健次郎は、石炭販売の第一線に立つことにして、敬一郎と相談のうえ、安川松本商店を開きました。これによって、敬一郎は、炭鉱経営とそれに関連する地域発展に関わり、健次郎は販売ルートの拡大に専念するという二人三脚の体制が整ったのです。明治二十九年門司に事務所を新築、門司で最初の洋風事務所でした。健次郎は日本に帰ってから、外国商社との直接取引を計画し、グラバーなどの協力を得て、既に門司のリンガー商会や横浜のサミュエル商会などと、大きな取引を成功させていました。

敬一郎は、筑豊炭田の代表として、炭坑の発展、炭坑間紛争の解決、地域の繁栄など、筑豊のあらゆる分野でリーダーシップをとり、なかでも筑豊地方の鉄道敷設、官営八幡製鉄所の誘致については、大きな役割を演じました。筑豊炭田の石炭輸送と鉄道の敷設とは、きっても切れない関係にあります。明治二十四年、若松・直方間だけだった鉄道が、一年後には小竹まで延び、やがて幸袋線、鯰田線なども開通し、明治二十九年には若松と折尾間の複線化も完成して、九州鉄道株式会社となり、敬一郎の長年の夢であった、筑豊地方の鉄道網が完備するのです。

敬一郎の炭坑経営において、最も特記しなければならないのは、炭坑の大納屋制度と採炭切符制度の廃止です。これには当時の大頭領や納屋頭なのどの利害が深く関わっており、大納屋制度を廃止して近代的組織に改めるには、大へんな抵抗がありました。時には流血の沙汰も起こりかねない状況でしたけれども、敬一郎のかねてからの正義感と不屈の精神とによって成功しました。これによって、山札とか炭券とか呼ばれた採炭切符制度は、明治三十三年から現金支払いに改められました。炭券の使用が法律により禁止されたのは、それより二十年近く後の大正八年です。

このことがあってから後、敬一郎は人から揮毫を頼まれると、『断而行之鬼神避之』と書いたそうです。納屋制度廃止を実現したときの、敬一郎の心構えの程が偲ばれます。下って東京オリンピックの後、オリンピックの組織委員長だった安川第五郎は揮毫を頼まれると、『至誠通天』の四字しか書きませんでした。オリンピックの開会式の前日夜半雨だったのが、誠心を持って晴天になるようにと天に祈ったところ、その真心が通じて晴れになった。それ以後、第五郎は「なにか、他の言葉を」と頼まれても、「私は、この四文字しか書きません」といって断りました。親子よく似ていますね。

事業への敬一郎、健次郎二人の打ち込みは、まさに一心同体といってもよいでしょう。炭坑現場の管理は敬一郎が、石炭の販売は健次郎が夫々責任をもって全力を尽くし、日露戦争の戦中戦後の好景気もあって、事業は順調に発展していきました。

敬一郎は、後に書いた『子孫に遺す』のなかに、事業や教育についての考え方を述べているので、それを読んで頂きたいと思います。

「明治二十七年の日清戦役はにわかに石炭の需要を増進するの機運を促し、戦禍はかえって我をして再生の恩沢に浴せしめたり。かくて三十一年頃よりやや秩序整い、更に日露戦役後の需要激増に遭遇するや、ここに始めて余は事業に対し確乎不抜の自信をいだくに至れり。

然れば我が鉱業の光明は日清日露両戦役がもたらしたる賜物にして、国家に対して感謝すべくんばあらざるものとす。最初、家政を維持し、子弟を養育する資に充てんがための窮策にすぎざりし我が事業が予期以上に発展して、小なりといえども、今日、実業界の伍班に列するの境遇に達し得たるは、これ正しく偶然の天意、不慮の僥倖といふべきなり。

余はこの天恵を私して、子孫を怠慢に導くを欲せず。故にいささか従来の事業に対する資金の余剰を見るや、明治専門学校を創立して、天恩に報くゆる微衷をつくし、また幾多の新事業を起して汝等に業務を与え、いたずらに財を擁して飽暖の欲をほしいいままにするなからしめんとせり。」

また、かねてから問題になっていた国有鉄道法案が国会を通過、翌年七月九州鉄道の引渡しを完了したときの、敬一郎の手記にも、

「殖産事業は余が本来の志望にあらず。今日聊か其趣味を感じ、其技能を会得せしも、是れ寧ろ騎虎の勢に駆られ偶然此に至りしものなりと謂うを適当とすべし」

と書いており、事業家として成功した敬一郎の本来の目的は、教育にあったというのです。また、財産に余裕ができると濫費して怠慢の原因になるから、後進のものは「一身のために濫費するを慎み、国家公用のために嗇用する(けちけちする)を戒むるは、財に処する要道」であり、財は「吝むべからず。すべからくこれを活用すべし」といっています。

健次郎は、敬一郎のこのような考えに賛同して、明治専門学校の創立に向かって努力するのですが、若い健次郎はこれだけの資金があったのですから、もっと事業を拡張したいと考えたのではないでしょうか。健次郎は『撫松余韻』の序文に、「父の炭坑への取り組み方は、その心情において『士族の商法』の域を脱しきれなかった」と書いているくらいですから、やはり彼には、父敬一郎とは別の考えがあったに違いありません。それをしないであえて敬一郎の学校設立に賛同したというのは、いかにも面白いことですし、のちの健次郎の言行を見ますと、健次郎にもやはり敬一郎と同じ血が流れていたようです。安川・松本家には、敬一郎と同じような素質がいまにつたわっているようです。これは後のことですが、健次郎の弟で明治鉱業を継いだ安川清三郎が、あるとき新聞で『帝国図書館の閲覧室が狭くて、利用者が入室できない』という記事を読み、仮書庫に転用していた一室を閲覧室にもどすために、書庫を図書館に寄贈したそうです。そして、この寄付行為は極秘にしてくれとの希望だったので、外部には一切知らせなかったのを、上野帝国図書館長の松本喜一が清三郎の死後、はじめて公表しています。

敬一郎ははじめ、総合大学を作ろうと考えていたようですが、山川健次郎の強い勧めで、工業のみの専門学校に変えたのです。このころ、敬一郎は大隈重信に会ったところ、大隈に「安川さん、学校をつくるなら、文科系統にしないと、工業では儲かりませんよ」といわれましたけれども、「育英事業で儲けることなど考えていません」と敬一郎は大隈の意見を笑殺しました。敬一郎は、将来商業系の併設を計画して、明治専門学校と命名したのだそうですが、その後文系を併設していたら、いまの九州工大はどうなっていたでしょうか。

学校創立に関して全面的に力を貸したのは、元東京帝国大学総長の山川健次郎です。山川は會津の出身で一八五四年(安政元)生まれ、七博士問題で東大総長の職を退いた後、公職には就いていなかった時期でしたから、敬一郎にとってはそれが幸いしたわけです。山川は、後に明治四十四年、初代九州大学総長に就任します。
学校の経営一切は、山川健次郎に委ねられ、山川は一九○七年(明治四十)一月、東大教授辰野金吾らを連れて学校の建設にかかりました。明治専門学校は敷地十万坪(約三十五万平方メートル)、市内安倍山から樹木を移植して基本計画を立てましたが、それから百年経った今、学内は、北九州市内では他に見られないような鬱蒼たる森林公園の景観をなしています。学校の建設にあたって、学校の敷地の一番奥まった所に、安川家、松本家の自宅を新築し、一家は遠賀郡芦屋町から戸畑に移りました。辰野金吾設計になるいまの西日本工業倶楽部です。

明治専門学校の特色の一つは、敷地内に学生寮は勿論のこと、教職員官舎、教職員子弟のための小学校まであったことです。これは敬一郎の考えで、学生は日ごろから、成るべく教官と人間的な交流に務め、ただ技術の習得だけでなく、人間的な修養にも努めることを目的として、教官と学生とが日頃から交流しやすいようにと考えて、教職員官舎を学校敷地内に設けたのです。教職員が住めば家族も一緒に生活する、家族が一緒に住めば、子供のための小学校が必要だ、それでできたのが明治小学校です。私が通った中学校は小倉にありまして、同級生に明治小学校出身が多く、それが皆優等生ばかりで、ひどく劣等感をもったのを、いまでも忘れません。
こうして一九○九年(明治四十二)四月、明治専門学校が開校しました。明治専門学校はその後も敬一郎・健次郎の私財を投じての努力により、全国でも珍しい四年制の専門学校として、優秀な人材を育ててきました。その後、大正初めの物価の高騰や、大学昇格問題など色々な問題が重なり、四年制の学制を維持することを条件にして、一九二一年(大正十)安川敬一郎は、学校を国に献納し、翌大正十一年六月財団法人明治専門学校を解散しました。戦後一九四九年(昭和二十四)五月、明治専門学校は九州工業大学となり、現在に至っています。また、明治小学校も同じ年の一九四九年(昭和二十四)、ノートルダム修道会の経営に移され、小中高一貫教育の学校として、地域社会に大きく寄与しています。

明治専門学校創立の年、敬一郎は六十才、健次郎は三十九才です。還暦の父と、不惑の息子は、どちらも働き盛りでした。学校の行事には、必ず親子そろって出席しました。この頃敬一郎親子は、明治専門学校の創立の他にも、豊国炭坑の買収、明治炭坑・赤池炭坑・豊国炭坑を纏めての明治鉱業株式合資会社の設立、明治紡績(戦時中敷島紡績と合併)・若松築港株式会社の設立など、多忙なスケジュールがいっぱい詰まっていました。どの事業を見ても、敬一郎が先行して健次郎が纏めるという図式になっています。

敬一郎は明治二十年代から、日中親善を単に政治上の空念仏に終わらせない為には、日中合弁事業をやって経済的に利害を共通させることが肝要だと主張しています。中国とは色々な接触がありましたけれども、いずれの場合も実践的役割を果たしているのは、健次郎です。
石坂泰三は『松本健次郎伝』の序文のなかで、「敬一郎・健次郎両翁の事業場の関係は、世の父子相伝の関係とは異なり、表裏一体というか、一心同体というか」といい、また松本健次郎伝の著者劉寒吉は「この二人は、親子であり、夫婦であり、形影のそれである」といっています。明治、大正、昭和の三代にわたって、明治の理想主義を貫いた親子二代の実業人というべきでしょう。

大正七年、敬一郎は七十才で引退、『子孫に遺す』を執筆して、一族一門の戒めとしました。大正九年には男爵に叙せられました。しかしこの受爵は一代限りと申しでて、遺族には継がせませんでした。昭和八年、八十五才で逝去、病気は心不全でした。九州工大の中庭には、敬一郎自筆の書『錬心壮胆』と刻んだ石碑が建っています。広田弘毅のご父君の手になるものです。

敬一郎引退の翌年、明治鉱業株式合資会社を明治鉱業株式会社に改組、健次郎は社長に就任しました。

健次郎は、政治には余り関心を示しませんでしたけれども、広田弘毅だけは学生の頃から可愛がり、学資の援助なども続けていました。広田が組閣の大命を受けたとき、真っ先に健次郎に電話を入れ、組閣本部に入って助力して欲しいと頼みました。健次郎は「実業家である自分が組閣本部に出入りするのは、広田のためにならぬ」といって、上京することを辞退しました。健次郎らしい潔い行動です。

九州工業大学の中庭には、安川敬一郎の書『錬心壮胆』を刻んだ石碑が建っています。広田弘毅の父君の手になるものです。
健次郎は昭和四年、明治鉱業の社長を弟の清三郎に譲りました。清三郎の人柄は、先に書いた通りで、健次郎の激しさ、厳しさとは正反対に、温和でどことなく教育家を思わせるところがあり、従業員教育に熱心な経営者といっていいでしょう。

その後、健次郎の活動の場は東京に移り、昭和八年石炭鉱業連合会々長、昭和十六年などの要職を歴任し、昭和二十年には日本経済連盟会々長を務めて、戦後の復興に尽力しました。

健次郎は九十三年の長寿を保った後、一九六三年(昭和三十八)脳軟化症でこの世を去りました。
因みに、松本健次郎は一九三八~三九年の地区ガバナーを務め、その次男松本兼二郎は、長年国際ロータリーの日本代表として、ロータリーに関する情報の普及に功績があり、また、ハロルド・トーマスの名著『ロータリー・モザイク』の訳者としても知られています。

(菅 正 明)

もう半年ほどまえのことですが、小林陽太郎の『企業の社会的責任』という論文が目につきました。私のような経済には門外漢のものにとっても、興味を引く内容でした。同氏は、富士ゼロックス会長で経済同友会の終身幹事だそうです。その内容を要約しますと、つぎのようになりましょうか。

「最近CSR(企業の社会的責任)という横文字が、流行り言葉のように頻繁に使われるようになった。この言葉は洋の東西を問わずビジネスの王道として受け継がれたものである。しかしながら、横文字の目新しさに惹きつけられただけで、一時的なブームに終わってしまう危険性がある。CSRは、企業経営の基本中の基本であるが、企業が巨大化するほど、これを果たすのは容易なことでない。それには二つの仕組みが必要だ。その一つはコーポレート・ガバナンス(企業統治)である。これは経営者の資質と業績とを評価するためのもので、現代企業では、社長に権力が集中して独裁状態になりやすいから、それを社外取締役の委員会で、客観的に監督評価しようという発想だ。いま一つは、企業をその経済的成果だけでなく、環境保全や社会的側面、従業員の人間性への配慮などから多面的に評価する企業評価制度だ。いま企業は、目新しい経営のノウハウに振り回されることなく、経営の原点に立ち返る素直さと、それを徹底する強い意志を持つことだ。」

二十世紀は、大量生産、大量消費、大量殺戮、そして大量廃棄の時代でしたから、それを受け継いだ二十一世紀になって、企業の社会的責任というこれまでには余り聞かれなかった言葉が流行るのは、私ども素人が考えても当然の成り行きのように思われます。ことに企業も地球規模で巨大化してきますと、そのリーダーたちはおりからの大量の情報に振り回されて、ある人は無力感の虜となり、またある人は独裁的な経営者として、権力を欲しいままにするかも知れません。そのような思いをもっていたときに、小林論文を読んだものですから、なるほどなとその内容が頭のなかに残っていたのです。

企業の社会的責任には、合力知工によりますと「公益に照らして行うべきでないことを行わない責任」と「企業経営に際しての総括的な倫理ビジョン、すなわち倫理的経営理念の遂行責任」の二つがあります。もっとも、企業の唯一の責任は、最大の利潤を上げることであって、効率的な利益追求こそが只一つ守るべき企業倫理だという考えもありますけれども、いまの時代には、この考えは通用しないでしょう。平たくいいますと、儲けるだけでは駄目で、作ってよろこび、売ってよろこび、お客が買ってよろこぶような商売をやれということです。

ところでいったい、企業といいますか会社が責任をとるとはどういうことなのでしょうか。個人ならともかく、会社が責任をとることが可能なのかという疑問がおこります。奥村宏の著書からの孫引きでまことに申し訳ないのですが、フリードマンという人が次のようにいっています。

「もともと責任というものをもつことのできるものは、人間の他にはないはずだ。株式会社は擬制法人であり、その意味で擬制的責任をもっているかもしれない。しかし、全体としての企業は、この曖昧な意味においてすら、責任をもっているということはできない。」

責任をもつことができるのは人間だけだというのは、極めて重大な指摘であり、納得できることです。擬制というのは法律では、違うものを便宜上法的には同じだとみなして、同一の法的効果を挙げようとするものですから、それはそれでいいのですが、では会社が責任をどうとればいいのかとなりますと、賠償金を支払うくらいはやっていますけれども、どうもしっくりしません。この話の資料を調べているとき、たまたま関電美浜原発の事故がありまして、全原発の臨時検査で二次系配管に、新たな点検漏れが相次いで発覚しました。そのとき関電の社長が「いま、見つかってよかった」と、他人事のような発言をして、地元の顰蹙をかったそうです。会社のおかれている立場と経営トップとのあいだに、意識の上でかなり大きなずれがあるということでしょう。奥村宏からもう一つ引用します。

「企業が法人という形をとる限り、その法人には身体はなく、意識もないのだから、それが責任の主体になりうるということはありえない。責任意識がないものに社会的責任を自覚せよといってもそれは無理である。そこで二十一世紀の新しい企業像に求められるのは、いかにして責任の主体になれるような企業を作っていくかということである。」

企業活動の責任は、その企業の代表者がとらなければならないというのです。そのためにトップは、常に企業が社会的責任を果たしつつ活動を続けているかどうか、チェックし会社をリードしていかなければならないのです。責任をとるということは、問題をおこした企業のトップが、テレビのまえで、ただ頭を下げればよいというのではありません。経営者は責任の主体であることを忘れるなということです。十年ほど前になりますけれども、環境問題に関連して、『経団連企業行動憲章』という印刷物を手に入れたことがあります。一九九六年十二月に発行されたものですが、その第四項に環境問題についての取り組みに関するものがあり、第九項に、「経営トップは、本憲章の精神の実現が自らの役割であることを認識し、率先垂範の上、関係者への周知徹底と社内体制の整備を行うとともに、倫理観の涵養に努める。」と、経営トップの責任を大きく求めています。表現が難しく頑なで、若い人にはとっつきにくいところもあるでしょうが、要するに企業の社会的責任は経営トップにあるということです。

私のこの小冊子で取り上げた人たちは、武藤山治にせよ森村市左衛門にせよ、事業を進めるうえに、日本のためにとか社会のためにという理念があり、その目的を実現するために企業活動に専念したということがあります。企業ですから儲けることは勿論目的ではありますけれども、それも国のため社会のためという『志』がありました。その『志』が事業の発展をもたらし、私どもの心をうつのです。

ここでいっておきますが、ある企業が美術展を開いて文化活動に貢献したとか、スポーツ大会の協賛をしたというような社会奉仕的パーフオーマンスを行うことがありますけれども、これは企業が企画した宣伝活動なので、企業がそれによって社会的責任を果たしている訳ではありません。

話はかわりますけれども、もともとロータリーは、零細企業からせめて小企業までのオーナーと弁護士など専門職業者の集まりでした(もっとも日本では、弁護士や医師などの専門職が会員になったのは、戦後のことです)から、職業奉仕という考えも抵抗なしに受け入れられました。ところが企業が次第に大きく成長して、いまでは地球規模の巨大企業になり、その企業の幹部の人々がロータリーの有力メンバーになってきました。かくして巨大化したロータリーで、「ロータリーとは職業奉仕の団体である」といいましても、それを実感として受け入れることのできる会員は、何人いるでしょうか。何年かまえから「ロータリーは国際奉仕の団体である」とその主張が変わりましたが、それもやむをえないことかも知れません。しかしながら、企業の社会的責任が問題にされているということは、巨大化しつつある企業にも、職業奉仕の思想と行動とが求められているということで、ロータリーが創立以来百年のあいだ唱え続けてきた職業奉仕は、やはり二十一世紀にも決して忘れられてよいものではないのです。

私たち日本人にとって、職業奉仕というのは取っ付きにくい言葉ですし、職業奉仕について書いたものを読めば読むほど、分からなくなります。そのなかで、職業奉仕とはなにかについて明確に答えてくれるのは、佐藤千寿と深川純一のお二人でしょう。このお二人は、ロータリーの語り部とでもいったらいいかも知れません。

佐藤千寿は、千住金属工業株式会社の会長で東京東ロータリー・クラブの会員、一九七四―七五年度第三五八地区のガバナーを務めました。『私本 人作りロータリー』の著者です。『私本 人作りロータリー』は、ロータリーのバイブルのようなもので、ロータリーについてなにか疑問があるときは、この本を開くとたちどころに問題は解決します。古染付にも造詣の深い方で、一家の言をもっておられます。

佐藤千寿PGの会社の社是は、『最大となることを望まず 最良となることを望む』だそうです。会社の創立はいつか知りませんけれども、大正、昭和、平成と、拡張拡大の時代に、『最大となることを望まない』ことを社是とするなど、なかなかできないことです。佐藤PGは、『スモール イズ ビューテイフル』のなかの文章を引用して、拡大思考にブレーキをかけていますが、私にいわせれば、シューマッハーは、佐藤PGの会社経営法をみて、この本のヒントを得たといったほうが、しっくりきます。
佐藤PGは、四国巡礼の後「ロータリーは間柄の美学だ」という説をたてました。もともと佐藤PGは、色々な説を唱える傾向がありまして、「ロータリーの精神は欲望の制御だ」などといいますのは、そのなかでの名説だと思います。

深川純一は弁護士で、学校法人大阪学園理事長です。伊丹ロータリー・クラブの会員で、一九九○―九一年度第二六八地区のガバナーでした。深川PGは職業が弁護士だけあって、職業奉仕論もなかなか理路整然としています。「ロータリーは、職業人の最も優れた倫理運動だ」という彼の所説には、首肯できない点もありますけれども、その説くところを私たちの職業と照らし合わせて考えますと、なかなか深いものがあります。

佐藤、深川お二人の話は、夫々全く性格の異なったものではありますが、聞く人をして納得させずにはおきません。何故お二人の話が分かやすいのかといいますと、どちらもロータリー専門語―ロータリー語といってもよいかも知れませんーを使って話さないからだと思います。ロータリーの会員ならこのくらいのことは分かっているだろうという前提で話を進めていきますと、会員のあいだには、暗黙のうちにロータリーについての共通感覚のようなものができあがっていて、以心伝心通じあっていると思い込んでいるものですから、つい言葉足らずになって、いつのまにか表現内容に飛躍があったり、独りよがりの発言になってしまいます。職業奉仕が、本を読めば読むほど分からなくなる訳は、そこにあるのです。私がこの物語を書きましたのも、ロータリーとは全くかかわりのないところで、ロータリーと同じ職業観が生きている、その物語を通じて、職業奉仕とはこんなものかと感じて頂きたかったからにほかなりません。

二十世紀の日本は日露戦争の後、第一次世界大戦、昭和恐慌、第二次世界大戦とその後の占領と復興、戦後の石油ショック、通貨危機、バブルの発生と崩壊、更には市場経済のグローバル化など、経済的クライシスの連続といってもよいようななかを、多くの創造力に富んだ個性豊かな人々が、その都度彼らの強靭なリーダーシップをもって、乗り切ってきました。その歴史をいまから振り返ってみますと、二十世紀日本を支えたのは、維新後日本の近代化に向かっての、勤労と禁欲の精神を旨とした明治の精神ではなかったかと思います。この小冊子では、そのうちの幾人かを取り上げましたが、彼らに共通したキャラクターはなにかを探ってみますと、次の五項目になるのではないでしょうか。

 ①確乎たる精神力と経営理念
 ②国家のため、社会のために尽くすという使命感
 ③非合理的手段は講じないという正義感
 ④金銭的なものは二次的
 ⑤正確な現状認識、卓抜なアイデアとその実行

企業の社会的責任をとるのは、その企業の経営責任者であるトップ以外にはないと冒頭で申しましたが、企業が巨大化するほどその経営トップの責任は重く、彼の企業倫理観が問われることになります。いい換えますと、経営者個人の問題として、職業奉仕はますますその重さをますということです。

~あとがき~

地区の職業奉仕委員会カウンセラーをお引き受けすることになり、なにかお役に立つことはないかと思って、この小冊子を作った。このなかでは、ロータリーについてのことはあまり取り上げてない。ロータリーとは別の世界で、ロータリーの職業奉仕があるということをいいたかったからである。そうして、ロータリーを離れたところから職業奉仕を眺めると、それがもっと理解しやすくなると考えたのである。まあ、職業奉仕の副読本のつもりで読んでいただければ幸いである。

冊子の整理はいつものことながら介護老人保健施設『しんわ苑』の海見宏志事務長を煩わした。紙面をかりて感謝する。

(菅 正 明)

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